宮崎駿 (監督)
序
龍
- 黒龍
- 金龍
大日孁女神(おおひるめのかみ)
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日本神話に主神として登場する神。女神と解釈され、高天原を統べる主宰神で、皇祖神とされる。『記紀』において、アマテラスは太陽神の性格と巫女の性格を併せ持つ存在として描かれている。
太陽神、農耕神、機織神など多様な神格を持つ。天岩戸の神隠れで有名な神で、神社としては三重県伊勢市にある伊勢神宮内宮が特に有名
- 名称
『古事記』においては天照大御神(あまてらすおおみかみ)、『日本書紀』においては天照大神(あまてらすおおかみ、あまてらすおおみかみ)と表記される。別名、大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)。神社によっては大日女尊(おおひるめのみこと)、大日孁(おおひるめ)、大日女(おおひめ)とされている。
『古事記』においては「天照大御神」という神名で統一されているのに対し、『日本書紀』においては複数の神名が記載されている。伊勢神宮においては、通常は天照大御神の他に天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、あるいは皇大御神(すめおおみかみ)と言い、神職が神前にて名を唱えるときは天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)と言う。
なお、「大日孁貴神」の「ムチ」とは「貴い神」を表す尊称とされ、神名に「ムチ」が附く神は大日孁貴神のほかには大己貴命(オオナムチ、大国主)、道主貴(ミチヌシノムチ、宗像大神)などわずかしか見られない
国之常立神(くにのとこたちのかみ)
- 国之常立神(くにのとこたちのかみ)
- 日本神話に登場する神。『日本書紀』においては、初めての神とされる。日本神話の根源神として一部神道・新宗教で重要視されている。
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『古事記』では国之常立神、『日本書紀』では国常立尊(くにのとこたちのみこと)と表記される。別名を国底立尊(くにのそこたちのみこと)ともいう。
『古事記』において神世七代の最初の神とされ、別天津神の最後の天之常立神(あめのとこたちのかみ)の次に現れた神で、独神であり、姿を現さなかったと記される。『日本書紀』本文では天地開闢の際に出現した最初の神としており、「純男(陽気のみを受けて生まれた神で、全く陰気を受けない純粋な男性)」の神であると記している。他の一書においても、最初か2番目に現れた神となっている。『記紀』ともに、それ以降の具体的な説話はない。
神名の「国之常立」は、「国」を「国土」、「常」を「永久」と解し、名義は「国土が永久に立ち続けること」とする説や、日本の国土の床(とこ、土台、大地)の出現を表すとする説など諸説ある。
伊勢神道では天之御中主神、豊受大神とともに根源神とし、その影響を受けている吉田神道では、国之常立神を天之御中主神と同一神とし、大元尊神(宇宙の根源の神)に位置附けた。その流れを汲む教派神道諸派でも国之常立神を重要な神としている。
- アラハバキは、日本の民間信仰的な神の一柱である。
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起源は不明な点が多く、歴史的経緯や信憑性については諸説ある。
荒脛巾神の祠がある神社は全国に見られるが、その中には客人神(門客神)としてまつられている例が多い。客人神については諸説があり、「客人(まれびと)の神だったのが元の地主神との関係が主客転倒したもの」という説もある。
蝦夷たち
馬火衣(まかい) 男
- 集落の長の息子
阿弓良(あてら) 男
- 馬火衣(まかい)の息子
- 落石で母親を失ったばかりの赤ちゃん
音羽(おとわ) 女
呂古麻(ろこま) 男
- 阿弓良(あてら)より2歳年上のフラの子ども
- 香矢(かや)の次男
- 香矢(かや)の姉夫婦の養子になる
香矢(かや) 女
- 呂古麻(ろこま)の母親
伊地万呂(いちまろ)
- 呂古麻(ろこま)の伯父
阿字加(あじか) 男
- 馬火衣(まかい)の父親
- 集落の長
衣留馬(いるま) 男
- 村の年長の男の子
京都
萩原良彦(はぎわらよしひこ) 男
遠藤(えんどう) 男
- 萩原良彦のもと同僚。
- 今は研修をへて本社勤務。
赤ちゃん 女
- 遠藤の子供
白鳥陵(はくちょうりょう)
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白鳥陵(しらとりのみささぎ)
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ヤマトタケルの陵。
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ヤマトタケルが伊勢国能褒野で薨じ、同地に「陵」を造って葬ったことは、『古事記』『日本書紀』ともに一致するところであるが、さらに白鳥(『古事記』では「八尋白智鳥」)と化して西方に飛び、降り留まった地にあらたに「陵」を起こしたという記事は両書で異同がある。
『古事記』においては能褒野から白鳥となって飛び、河内国志幾に留まり、そこに「陵」を起こし、これを「白鳥陵」と呼んだが、のちここからまたも白鳥となって飛び、ついに昇天したという。 つまり『古事記』の白鳥陵は河内国志幾に営んだ「陵」である。
『日本書紀』巻第七によれば白鳥となって能褒野陵から出て、まず大和国琴弾原(奈良県御所市冨田)にとどまり、そこに「陵」を造ったところ、さらに白鳥となって河内国旧市邑にいきとどまったので、そこにも「陵」を造ったが、また白鳥となって天に上ったという。 『日本書紀』では最初の能褒野陵、大和琴弾原の「陵」、河内国旧市邑の「陵」と三陵を時人は「白鳥陵」とよんだという。
皇子の墓を「陵」というのは、『古事記』、『日本書紀』においてヤマトタケルの能褒野陵、2つの白鳥陵のみで、例外的である。
のちにヤマトタケルの墓を「能褒野墓」と定め、また『日本書紀』の所伝をも尊重し、「白鳥陵」2つを能褒野墓に附属するものとした。
三浦(みうら)
- 萩原良彦のバイト先のチーフマネージャー。
大阪・枚方
- 史跡公園
黄金(こがね)
- 方位神(ほういじん)
- 狐
百済王敬福(くだらのこにしききょうふく)
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百済王 敬福(くだらのこにきし きょうふく)
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天平21年(749年)陸奥守在任時に陸奥国小田郡から黄金を献上したことで知られる。また橘奈良麻呂の乱や藤原仲麻呂の乱でも功績があった。
- 経歴
陸奥介を経て、天平11年(739年)従五位下に叙爵し、天平15年(743年)に陸奥守に昇進する。
当時、聖武天皇は東大寺大仏の建立を進めており鋳造まで終えていたが、巨大な仏像に鍍金するための黄金が不足し、遣唐使を派遣して調達することも検討されていた。全国にも黄金探索の指令が出されていたが、これまで日本では黄金を産出したことがなかった。天平18年(746年)4月に敬福は陸奥守を石川年足と交替して上総守に転任するが、9月には従五位上へと加叙を受けて陸奥守に再任されている。奇妙な人事だが、あるいはこの時に後述する黄金探索の手がかりがあった可能性もある。また当時、陸奥では緊急の事態に対応するために諸国から徴発した鎮兵を置いていたが、敬福は他国からの徴発を停止し、陸奥国内から兵士を徴発して鎮兵に加える対応を行っている。その後この対応は停止されたと見られるが、神護景雲2年(768年)になって他国出身の鎮兵に多数の逃亡者が発生すること、鎮兵の食料を前線に運搬するための負荷が大きいことを理由に、陸奥国内からの鎮兵徴発が復活している[1]。
天平21年(749年)になって、敬福は朝廷に対して陸奥小田郡で産出した黄金900両を貢上した[2]。聖武天皇は狂喜して東大寺大仏殿に行幸し、仏前に詔を捧げると共に、全国の神社に幣帛を奉じ、大赦を行っている。この功労により敬福は従五位上から従三位へ七階級特進し、産金に貢献した他田舎人部常世・小田根成も十階以上昇進して外従五位下に叙せられた[3]。さらに、年号は天平から天平感宝、次いで天平勝宝と改められている。歌人・大伴家持は次のように黄金産出を寿ぐ。
確かな文献はないが、黄金を発見したのは敬福配下の百済系鉱山師ではないかとも言われている。日本最初の産金地である小田郡の金山は現在の宮城県遠田郡涌谷町一帯であり、同町黄金迫(こがねはざま)の黄金山神社は延喜式内社に比定される。現代の調査でも黄金山神社付近の土質は純度の高い良質の砂金が含まれているという。なお、この黄金献上もあって、敬福は聖武天皇から大変な寵遇を受け、多くの恩賞や賜り物を与えられたという[5]。こののち、10年余に亘って年間900-1000両もの金が陸奥国司を介して朝廷に貢納されたと見られ[6]、陸奥国から平城京に運ばれた計10446両もの金によって東大寺大仏が完成している[7]。
孝謙朝に入り、天平勝宝2年(750年)宮内卿として京官に復す。時期を同じくして、河内国交野郡に百済寺を建立し、一族の本拠地を移したと考えられている。天平勝宝4年(752年)4月9日大仏開眼の法要が営まれ、5月26日には敬福は常陸守に任ぜられた。左大弁を経て、天平勝宝9歳(757年)には出雲守にも補せられているが、これらの地方官への任官は実際に任地に赴かない遙任と推測される。同年7月に橘奈良麻呂の乱が勃発すると、大宰帥・船王らと共に衛府の人々を率いて黄文王・道祖王・大伴古麻呂・小野東人ら反乱者の勾留警備および拷問の任に当たっている[8]。
淳仁朝に入ると地方官を歴任し、天平宝字3年(759年)伊予守に任官し、天平宝字5年(761年)に新羅征伐の議が起こると敬福は南海道節度使に任命された。これは紀伊・阿波・讃岐・伊予・土佐・播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防など12カ国の軍事権を掌握する役目である。天平宝字7年(763年)には讃岐守へ転任する。
天平宝字8年(764年)に藤原仲麻呂の乱が起きると、兵部卿・和気王と左兵衛督・山村王と共に敬福は外衛大将として、藤原仲麻呂の支持により即位していた淳仁天皇を幽閉する役目を引き受ける[9]。結局、淳仁天皇は淡路国に配流となり、孝謙上皇が重祚した(称徳天皇)。天平神護元年(765年)称徳天皇の紀伊国行幸時には御後騎兵将軍として警護に当たり[10]、その帰途天皇が河内国の弓削寺に行幸した際、敬福らは百済舞を奏している(この時の官職は刑部卿)[11]。
- 奈良時代の渡来(とらい)系官人。百済王(くだらのこきし)敬福ともいい,〈きょうふく〉とも読む。父は百済の義慈(ぎじ)王の曾孫(そうそん)郎虞(ろうぐ)。738年には陸奥介(むつのすけ)でのち陸奥守となり東北経営に従事した。749年陸奥国小田郡で国内初めての金を産出,敬福は鋳造なった大仏の塗金料として黄金900両を献じた。性放縦(ほうしょう)にしてこだわらず政治の量を備えたという。極官は従三位刑部卿(じゅさんみぎょうぶきょう)。
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東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)
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聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)が行われた。その後、中世、近世に焼損したため大部分が補作されており、当初に制作された部分で現在まで残るのはごく一部である。 「銅造盧舎那仏坐像」の名で彫刻部門の国宝に指定されている。
正式には大仏は「盧舎那仏坐像」、大仏殿は「金堂」というが、本項では以下「大仏」、「大仏殿」とする。また、文中の( )の年はユリウス暦、月日は全て和暦、宣明暦の長暦による。
- 百済王 敬福のひ孫
藤波孝太郎(ふじなみこうたろう) 男
- 萩原良彦の昔なじみ
- 大主(おおぬし)神社の権禰宜
- 神職の職階の一つで、禰宜の下位にあたる最も一般的な職階。宮司および禰宜が一般的に、1社に1人ずつと決められているのに対して、権禰宜には人数制限は特に設けられていない。権禰宜の下位に「出仕」などの職階が置かれることもあるが、それらは神職には含まれない。
藤箕(ふじみ)
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箕(み)とは穀物の脱穀、選別、調整、運搬に使用される農具。箕の文字は、本来、「其(き)、基」とともに「四角」を意味し、甲骨文では、平らに編んだ四角な大ざるのような用具のことで、この四角な箕が中国華北地域に発し、朝鮮を経て伝えられたものである。わが国では、奈良県の唐古(からこ)遺跡から竹製の箕と思われるものが出土したり、古墳の副葬品に醸造用の箕を模したものがみられ、箕が古くから使われていたことが察せられる。普通、箕は、藤(ふじ)づるやヤナギなどを縦とし、へぎ板や割り竹を横にして、むしろ編みにし、一方を開け口とし、他の三方は囲んで木や竹の縁をつける。使い方は、穀物や豆類などを入れ、両手で縁を持って揺り動かし、風にあおりながら穀物と塵埃(じんあい)や籾殻(もみがら)などをえり分ける(これを簸(ひ)るという)。箕は、産地ではその用途によって、穀物の調整に使われるものを穀箕(こくみ)、製茶用を茶箕、製粉用を粉(こな)箕、土運びや砂利運びに使うものを雑(ざつ)箕などといって区別している。また製作材料により、板箕、皮箕、竹箕、藤箕などの種類がある。板箕は縁まで板でつくり、皮箕は木の皮をはぎ、これを生(なま)のうちに折って箕の形にとじたもの。竹箕はタケで主要な部分を網代(あじろ)編みか、ざる編みにしたもの。藤箕はイタヤ、ウルシ、シノダケなどに藤づるを織り込んだもので、じょうぶで軽いので全国的に用いられた。箕は五升(しょう)箕、一斗(と)箕、一斗五升箕などの規格があり、箕つくり、箕なおしとよばれる山窩(さんか)など山に住む人々によって供給されることが多く、山形県の次年子(ずねんこ)、代(たらのきだい)など、東北地方には、村中が箕づくりを業としている所もあった。
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一方、箕に関する俗信や呪法(じゅほう)も多く、たとえば、箕を裏返しにするのは不幸のあったときで、普段箕を裏返しにしておくと縁起が悪いといって忌み嫌った。また山形県地方では、嫁入りに一升枡(ます)を入れた箕を嫁の頭上にのせたり、鹿児島県の漁村で箕立てといって、昼間夫婦が同衾(どうきん)しているときには、箕を門口に立てるという習慣があった。東京浅草のお酉(とり)様の土産(みやげ)に商売繁盛の縁起物として、熊手(くまで)と箕を買ってくることはよく知られている。なお、箕との関係で、南九州から沖縄など南西諸島にかけて使われているバラとよぶ脱穀用・収穫用の網代円板形のざるは、箕に類似のもので、注目に値する。[宮本瑞夫]
大地主神(おおとこぬしのかみ)
- 地主神(じぬしのかみ、ぢぬしのかみ)
- 日本の宗教(特に神道)における神の一類型である。「とこぬしのかみ」「じぬしがみ(ぢぬしがみ)」「じしゅのかみ(ぢしゅのかみ)」とも読まれる。
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日本の神道などでは、土地ごとにそこを守護する地主神がいる、とされている。土地は神の姿の現れであり、どんな土地にも地主神がいる、とする説もある。神社や寺院に祀られることが多く、その地主神は、その神社、寺院が建っている地域の地主神である。
古くは『古語拾遺』(9世紀成立)にあり、大地主神(おおとこぬしのかみ)が田を営むとある。『延喜式』(10世紀成立)では、神祗五(神祗編第五巻)二十二条にて斎宮祈年祭に関して地主神の記述があるほか、同巻六十条にて記述がある。
地主神への信仰の在り方は多様であり、荒神、田の神、客人神、屋敷神の性質がある地主神もいる。一族の祖先が地主神として信仰の対象になることもある。地主神を祀る(まつる)旧家からの分家に分祀されたり、屋敷の新設に伴い分祀されることもある。 御神体も多様で、自然石、石塔、祠(ほこら)、新しい藁束、御幣(ごへい)などがある。祀る場所もまた多様で、神社、寺院のほか、丘や林の祠(ほこら)、屋敷、屋敷の裏山で祀り、一族の墓が神格化する地域もある
田道間守命(たじまもりのみこと)
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道間守(たじまもり/たぢまもり)
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田道間守の生まれについて、『日本書紀』垂仁天皇3年条では天日槍(新羅からの伝承上の渡来人)の玄孫で、清彦の子とする。一方『古事記』応神天皇段では、天之日矛(天日槍)の玄孫は同じながら多遅摩比那良岐(但馬日楢杵)の子とし、清日子(清彦)は弟とする。
『日本書紀』垂仁天皇紀によれば、垂仁天皇90年2月1日に田道間守は天皇の命により「非時香菓(ときじくのかくのみ)」すなわちタチバナ(橘)を求めに常世の国に派遣された。しかし垂仁天皇99年7月1日に天皇は崩御する。翌年(景行天皇元年)3月12日、田道間守は非時香菓8竿8縵(やほこやかげ:竿・縵は助数詞で、葉をとった8枝・葉のついた8枝の意味)を持って常世国から帰ってきたが、天皇がすでに崩御したことを聞き、嘆き悲しんで天皇の陵で自殺したという。
『古事記』垂仁天皇段によれば、多遅摩毛理は「登岐士玖能迦玖能木実(ときじくのかくのこのみ)」(同じく橘)を求めに常世国に遣わされた。多遅摩毛理は常世国に着くとその実を取り、縵8縵・矛8矛を持って帰ってきた。しかしその間に天皇は崩御していたため、縵4縵・矛4矛を分けて大后に献上し、もう縵4縵・矛4矛を天皇の陵の入り口に供え置いて泣き叫んだが、その末に遂に死んだという。
そのほか、『万葉集』巻18 4063番では田道間守の派遣伝承を前提とした歌が、巻18 4111番(反歌4112番)では田道間守を題材とする歌が載せられている
はぐれ狐
- 白狐(びゃっこ)
- 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の眷属
吉田穂乃香(よしだほのか)
- 大主神社の宮司の娘
- 大学年生
- 神や精霊などを視る「天眼(てんげん)」の持ち主
望
- 吉田穂乃香の友人
宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
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日本神話に登場する女神。『古事記』では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、『日本書紀』では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記する。名前の「宇迦」は穀物・食物の意味で、穀物の神である。また「宇迦」は「ウケ」(食物)の古形で、特に稲霊を表し、「御」は「神秘・神聖」、「魂」は「霊」で、名義は「稲に宿る神秘な霊」と考えられる。記紀ともに性別が明確にわかるような記述はないが、古くから女神とされてきた。
伏見稲荷大社の主祭神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されている。ただし、稲荷主神としてウカノミタマの名前が文献に登場するのは室町時代以降のことである(後述)。伊勢神宮ではそれより早くから、御倉神(みくらのかみ)として祀られた。
大年神(おおとしのかみ)
- 年神、大年神(としがみ、おおとしのかみ、歳神とも)は、日本神話、神道の神である。
- 日本神話では、『古事記』において須佐之男命と神大市比売(かむおおいちひめ・大山津見神の娘)の間に生まれた大年神(おおとしのかみ)としている。両神の間の子にはほかに宇迦之御魂神がおり、これも穀物神である。また、大年神と香用比売(カグヨヒメ)の間の子に御年神(みとしのかみ、おとしのかみ)、孫に若年神(わかとしのかみ)がおり、同様の神格の神とされる。
宗近(むねちか)
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三条 宗近(さんじょう むねちか)
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平安時代の刀工。山城国京の三条に住んでいたことから、「三条宗近」の呼称がある。
古来、一条天皇の治世、永延頃(10世紀末頃)の刀工と伝える。観智院本銘尽には、「一条院御宇」の項に、「宗近 三条のこかちといふ、後とはのゐんの御つるきうきまるといふ太刀を作、少納言しんせいのこきつねおなし作也(三条の小鍛冶と言う。後鳥羽院の御剣うきまると云う太刀を作り、少納言信西の小狐同じ作なり)」とある。日本刀が直刀から反りのある彎刀に変化した時期の代表的名工として知られている。一条天皇の宝刀「小狐丸」を鍛えたことが謡曲「小鍛冶」に取り上げられているが、作刀にこのころの年紀のあるものは皆無であり、その他の確証もなく、ほとんど伝説的に扱われている。実年代については、資料によって「10 - 11世紀」、「12世紀」等と幅がある。
現存する有銘の作刀は極めて少なく「宗近銘」と「三条銘」とがある。代表作は、「天下五剣」の一つに数えられる、徳川将軍家伝来の国宝「三日月宗近」。
作風は板目肌がよく約み、地沸がつき、小乱れ刃、匂が深く小沸がついて、三日月形の「打のけ」と称される刃文などが見られる。
吉光(よしみつ)
天目一箇神(あめのまひとつのかみ)
国之常立神(くにのとこたちのかみ)の眷属
- 荒脛巾神(あらはばきのかみ)・・・東の黒龍
- 黄金・・・西の金龍
『東日流外三群誌(つがるそとさんぐんし)』
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起源は不明な点が多く、歴史的経緯や信憑性については諸説ある。
荒脛巾神の祠がある神社は全国に見られるが、その中には客人神(門客神)としてまつられている例が多い。客人神については諸説があり、「客人(まれびと)の神だったのが元の地主神との関係が主客転倒したもの」という説もある。
二柱 過ち
福麻呂(ふくまろ)
天石(あまいし)
- 福麻呂の父で刀鍛冶の師
建御雷之男神(たけみかづちのおがみ)
経津主神(ふつぬしのかみ)
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『日本書紀』のみに登場し、『古事記』には登場しない。別名はイワイヌシ(イハヒヌシ)で、斎主神または伊波比主神と表記される。『出雲国風土記』や『出雲国造神賀詞』では布都怒志命(ふつぬしのみこと、布都努志命とも)として登場する。『常陸国風土記』に出てくる普都大神(ふつのおおかみ)とも同視される。
香取神宮(千葉県香取市)の祭神であることから、香取神、香取大明神、香取さま等とも呼ばれる。経津主神は、香取神宮を総本社とする日本各地の香取神社で祀られている。
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神格 剣の神、軍神 -
『日本書紀』巻第一(神代上)の第五段(神産みの段)の第六の一書では、伊弉諾尊(イザナギ)が火の神・軻遇突智(カグツチ)を斬ったとき、十握剣の刃から滴る血が固まって天の安河のほとりにある岩群・五百箇磐石(イオツイワムラ)となり、これが経津主神の祖であるとしている。第七の一書では、軻遇突智の血が五百箇磐石を染めたために磐裂神・根裂神が生まれ、その御子の磐筒男神・磐筒女神が経津主神を生んだとしている。巻第二(神代下)の第九段の本文も経津主神を「磐裂・根裂神の子、磐筒男・磐筒女が生(あ)れませる子」としている。『古語拾遺』にも「経津主神、是れ磐筒女神の子、今下総国の香取神是れなり」とある。
『先代旧事本紀』巻第一(陰陽本紀)によると、伊弉諾尊の剣の先から飛び散った血が湯津石村(ユツイワムラ、『書記』の五百箇磐石)に走り就くと磐裂・根裂神が出てきて、その子の磐筒男・磐筒女が経津主神を生んだ
伊達綱村(だてつなむら)
- 仙台藩四代藩主
『大建て替え』
大国主神(おおくにぬしのかみ)
須佐之男命(すさのおのみこと)
鹽竈(しおがま)の社
鹽土老翁神(しおづちのおじのかみ)
- シオツチノオジ(シホツチノヲヂ)は、日本神話に登場する神であり塩竈明神とも言う。『古事記』では塩椎神(しおつちのかみ)、『日本書紀』では塩土老翁・塩筒老翁、『先代旧事本紀』では塩土老翁と表記する。別名、事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさ)
熊襲(くまそ)
- 熊襲(くまそ)は、日本の記紀神話に登場する、現在の九州南部にあった襲国(ソノクニ)に本拠地を構え、ヤマト王権に抵抗したとされる人々、また地域名自体を表す総称である。古事記には熊曾と表記され、日本書紀には熊襲、筑前国風土記では球磨囎唹と表記される。
奈良
- 四つ岩
三由(さんゆ)
- 猪手(いのて)の息子、6歳
- 三男
末(すえ)
- 猪手(いのて)の長女で末っ子
乎麻呂(おまろ)
- 猪手(いのて)の長男
猪手(いのて)
- 土器作りをなりわいにしている
広売(ひろめ)
- 猪手(いのて)の妻
白(はく)
- 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の眷属の脱走狐
- はぐれ狐のこと
三柱 嘆きの空
百済王俊哲(くだらのにしきしゅんてつ)
- 百済王 俊哲(くだらのこにきし しゅんてつ)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族・武人。右京大夫・百済王理伯の子。官位は従四位下・陸奥鎮守将軍。勲等は勲三等
- 経歴
光仁朝の宝亀6年(775年)鎮守将軍・大伴駿河麻呂らに従って、陸奥国で叛乱を起こし桃生城に侵攻した夷俘を鎮圧・服従させ、俊哲は勲六等の叙勲を受ける(この時の位階は従六位下)。さらに宝亀9年(778年)には蝦夷征討に軍功があったとして勲五等に叙せられる。
宝亀11年(780年)3月に発生した宝亀の乱と前後して従五位下、次いで4月に従五位上と続けて昇進し、同年6月には反乱鎮圧のために鎮守将軍・藤原小黒麻呂の配下として陸奥鎮守副将軍に任ぜられる。また乱中、矢が尽きてさらには蝦夷に囲まれるという絶体絶命の状況に陥るものの、神力により救われたとして、同年12月に陸奥国の桃生・白河などの郡の神11社を官幣社に加えるように朝廷に申請し、許されている。結局、この時の蝦夷征討は十分な戦果を挙げられずに終わるが、天応元年(781年)に俊哲は正五位上と二階昇進し、勲四等の叙勲を受けている。
延暦6年(787年)何らかの事件に連座し日向権介に左遷されるが、延暦9年(790年)赦免され入京を許される。免罪の理由として、その武官としての才が惜しまれたため、または百済王氏を外戚とする詔が出されたことによる同氏への待遇の上昇のためであるとの説がある。延暦10年(791年)正月に蝦夷征討を目的に坂上田村麻呂と共に東海道に派遣されて兵士の検閲と武具の検査を実施、まもなく下野守に任ぜられ、さらに同年中に征夷副使・陸奥鎮守将軍を兼ねた。
- 系譜
- 父:百済王理伯
- 母:不詳
- 生母不明の子女
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
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坂上 田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)は、平安時代の公卿、武官。名は田村麿とも書く。
4代の天皇に仕えて忠臣として名高く、桓武天皇の軍事と造作を支えた一人であり、二度にわたり征夷大将軍を勤めて蝦夷征討に功績を残した。
薬子の変では大納言へと昇進して政変を鎮圧するなど活躍。死後は嵯峨天皇の勅命により平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、「王城鎮護」「平安京の守護神」「将軍家の祖神」と称えられて武神や軍神として信仰の対象となる。現在は武芸の神や厄除の大神として親しまれ、後世に多くの田村語り並びに坂上田村麻呂伝説が創出された。
坂家宝剣では坂家。
蕨手刀(わらびてとう)
- 蕨手刀(わらびてとう、わらびてがたな、わらびてかたな)は、日本の鉄製刀の一種。
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蕨手刀は、現在までおよそ280点ほどが日本全国で確認されており、その8割が北海道・東北地方から出土していることから蝦夷(えみし)が好んで使っていたことは間違いないが、必ずしも蝦夷の独占物であったというわけではなく、数こそ少ないものの鹿児島に至るまで全国に分布が広がっている。
西国の蕨手刀は蝦夷(俘囚)が移配にともなって携行したものとされてきたが、東国と西国では蕨手刀の型式に差があることから、この説は否定される。立鼓柄刀と同じく蕨手刀は蝦夷の古墳や遺跡に副葬され、蝦夷文化の特徴のひとつとなった。
蕨手刀の刃反りが発展し、毛抜形蕨手刀、毛抜形太刀に変化するとされてきたことから、日本刀の祖型の一つとして言及されることもある。これに対して津野仁は、方頭大刀のうち共鉄造りのものが日本刀の出発点であるとして、日本刀の起源に一石を投じた
坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)
- 坂上 苅田麻呂(さかのうえ の かりたまろ)は、奈良時代の公卿・武人。姓は忌寸のち大忌寸、大宿禰。大和守・坂上犬養の子。官位は従三位・左京大夫。勲等は勲二等。
- 系譜
- 父:坂上犬養
- 母:不詳
- 妻:畝火浄永の娘
- 生母不明の子女
道嶋嶋足(みちしまのしまたり)
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道嶋 嶋足(みちしま の しまたり)は、奈良時代の武人・貴族。氏姓は始め丸子(無姓)のち牡鹿連、牡鹿宿禰、道嶋宿禰。官位は正四位上・近衛中将。勲等は勲二等。
- 経歴
孝謙朝の天平勝宝5年(753年)大初位下の時丸子から牡鹿連に改賜姓される。天平宝字元年(757年)橘奈良麻呂の乱において、反乱実行時に敵側となるのを防ぐために、賀茂角足が事前に武勇に優れた者を自邸に呼んで酒盛りをしたが、嶋足は高麗福信・坂上苅田麻呂らの武人と共に招待されている[2]。天平宝字年間に授刀衛将曹に任じられる。
天平宝字8年(764年)9月の藤原仲麻呂の乱において、藤原仲麻呂の子・訓儒麻呂が勅使・山村王を襲撃して御璽と駅鈴を奪った際、嶋足は授刀衛少尉・坂上苅田麻呂と共に孝謙上皇の勅命を受けて、訓儒麻呂を襲いこれを射殺した。乱における武功により従七位上から一足飛びに十一階昇進して従四位下に昇叙、宿禰姓を賜姓された。翌月の10月には授刀少将兼相模守に任ぜられ、翌天平神護元年(765年)に勳二等の叙勲を受け、近衛員外中将に任じられる。こののち道嶋宿禰に改姓。
天平神護2年(766年)にも正四位下次いで正四位上に叙せられるなど、称徳朝にて地方豪族としては異例の昇進を遂げた。神護景雲元年(767年)陸奥国大国造。この間近衛中将に任ぜられる。神護景雲4年(770年)8月蝦夷の首長である宇漢迷公宇屈波宇らが朝廷軍との関係を断ち、配下と共に朝廷の支配が及ばない地に引き上げ、反攻の姿勢を示した際、嶋足は事実関係の検問のために現地に派遣された(宇漢迷公宇屈波宇逃還事件)。
光仁朝でも引き続き近衛中将(中衛中将)を務める傍ら、宝亀9年(778年)下総守、宝亀11年(780年)播磨守といった地方官や、内廐頭を兼務した。
萩原晴南(はぎわらはるな) 女
- 萩原良彦の妹
大主神社の宮司
- 穂乃花の父親
仙台
萩原敏益(はぎわらとします)
- 萩原良彦の祖父
萩原良彦に宣之言書を渡してきたじいさん
- 黄金が大神と呼ぶ者
- 宣之言書の御用を出している神
- 国之常立神(くにのとこたちのかみ)
- 『滅びと再生』
大日孁女(おおひるめ)
- 天照大御神(あまてらすおおかみ)
須勢理毘女(すせりびめ)
月読命(つくよみのみこと)
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『古事記』は月読命、『日本書紀』は月読尊と表記する。一般的にツクヨミと言われるが、伊勢神宮・月読神社ではツキヨミと表記される。
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記紀(古事記と日本書紀)において、ツクヨミは伊邪那岐命(伊弉諾尊・いざなぎ)によって生み出されたとされる。月を神格化した、夜を統べる神であると考えられているが、異説もある(後述)。
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ツクヨミは、月の神とされている。しかしその神格については文献によって相違がある。古事記では伊邪那岐命が黄泉国から逃げ帰って禊ぎをした時に右目から生まれたとされ、もう片方の目から生まれた天照大御神、鼻から生まれた須佐之男命とともに重大な三神(三柱の貴子)を成す。一方、日本書紀ではイザナギと伊弉冉尊(伊耶那美・イザナミ)の間に生まれたという話、右手に持った白銅鏡から成り出でたとする話もある。また、彼らの支配領域も天や海など一定しない。
この、太陽、月とその弟ないし妹という組み合わせは比較神話学の分野では、他国の神話にも見られると指摘されている。
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日本神話において、ツクヨミは古事記・日本書紀の神話にはあまり登場せず、全般的に活躍に乏しい。わずかに日本書紀・第五段第十一の一書で、穀物の起源として語られるぐらいである。これはアマテラスとスサノオという対照的な性格を持った神の間に静かなる存在を置くことでバランスをとっているとする説がある。同様の構造は、高皇産霊尊(高御産巣日神・たかみむすび)と神皇産霊神(神産巣日神・かみむすび)に対する天之御中主神(あめのみなかぬし)、火折尊(火遠理命(ほおり)・山幸彦)と火照命(ほでり・海幸彦)に対する火酢芹命(火須勢理命・ほすせり)などにも見られる。
ツクヨミの管掌は、古事記や日本書紀の神話において、日神たるアマテラスは「天」あるいは「高天原」を支配することでほぼ「天上」に統一されているのに対し、古事記では「夜の食国」、日本書紀では「日に配べて天上」を支配する話がある一方で、「夜の食国」や「滄海原の潮の八百重」の支配を命じられている箇所もある。この支配領域の不安定ぶりはアマテラスとツクヨミの神話に後からスサノオが挿入されたためではないかと考えられている。
日名照(ひなてる)
- 日名照額田毘道男伊許知邇神(ひなてるぬかたびちおいこちにのかみ)は、日本神話に登場する女神。
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ひなてるぬかたびちおいこちにのかみと訓まれるが、書籍によってはひなてりぬかたびちおいこちにのかみともされる。
『古事記』にのみ登場する神であるが、系譜以外の具体的な事績については不明。
長い神名は文字の配列から考えて「日名照・額田毘道男・伊許知邇神」と分解できる。次にこの神は女神であるのに、「男」を含むのは異常であるから、「日名照・額田毘道男」は「伊許知邇神」の父神の名で、それを娘の名に冠したものと考えられる。
- まず「日名照」は「日な(の)曇り」の反対で「日な(の)照る」の意で、「額田」は「額のような四角い田」の意で良田を指す。これは額田の上に「日がよく当る」という修飾語を冠している。「毘道男」の「毘」は「辺」で、「額田辺へ行く道の男」の意。これが父神の名。
- 次に「伊許知邇」の「伊許」は「厳(いか)」で、「いこよか」の語もあるように、勢いの盛んなさまで、ここでは「稲の繁茂」の表象、「知」は「神霊」、「邇」は人につく親称と解する。これが娘神の名。
上記から名義は「日が照る、額田辺の道を父にもつ、勢いの盛んな精霊」と考えられる。またこの神の農業神的性格が子の国忍富神に引き継がれている
水干(すいかん)姿の少年神
水干(すいかん)
- 水干(すいかん)は、男子の平安装束の一つ
- キサカイヒメ・ウムカイヒメとは日本神話に登場する女神である。『古事記』ではそれぞれ「𧏛[1]貝比売(きさかひひめ)」・「蛤貝比売(うむがひひめ/うむぎひ-)」と、『出雲国風土記』ではそれぞれ「支(枳)佐加比売命(きさかひめのみこと)」・「宇武賀比売命(うむかひめ-)」と表記する。
- キサガイヒメは赤貝を、ウムガイヒメは蛤を神格化したものと考えられている。『古事記』『出雲国風土記』の両者において神産巣日之神(神魂命)と関係を持ち、前者では神産巣日神に派遣されて大国主神の治療に従事、後者では神魂命の御子神であると記されている。
大きな蛙と梟を連れた男神
手のひらに載ってしまいそうなほど小さな神
- 少名毘古那神(すくなびこなのかみ)
羽山戸神(はやまとのかみ)の子ら
羽山戸神(はやまとのかみ)
天棚機姫神(あめたなばたつひめのかみ)
長い白髪の男神
濃紺の打掛を纒(まと)った女神
邇邇芸命(ににぎのみこと)
倭建命(やまとたける)
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『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』では主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記される。現在では、漢字表記の場合に一般には「日本武尊」の用字が通用される。
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第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄である。
阿弖流為(あてるい)
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大墓公阿弖流為 / 大墓公阿弖利為(読み方不明、? - 延暦21年8月13日〈ユリウス暦802年9月13日、先発グレゴリオ暦802年9月17日〉)は、日本の奈良時代末期から平安時代初期の古代東北の人物。続日本紀では「阿弖流爲(あてるい)」、日本紀略では「大墓公阿弖利爲(おおはかのきみあてりい)」。
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8世紀末から9世紀初頭に陸奥国胆沢(現在の岩手県奥州市)で活動した蝦夷(えみし)の族長とされる。史実にはじめて名前がみえるのは、古代日本の律令国家(朝廷)による延暦八年の征夷のうち巣伏の戦いにおいて、紀古佐美率いる官軍(朝廷軍)の記録中である。その後延暦二十年の征夷が終結した翌年胆沢城造営中の坂上田村麻呂の下に盤具公母禮(いわとものきみもれ)とともに降伏し、田村麻呂へ並び従い平安京へ入京 、公卿会議で田村麻呂が陸奥へと返すよう申し出たことに対して公卿達が反対したため河内国□山で母禮とともに斬られた。
なお本来の名前は前述の通りだが、本項では「アテルイ」として解説する。また必要に応じて「大墓公阿弖流為(大墓公阿弖流爲)」「大墓公阿弖利為(大墓公阿弖利爲)」「阿弖流為(阿弖流爲)」「阿弖利為(阿弖利爲)」「大墓公」と表記する。
- 本書では、馬火衣(まかい)の息子、阿弓良(あてら)として登場
伊治呰麻呂(これはるのあざまろ)
渤海(ぼっかい)
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渤海(ぼっかい、中国語: 渤海、朝鮮語: 발해 パレ、満洲語: ᡦᡠᡥᠠᡳ[要出典]、ロシア語: Бохай、698年- 926年)は、現中国東北部から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方にかけて、かつて存在した国家。大祚栄により建国され、周囲との交易で栄え、唐からも「海東の盛国」(『新唐書』)と呼ばれたが、最後は契丹(遼)によって滅ぼされた。
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大祚栄や渤海国の成り立ちに関して『旧唐書』渤海靺鞨伝は「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也。高麗既滅、祚榮率家屬徙居營州。(渤海靺鞨の(建国者)大祚栄は、もと高麗(高句麗)の別種である。高麗が既に滅亡(668年)してしまったので、(大)祚栄は一族を率いて営州(遼寧省朝陽市)へ移り住んだ。)」と記し、『新唐書』はより具体的に「渤海、本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏。(渤海は、もとの粟末靺鞨で、高麗(高句麗)に付属していた。姓は大氏である。)」と記しており、高句麗に服属していた粟末靺鞨の出自とある。
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「渤海」の名は本来、遼東半島と山東半島の内側にあり黄河が注ぎ込む湾状の海域のことである。初代国王大祚栄が、この渤海の沿岸で現在の河北省南部にあたる渤海郡の名目上の王(渤海郡王)に封ぜられたことから、本来の渤海からやや離れたこの国の国号となった。
698年 - 926年 | → → → |
渤海の最大領域
- 金龍のモデル
金神(こんじん)
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金神(こんじん)とは方位神の1つである。
金神の在する方位に対してはあらゆることが凶とされ、特に土を動かしたり造作・修理・移転・旅行などが忌まれる。この方位を犯すと家族7人に死が及び、家族が7人いない時は隣の家の者まで殺される(これを七殺(ななさつ)という)と言われて恐れられた。
金神の中でも、「うしとらの金神」は「久遠国」という夜叉国の王である巨旦大王の精魂とされる。巨旦大王の眷属の精魂も(普通の)金神と呼ばれる凶神となっている。
またその精魂の抜けた屍は牛頭天王によって5つに引き裂かれ、五節句に合わせて祭った(巨旦調伏の祭礼)。
すなわち、
- 1月1日----紅白の鏡餅(巨旦の骨肉)
- 3月3日----蓬の草餅(巨旦の皮膚)
- 5月5日----菖蒲のちまき(巨旦の髭と髪)
- 7月7日----小麦の素麺(巨旦の筋)
- 9月9日----黄菊の酒(巨旦の血)
である。