万葉集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス) (日本語) 文庫 – 2001/11/22 角川書店
はじめて楽しむ万葉集 (角川ソフィア文庫) (日本語) 文庫 – 2012/9/25
上野 誠 (著), ベター・デイズ (Cover Art, デザイン)
岡本梨奈
- 「万葉集」(まんようしゅう、萬葉集)は、奈良時代末期に成立したとみられる日本に現存する最古の和歌集である
- 万葉集の和歌はすべて漢字で書かれている(万葉仮名を含む)[
- 全20巻4,500首以上の和歌が収められており、「雑歌(ぞうか)」宴や旅行での歌、「相聞歌(そうもんか)」男女の恋の歌、「挽歌(ばんか)」人の死に関する歌の3つのジャンルに分けられる
- 和歌の表現技法には、枕詞、序詞、反復、対句などが用いられている
- 天皇、貴族から下級官人、防人(防人の歌)、大道芸人、農民、東国民謡(東歌)など、さまざまな身分の人々が詠んだ歌が収められており、作者不詳の和歌も2,100首以上ある
- 7世紀前半から759年(天平宝字3年)までの約130年間の歌が収録されており、成立は759年から780年(宝亀11年)ごろにかけてとみられ、編纂には大伴家持が何らかの形で関わったとされる
- 原本は存在せず、現存する最古の写本は11世紀後半ごろの桂本万葉集(巻4の一部のみ)、完本では鎌倉時代後期と推定される西本願寺本万葉集がもっとも古い
- 和歌の原点である万葉集は、時代を超えて読み継がれながら後世の作品にも影響を与えており(一例「菟原処女の伝説」)、日本文学における第一級の史料であるが、方言による歌もいくつか収録されており、さらにその中には詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても重要な史料である
- 日本の元号「令和」は、この万葉集の「巻五 梅花の歌三十二首并せて序」の一節を典拠とし、記録が明確なものとしては日本史上初めて元号の出典が漢籍でなく日本の古典となった
大伴宿禰池主(おおとものすくねいけぬし)
- 大伴 池主(おおとも の いけぬし)
- 奈良時代の官人・歌人。官職は式部少丞。
- 大伴祖父麻呂の庶子、大伴牛養の子、大伴田主の子とする説や、大伴三依の子とする系図がある。またこの系図では、曾孫に伴久永を繋げる
- 経歴
天平10年(738年)従七位下・春宮坊少属の官位にあり、覔珠玉使として駿河国を通過したとの記録がある。同年橘諸兄の旧宅で行われた橘奈良麻呂主催の宴に大伴家持らと参加し和歌を詠んだ。
のち天平年間末期に越中掾を務め、天平18年(746年)6月に大伴家持が越中守に任ぜられて以降、翌天平19年(747年)前半にかけて、以下の通り作歌活動が『万葉集』に記されている。
天平18年(746年)8月7日:家持の邸宅で宴が開催され、越中大目・秦八千島や史生・土師道良らと共に和歌を詠む。
同年11月:池主が正帳使の任を終えて平城京から戻った際に開催された詩酒の宴にて和歌を詠む
天平19年(747年)2-3月:病床に伏した家持と度々贈答歌・漢詩の交換を行う
同年4月26日:布勢の水海(現在の富山県氷見市の十二町潟)に遊覧した大伴家持の和歌に追和。
同年4月26日:池主の邸宅で税帳使となった家持に対して餞する宴。池主は石川水通の歌を伝誦する
同年4月28日:家持が詠んだ立山の賦に追和。
同年5月2日:家持が税帳使として入京するにあたって贈答歌を交換。
天平20年(748年)3月以前に越前掾に転じるが、以下の通り家持との交流は続き、直接和歌の贈答も行っている。
天平21年(749年)3月15日:家持に来報歌を贈る
同年11月12日:家持に来報歌を贈る
同年12月15日:家持に来報歌を贈る
天平勝宝2年(750年)4月3日:家持より霍公鳥歌を贈られる
同年4月9日:水烏を池主に贈れる歌を贈られる
天平勝宝3年(751年)8月:少納言に任ぜられて帰京する家持と、正税帳使の任を終えて越中国に戻る途中の久米広縄と共に池主の邸宅で宴を開く
のち、左京少進として京官に復し、在任中の天平勝宝5年(753年)8月に左中弁・中臣清麻呂や少納言・大伴家持らと共に壺酒を持って高円山に登って和歌を詠み、翌天平勝宝6年(754年)正月には家持の邸宅にて行われた大伴氏一族が集った酒宴でも和歌を詠んでいる。
天平勝宝8歳(756年)以降は式部少丞の官職にあり、同年3月の聖武上皇の河内国行幸に同行して、河内国の馬国人邸で開かれたの家の宴に臨席。兵部大丞・大原今城作の和歌を伝読。同年11月にはその大原今城を自邸に招いて酒宴を開催した。
天平勝宝9歳(757年)6月29日の夕刻に太政官の建物の庭で行われた、反藤原仲麻呂派による反乱を企てるための三度目の会合に、安宿王・黄文王・橘奈良麻呂・大伴古麻呂・多治比犢養・小野東人・多治比礼麻呂・多治比鷹主・大伴兄人らと共に参加。7月2日夜に挙兵して紫微内相・藤原仲麻呂を殺害し孝謙天皇を廃位することを申し合わせる。しかし、7月2日には反乱計画が漏洩し、厳しく尋問を受けた小野東人により反乱の参加者が明らかとなる。池主も他の反乱参加者と共に投獄され獄死したと想定される(橘奈良麻呂の乱)。
大伴家持(おおとものやかもち)
- 大伴 家持(おおとも の やかもち)
- 奈良時代の公卿・歌人。
- 大納言・大伴旅人の子。
- 官位は従三位・中納言。三十六歌仙の一人。小倉百人一首では中納言家持。
- 『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父・安麻呂、父・旅人と同じく律令制下の高級官吏として歴史に名を残し、延暦年間には中納言にまで昇った。
- 経歴
天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)藤原広嗣の乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。天平17年(745年)に従五位下に叙爵し、翌天平18年(746年)3月に宮内少輔、次いで6月に越中守に任ぜられて地方官に転じる。赴任中の天平21年(749年)従五位上に昇叙される一方で、223首の和歌を詠んだ。
天平勝宝3年(751年)少納言に任ぜられて帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔、天平勝宝9歳(757年)兵部大輔と孝謙朝後半は兵部省の次官を務める。この間の天平勝宝7歳(755年)難波で防人の検校に関わるが、この時の防人との出会いが『万葉集』の防人歌収集につながっている。天平宝字元年(757年)に発生した橘奈良麻呂の乱では、越中国赴任時に深い交流を持った大伴池主を始めとして、大伴古麻呂や大伴古慈斐ら一族が処罰を受けたが、家持は謀反に与せず処罰を免れる。しかし、乱の影響を受けたものか、翌天平宝字2年(758年)に因幡守に任ぜられ再び地方官に転出。翌天平宝字3年(759年)正月に因幡国国府で『万葉集』の最後の和歌を詠んだ。
天平宝字6年(762年)信部大輔に任ぜられ京官に復すが、淳仁朝で権勢を振るっていた太師・藤原仲麻呂に対して、藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人とともに暗殺計画を立案する。しかし密告により計画は露見し、天平宝字7年(763年)に4人は捕えられてしまう。ここで藤原奈良麻呂が単独犯行を主張したことから、家持は罪に問われなかったものの、翌天平宝字8年(764年)正月に薩摩守へ左遷される報復人事を受けた。
九州に下向していたためか、同年9月に発生した藤原仲麻呂の乱での動静は伝わらない。その後、神護景雲元年(767年)大宰少弐に転じ、称徳朝では主に九州地方の地方官を務めている。
神護景雲4年(770年)9月に称徳天皇が崩御すると左中弁兼中務大輔と要職に就き、11月の光仁天皇の即位に伴って、21年ぶりに昇叙されて正五位下となる。光仁朝では式部大輔・左京大夫・衛門督と京師の要職や上総・伊勢と大国の国守を歴任する一方で、宝亀2年(771年)従四位下、宝亀8年(777年)従四位上、宝亀9年(778年)正四位下と順調に昇進する。宝亀11年(780年)参議に任ぜられて公卿に列し、翌天応元年(781年)には従三位に叙せられた。
桓武朝に入ると、天応2年(782年)正月には氷上川継の乱への関与を疑われて解官されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。しかし、早くも同年4月には罪を赦され参議に復し、翌延暦2年(783年)には先任の参議であった藤原小黒麻呂・藤原家依を越えて中納言に昇進する。また、皇太子・早良親王の春宮大夫も兼ねた。さらに、延暦3年(784年)には持節征東将軍に任ぜられて、蝦夷征討の責任者となる。翌延暦4年(785年)4月には陸奥国に仮設置していた多賀・階上の両郡について、正規の郡に昇格させて官員を常駐させることを言上し許されている。
同年8月28日薨去。最終官位は中納言従三位兼行春宮大夫陸奥按察使鎮守府将軍。兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために滞在していた陸奥国で没した、あるいは遙任の官として在京していたとの両説がある。したがって死没地にも平城京説と多賀城説とがある。
没した直後に藤原種継暗殺事件が造営中の長岡京で発生、家持も関与していたとされて、追罰として、埋葬を許されず、官籍からも除名された。子の永主も隠岐国への流罪となった。家持は没後20年以上経過した延暦25年に恩赦を受けて従三位に復している。
大伴坂上郎女(おおとものさかのうえいらうめ)
- 大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ、生没年不詳)
- 『万葉集』の代表的歌人。
- 大伴安麻呂と石川内命婦の娘。 大伴稲公の姉で、大伴旅人の異母妹。大伴家持の叔母で姑でもある。
- 『万葉集』には、長歌・短歌合わせて84首が収録され、額田王以後最大の女性歌人である。
- 13歳頃に穂積皇子に嫁ぐが霊亀元年(715年)に死別。一説に宮廷に留まり命婦として仕えた。この頃、首皇子(聖武天皇)と親交を持ったらしく、後年には個人的に歌を奉げている。その後に藤原麻呂の恋人となるが、麻呂とも早くに死別する。養老末年頃、異母兄の大伴宿奈麻呂の妻となり、坂上大嬢と坂上二嬢を産んだものの、彼とも33歳頃に死別したと思われる。その後は、任地の大宰府で妻を亡くした大伴旅人のもとに赴き、大伴家持、大伴書持を養育したといわれる。帰京後は佐保邸に留まり、大伴氏の刀自(主婦)として、大伴氏の一族を統率し、家政を取り仕切ったのだろう。その作風は多分に技巧的でありながらも、豊かな叙情性をも兼ね備えている。しかし、彼女の数多い男性との相聞歌は、恋の歌になぞらえて、彼らへの親しみを表したものであったり、実体験ではないのではないかとも言われている。
- 坂上郎女の通称は坂上の里(現・奈良市法蓮町北町)に住んだためという。
駿河麻呂(するがまろ)
- 大伴 駿河麻呂(おおとも の するがまろ)
- 奈良時代の公卿。大納言・大伴御行の孫。
- 父は不詳だが参議・大伴兄麻呂と推定する文献もある。官位は正四位上・参議、贈従三位。勲等は勲三等。
- 経歴
聖武朝の天平15年(743年)従五位下に叙せられ、天平18年(746年)越前守に任ぜられる。天平宝字元年(757年)に発生した橘奈良麻呂の乱においては、謀反に加わったとして、死罪は免れるものの処罰を受け、その後長く不遇を託った。
のち罪を赦されたらしく、称徳朝末の神護景雲4年(770年)5月に従五位上・出雲守に叙任される。光仁朝に入ると急速に昇進し、同年10月の同天皇の即位に伴い正五位下に、さらに肥後守として改元の祥瑞白亀を献上したことから正五位上と続けて昇叙され、翌宝亀2年(771年)に従四位下に叙せられている。
宝亀3年(772年)には陸奥按察使に任ぜられるところを老いによる衰えを理由に一旦辞退するが、天皇から適任者は駿河麻呂しかいないとの強い希望を受けて任官を受け入れ、正四位下に叙せられた。宝亀4年(773年)陸奥国鎮守将軍を兼ね、宝亀5年(774年)には蝦夷征討に関して処置を奏上する。当初朝廷では消極的な態度を取っていたが、7月に征討実施を決定し、8月上旬には坂東諸国に対して援兵を発するように命じている。8月末になると駿河麻呂は一転して、蝦夷の侵略は軽微である上に、草木が繁茂する季節で軍事行動に不適であるとして軍事行動の中止を求める。そのため、この首尾一貫しない奏上について、駿河麻呂は朝廷から譴責を受けている。10月に入り駿河麻呂は陸奥国遠山村(登米郡か)まで侵攻して大きな戦果を挙げた。宝亀6年(775年)9月に参議に任ぜられて公卿に列し、同年11月には反乱を起こして桃生城へ攻め寄せた蝦夷を鎮圧した功労により、正四位上・勲三等に叙せられ、贈賻として絁30疋と布100端が与えられた。
宝亀7年(776年)7月7日卒去。最終官位は参議正四位上陸奥按察使兼鎮守将軍。即日従三位の贈位を受けた - 『万葉集』に和歌作品11首が採録されており、その中にある大伴坂上郎女との相聞歌に妹の坂上二嬢との婚約を暗示する節がある。勅撰歌人として『続古今和歌集』にも1首が採られている
尾張少咋(おわりのおくい)
- ?-? 奈良時代の官吏。
- 越中(富山県)の史生。
- 「万葉集」巻18にみえる越中守(えっちゅうのかみ)大伴家持の歌によれば,天平感宝(てんぴょうかんぽう)元年(749)少咋が遊女にまよい,奈良にのこした妻をかえりみないことを家持にさとされた。
左夫流(さぶる)
- ?-? 奈良時代の遊女。
- 越中(富山県)の人。
- 都に妻をのこして越中に赴任してきた史生尾張少咋(おわりの-おくい)の愛人
- 「万葉集」に越中守(かみ)大伴家持が天平感宝(てんぴょうかんぽう)元年(749)によんだ,少咋の浮気をさとす和歌がのこされている。
佐伯宿禰赤麻呂(さえきすくねあかまろ)
佐伯 男(さえき の おとこ)
- 飛鳥時代の人物。
- 姓は連のち宿禰。
- 佐伯広足の子とする系図がある。官位は従五位上・大倭守。
- 672年の壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)のため筑紫国に遣わされたが任務に失敗した。
- 経歴
天武天皇元年(672年)6月に大海人皇子(のち天武天皇)の挙兵を知った近江大津宮の朝廷は、各地に使者を派遣して鎮圧のための兵士を徴発した。このとき、佐伯男は筑紫大宰の栗隈王のもとに遣わされた。出兵を命じたものの、栗隈王が以前大海人皇子に従っていたことから、彼もまた背くかもしれないと大友皇子は疑っていた。「従わない様子があったら殺せ」というのが、佐伯男が受けた指示であった。
符(命令書)を受けとった栗隈王は、出兵を断る。筑紫国の務めは国外への備えであり、守りを空けたときに変事があったら国が傾くというのが、栗隈王が述べた理由であった。このとき、栗隈王の二人の子、三野王(美努王)と武家王が剣を佩いて側に立っていた。佐伯男は剣を握って前に出ようとしたが、かえって自分が殺されるかもしれないと考え、断念してそのまま帰った。
帰還後の活動については記録がないが、乱の後に赦されたと考えられる。
天武天皇13年(684年)八色の姓の制定により、佐伯氏は連から宿禰に改姓しており、男も同時に改姓したと想定される。
文武朝末の慶雲2年(706年)従五位下に昇叙する。元明朝では和銅元年(708年)大倭守に任ぜられ、翌和銅2年(709年)従五位上に昇進している - 系譜など
生誕 不明
死没 不明
官位 従五位上・大倭守
主君 大友皇子→天武天皇→持統天皇→文武天皇
氏族 佐伯連→宿禰
父母 父:佐伯広足
兄弟 百足、男、徳麻呂
子 赤麻呂
田部忌寸櫟子(たなべのいみきいちい)
- たべの いちいこ
- ?-? 飛鳥(あすか)時代の官吏。
- 姓(かばね)は忌寸(いみき)。
- 屯倉の屯田の耕作に従事した伴造氏族である田部氏の出
- 天智-天武朝(668-686)のころの人。
- 大宰府(だざいふ)赴任の際,舎人吉年(とねりの-よしとし)におくった歌3首(2首とも)が「万葉集」巻4にある。
- 氏は「たなべ」ともよむ。
舎人吉年(とねりのよそとし)
- 舎人吉年(とねりのきね/えとし/よしとし、生没年不詳)
- 飛鳥時代の女官・歌人。
- 名の吉年は、「きね」「えとし」「よしとし」などの読み方がある。
- 舎人氏の出身の女官。
- 天智天皇10年(671年)12月、天智天皇の大殯(おおあらき)のときに額田王らと共に挽歌を詠む(『万葉集』2-152)。
- また田部櫟子(たべのいちいこ)という人物が大宰府に赴任する際に別れを惜しむ歌を贈っていることから、彼と親密な関係にあったと考えられる(『万葉集』4-492)。
- やすみしし我ご大君の大御船待ちか恋ふらむ志賀の辛崎(万葉集2-152)【通釈】我が大君の御船のお着きを待ち焦がれているだろうか、志賀の唐崎は。
【補記】題詞の天皇は天智天皇。志賀の唐崎は滋賀県大津市唐崎。琵琶湖西岸で港があった。 - 衣手に取りとどこほり泣く子にもまされる我を置きて如何にせむ(万葉集4-492)【通釈】袖に取り縋って泣く子にもまさって別れを悲しんでいる私なのに――その私を置いてあなたが行ってしまわれるなら、私はどうすればよいのでしょうか。
【語釈】◇まされる我を まさっている私であるのに。この「を」は第一に逆接条件をしめす接続助詞であるが、詠嘆の意を含み、また「置き」の目的格をあらわす格助詞の意も兼ねているのだろう。
【補記】万葉集に歌を残している田部櫟子が大宰府に赴任する際、別れを悲しんだ歌。櫟子は「置きてゆかば妹恋ひむかもしきたへの黒髪敷きて長きこの夜を」ほか三首の歌を返している。
湯原王(ゆはらのおおきみ)
- 湯原王(ゆはらおう/ゆはらのおおきみ、生没年不詳)
- 奈良時代の皇族・歌人。
- 天智天皇の孫で、二品・志貴皇子の子。無官位か
- 経歴
天智天皇の孫でありながら各種史書上に叙位・任官の記録がなく政治面での足跡は残っていない。一方で、『万葉集』に天平年間初期(730年頃以降)に詠まれたと想定される和歌作品が19首採録されており、万葉後期の代表的な歌人の一人となっている。勅撰歌人として『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集にも4首が採られている
没後の宝亀元年(770年)に兄弟の白壁王が即位(光仁天皇)し、志貴皇子の子女を親王・内親王として扱うこととしたため、湯原親王とも記される - 人物
壬申の乱以降、天武系の皇統が続く中で、天智系の諸王は皇位継承において微妙な立場にあったことから、本心や才能を隠しつつ政争から逃れ、風流に徹した人生を送ったと想定される。
『万葉集』には、ある娘との相聞歌が12首(うち湯原王作は7首)残されており、その娘と激しい恋に落ちていたことを物語っているが、結局この恋は成就しなかったらしい。この悲恋は平安時代初期に成立した『伊勢物語』にも影響を与えたらしく、物語の中で「むかし男」が伊勢斎宮を思って詠んだとする歌が、湯原王作の相聞歌の1つと非常に似た内容となっている。 - 系譜
父:志貴皇子
母:不詳
妻:不詳
次男:壱志濃王(733-805)
男子:市師王
女子:尾張女王(?-804?) - 光仁天皇後宮
児部女王(こべのおおきみ)
- ?
角氏(つのし)
- ?
山口女王( やまぐちのおおきみ)
- ?-? 奈良時代の歌人。
- 大伴家持(おおともの-やかもち)(718-785)におくった相聞歌6首が「万葉集」巻4・8にのる。また「古今和歌六帖」「新古今和歌集」などにも歌がとられている。
- 【格言など】葦辺(あしべ)より満ち来る潮のいやましに思へか君が忘れかねつる(「万葉集」)
狭野弟上娘子(さののおとがみおとめ)
- 狭野弟上 娘子(さののおとがみ の おとめ、生没年不詳)
- 奈良時代の下級女官。
- 狭野茅上 娘子(さののちがみの おとめ)とも表記される。
- 経歴
斎宮あるいは後宮の下級女官であったともいわれている。天平12年(740年)頃に中臣宅守と結婚するが、夫は越前国に配流された。一説には娘子の身分が問題視され罪に問われたとされる。
配流先の夫を想う和歌が『万葉集』に採録されている。
中臣朝臣宅守(なかとみのあそんやかもり)
- 中臣 宅守(なかとみ の やかもり)
- 奈良時代の貴族・歌人。
- 刑部卿・中臣東人の子。
- 官位は従五位下・神祇大副
- 経歴
天平12年(740年)頃に蔵部の女孺であった狭野弟上娘子を娶ったときに越前国に流罪となる。罪に問われた事情は明らかでなく、政変がらみとするものと禁を犯して娘子と結ばれたものとの両説がある。同年6月に大赦が行われるが、罪は赦されなかった。天平13年(741年)9月に再度行われた大赦により帰京した。
天平宝字7年(763年)従六位上から三階昇進して従五位下に叙爵するも、天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱に連座して除名された。
越前国配流時に狭野茅上娘子と交わした和歌を中心に40首が『万葉集』に採録されている
忌部首(いんべのおびと)
- ?
大伴田主(おおとものたぬし)
- ?-? 奈良時代の歌人。
- 大伴安麻呂(やすまろ)・巨勢郎女(こせの-いらつめ)の子。
- 大伴旅人(たびと)の弟。
- 「万葉集」巻2に「容姿佳艶(かえん)にして風流秀絶なり」とあり,石川郎女との贈答歌が1首のこされている。
- 字(あざな)は仲(中)郎(ちゅうろう)。
石川郎女(いしかわのいらつめ)
- ?
旋頭歌(せどうか)
- 五七七五七七
- 上三句と下三句とで詠み手の立場がことなる歌が多い
<動物・鳥>大黒(おおぐろ)
山田史君麿(やまだふひときみまろ)
- 高匠
長忌寸意吉麻呂(ながわいみきおきまろ)
- 《万葉集》第2期(壬申の乱後~奈良遷都),藤原京時代の歌人。
- 生没年不詳。
- 姓(かばね)は長忌寸(ながのいみき)で渡来系か。名は奥麻呂とも記す。
- 柿本人麻呂と同時代に活躍,短歌のみ14首を残す。
- 699年(文武3)のおりと思われる難波行幸に従い,詔にこたえる歌を作り,701年(大宝1)の紀伊国行幸(持統上皇・文武天皇),翌年の三河国行幸(持統上皇)にも従って作品を残す。これらを含めて旅の歌6首がある。ほかの8首はすべて宴席などで会衆の要望にこたえた歌で,数種のものを詠み込む歌や滑稽な歌などを即妙に曲芸的に作るのを得意とする。
笠郎娘(かさのいらつめ)
- 笠郎女(かさのいらつめ)
- 奈良時代中期の歌人。
- 生没年未詳。
- 一説には笠金村の娘。大伴家持とかかわりのあった十余人の女性のひとりで、同時代では大伴坂上郎女とならび称される女性歌人。
- 『万葉集』巻三、巻四、巻八に計29首の歌が収載されている。内訳は、譬喩歌3首、相聞歌24首、春および秋の相聞各1首。いずれも家持に贈った歌である。
山上憶良(やまのうえのおくら)
- 山上 憶良(やまのうえ の おくら)
- 奈良時代初期の貴族・歌人。
- 名は山於 億良とも記される。
- 姓は臣。
- 官位は従五位下・筑前守
- 経歴
大宝元年(701年)第八次遣唐使の少録に任ぜられ、翌大宝2年(702年)唐に渡り儒教や仏教など最新の学問を研鑽する(この時の冠位は無位)。なお、憶良が遣唐使に選ばれた理由として大宝の遣唐使の執節使である粟田真人が同族の憶良を引き立てたとする説がある。和銅7年(714年)正六位下から従五位下に叙爵(55歳)し、霊亀2年(716年)伯耆守(ほうきのかみ)(現、島根県の役所の長官)に任ぜられる。養老5年(721年)佐為王・紀男人らと共に、東宮・首皇子(のち聖武天皇)の侍講(じこう)(家庭教師のようなもの)として、退朝の後に東宮に侍すよう命じられる。
神亀3年(726年)頃筑前守に任ぜられ任国に下向。神亀5年(728年)頃までに大宰帥として大宰府に着任した大伴旅人と共に、筑紫歌壇を形成した。天平4年(732年)頃に筑前守任期を終えて帰京(72歳)。天平5年(733年)6月に「老身に病を重ね、年を経て辛苦しみ、また児等を思ふ歌」を、また同じ頃に藤原八束が見舞いに遣わせた河辺東人に対して「沈痾る時の歌」を詠んでおり、以降の和歌作品が伝わらないことから、まもなく病死したとされる。
山上船主を憶良の子とする説がある。 - 歌風
仏教や儒教の思想に傾倒していたことから、死や貧、老、病などといったものに敏感で、かつ社会的な矛盾を鋭く観察していた。そのため、官人という立場にありながら、重税に喘ぐ農民や防人に取られる夫を見守る妻など、家族への愛情、農民の貧しさなど、社会的な優しさや弱者を鋭く観察した歌を多数詠んでおり、当時としては異色の社会派歌人として知られる。
抒情的な感情描写に長けており、また一首の内に自分の感情も詠み込んだ歌も多い。代表的な歌に『貧窮問答歌』、『子を思ふ歌』などがある。『万葉集』には78首が撰ばれており、大伴家持や柿本人麻呂、山部赤人らと共に奈良時代を代表する歌人として評価が高い。『新古今和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に5首が採録されている。
古日(ふるひ)
藤原朝臣八束(ふじわらのあそんやつか)
- 藤原 真楯(ふじわら の またて)
- 奈良時代の公卿。
- 初名は八束(やつか)。
- 藤原北家の祖・藤原房前の三男。
- 官位は正三位・大納言、贈太政大臣
- 経歴
天平12年(740年)正月に従五位下に叙爵すると、同年11月には聖武天皇の関東行幸に従駕して赤坂頓宮にて従五位上と続けて昇叙され、天平15年(743年)に正五位上、天平16年(744年)に従四位下と、聖武天皇に才能を認められその寵遇を得て急速な昇進を果たす。聖武朝においては、天皇の命により特別に上奏や勅旨を伝達する役目を担ったという。非常に明敏であるとしてこの頃誉れが高く、そのために従兄弟の藤原仲麻呂からその才能を妬まれる事があったが、これに気づいた八束は病と称して家に閉じ籠もり、一時書籍を相手に日々を過ごしたという。ただし、これは兄の永手伝の混入の結果、あるいは『続日本紀』の編者が、真楯の遺族により逆臣となった仲麻呂との関係を払拭する内容で作成され式部省に提出された伝記『功臣家伝』を採用した事によるもので、両者には深刻な対立は無かったとする意見がある。天平20年(748年)参議に任ぜられ、1歳年上の兄・永手に先んじて公卿に列す。
天平勝宝8年(756年)聖武上皇の崩御後まもなく、兄・永手が非参議から一躍権中納言に任ぜられ、八束は官途で先を越される。しかしながら、天平宝字2年(758年)の唐風への官名改称に賛同、天平宝字4年(760年)には唐風名「真楯」の賜与を受ける等、藤原仲麻呂政権下で仲麻呂の施策に協力姿勢を見せたほか、その官歴を踏まえると永手は仲麻呂政権の中枢にあったと見られる。天平宝字4年(760年)従三位、天平宝字6年(762年)中納言と順調に昇進を続けた。またこの間、天平宝字2年(758年)に来朝した第4回渤海使の楊承慶が翌年帰国する際に、八束は餞別の宴を開催し、楊承慶はこれに感動し賞賛している。
天平宝字8年(764年)の藤原仲麻呂の乱では孝謙上皇側につき、正三位・授刀大将に叙任、勲二等を叙勲された。天平神護2年(766年)正月には右大臣に昇進した永手の後を受けて大納言に任ぜられるが、3月に薨去。享年52。大臣としての形式で葬儀が行われ、太政大臣の官職を贈られた。
同時代の有力者は藤原仲麻呂(恵美押勝)で、最も栄えていたのは南家であった。また、当時の北家の嫡流は大臣にまで昇っていた兄の永手であり、氏族間の均衡が望まれて親子・兄弟での要職の占有に批判がなお強かった奈良時代後期において大納言まで昇った事はその才覚による部分が大きいと言える。そして後年藤原氏で最も繁栄する藤原道長・頼通親子等を輩出したのは、彼を祖とする北家真楯流である。 - 人物
度量が広くて深く、宰相として天皇の政務を補佐する才能があった。公務にあたっては、公平で潔く、私情に流される事はなかった。
『万葉集』に短歌7首と旋頭歌1首の計8首が収録。同書の補注等から大伴家持と個人的親交があったと推測されている。また、天平5年(733年)には病気見舞いに河辺東人を派遣する等、山上憶良とも交流があった様子が窺われる (当時18歳)
旧広橋家所蔵で現在東京国立博物館が所蔵している国宝飾剣は真楯所用の物という伝承があった(学術的には平安時代作と推定されている) - 系譜
父:藤原房前
母:牟漏女王 - 美努王の娘
同母兄弟:
兄:藤原永手
弟:藤原御楯
妹?:北殿 - 聖武天皇夫人
妻:佐味奈氐麻呂の女(氐」は「氏」の下に「一」)
男子:藤原永継(長継)
妻:阿倍帯麻呂の女
三男:藤原内麻呂(756年-812年)
妻:佐美飛鳥丸の娘
男子:藤原真永
「沈痾自哀文(ちんあじあいぶん)」
大伴部広成(おおともべのひろなり)
物部竜(もののべのたつ)
若倭部身麻呂(わかやまとべのみまろ)
- ?-? 奈良時代の防人(さきもり)。
- 遠江(とおとうみ)(静岡県)の人。
- 天平勝宝(てんぴょうしょうほう)7年(755)防人として筑紫(つくし)につかわされたときよんだ歌1首が「万葉集」巻20にみえる。
- 防人集団の中で主に庶務、会計係をしていた麁玉群(あらたまのこおり)(遠江(とうみ)国の旧群名、現在の静岡県浜松市の北部一帯)の人
丸子連大歳(まろこのうらじおおとし)
- 丸子 大歳(まるこ の おおとし、生没年不詳)
- 奈良時代の防人。
- 姓は連。
- 安房(あわ)国朝夷郡(あさひなのこほり)(現在の千葉県南房総市・鴨川市の一部)の人。
- 天平勝宝7歳(755年)2月に防人として筑紫国に派遣される。筑紫へ向かう途中に故郷に残した妻を想う歌を『万葉集』に残す。
家風は日に日に吹けど我妹子が家言持ちて来る人も無し(意味:私の家に風は毎日吹きますが、誰も妻の手紙を持ってきてはくれません)
遣新羅使(けんしらぎし)
- 遣新羅使(けんしらぎし)は、日本が新羅に派遣した使節である。
- 特に668年以降の統一新羅に対して派遣されたものをいう。
- 779年(宝亀10年)を最後に正規の遣新羅使は停止された
- 6世紀末~8世紀末頃まで