Corona Borealis

*読書*

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本棚 応天の門 13 (BUNCH COMICS) (日本語) コミック – 2020/9/9 灰原薬 (著)

 

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I found a book that I want to read.

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応天の門 13 (BUNCH COMICS) (日本語) コミック – 2020/9/9
灰原薬 (著)

 

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本と作家のリスト
 

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映像リスト

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memo

 <人>伴善男(とものよしお)

伴善男(とものよしお)

  • 平安時代初期から前期にかけての公卿。参議・伴国道の五男。官位は正三位・大納言。伴大納言と呼ばれた。
  • 経歴
    弘仁2年(811年)伴国道の五男として誕生。生誕地については父・国道の佐渡国配流中に生まれたとされるが、京で出生したとする説、あるいは元来は佐渡の郡司の従者で後に伴氏の養子になったという説がある。なお、大伴氏は弘仁14年(823年)の淳和天皇(大伴親王)の即位に伴い、避諱のために伴氏と改姓している。
    天長7年(830年)に校書殿の官人に補せられ仁明天皇に近侍すると、その知遇を受け次第に重用されるようになる。承和8年(841年)大内記、承和9年(842年)蔵人兼式部大丞を経て、承和10年(843年)従五位下・右少弁兼讃岐権守に叙任された。
    承和13年(846年)の善愷訴訟事件では、当時の事務慣例に沿って行った訴訟の取り扱いが律令に反するとして、左大弁・正躬王を始め同僚の5人の弁官全員を弾劾し失脚させる。また、かつて大伴家持が所有し藤原種継暗殺事件の関与によって没収され、大学寮勧学田に編入されていた加賀国の100町余りの水田について、既に家持は無罪として赦免されているのに返還されないのは不当と主張し、強引に返還させたという。
    その後は急速に昇進し、承和14年(847年)従五位上蔵人頭兼右中弁、翌嘉祥元年(848年)には従四位下・参議兼右大弁に叙任され公卿に列す。仁明朝では議政官として右衛門督・検非違使別当式部大輔を兼ねた。
    嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位に伴い従四位上に昇叙すると、仁寿3年(853年)正四位下、斉衡元年(855年)従三位と引き続き順調に昇進を続けた。またこの間、皇太后宮大夫・中宮大夫を兼帯する一方、右大臣・藤原良房らと『続日本後紀』の編纂にも携わっている。
    清和朝に入っても貞観元年(859年)正三位貞観2年(860年)中納言と累進し、貞観6年(864年)には大納言に至る。大納言への任官は天平2年(730年)の大伴旅人以来約130年ぶりのことであった。
    しかし、貞観8年(866年)閏3月、応天門が放火される事件が起こると、善男は左大臣源信が犯人であると告発する。源信の邸が近衛兵に包囲される騒ぎになるが、太政大臣藤原良房清和天皇への奏上により源信は無実となる。8月になると応天門の放火は善男とその子・中庸らの陰謀とする密告があり、拷問を受けるも犯状否認のまま善男は犯人として断罪、死罪とされたが、善男がかつて自分を抜擢してくれた仁明天皇のために毎年法要を行っていたという忠節に免じて罪一等を許されて流罪と決した。善男は伊豆国、中庸が隠岐国に流されたほか、伴氏・紀氏らの多くが流罪に処せられた(応天門の変)。
    貞観10年(868年)配所の伊豆で死去した。
  • 生まれつき爽俊(人品が優れている)な一方で、狡猾であり黠児(わるがしこい男)と呼ばれた。また、傲岸で人と打ち解けなかった。弁舌が達者で、明察果断、政務に通じていたが、寛裕高雅さがなく、性忍酷であったという。風貌は、眼窩深くくぼみ、もみあげ長く、体躯は矮小であった

<人>伴清縄(とものきよただ)

  • 伴大納言(とものだいなごん)の縁者

伴清縄(とものきよただ)

  • ?-? 平安時代前期の貴族の従者。
    貞観(じょうがん)8年(866)応天門の炎上は主人伴善男による放火だと告発した大宅鷹取(おおやけの-たかとり)の娘を殺害。拷問をうけ,放火犯は善男の子中庸(なかつね)らであると自白。共謀者として佐渡に流された。

<人>土師忠道(はじのただみち)

土師忠道(はじのただみち)

  • ?-? 平安時代前期の官吏。
    左大臣源信(まこと)の家人(けにん)。大納言伴善男(ともの-よしお)と対立した信が謀反(むほん)の疑いをかけられた際,弓馬に巧みだったため,貞観(じょうがん)7年(865)左馬少属(さまのしょうさかん)から甲斐権掾(かいのごんのじょう)にうつされた。この特進人事は信の武力をうばう策略で,ふたりの対立の陰に太政大臣藤原良房(よしふさ)の力がはたらいたともいわれる

<人>菅原道真

菅原道真

  • 菅原道真(すがわら の みちざね、承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日))
  • 日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位太政大臣
  • 忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇りつめた。しかし謀反を計画したとして(昌泰の変)、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後怨霊と化したと考えられ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。
  • 小倉百人一首では菅家。
  • 道真は是善とその夫人・伴氏の3男として生まれたが、幼少期について信頼できる史料はほとんどない。幼名が「阿呼」とされるが、これも信頼できる史料にはない。兄二人の記録はなく、道真も兄弟はいないとしていることから夭折したものと見られている。
    道真は幼少より詩歌に才を見せ、11歳で初めて漢詩を詠んだ貞観4年(862年)18歳で文章生となる。貞観9年(867年)には文章生のうち2名が選ばれる文章得業生となり、正六位下・下野権少掾に叙任される。貞観12年(870年)、官吏登用試験『対策』の方略策に「中上」の成績で合格し、位階を進め、正六位上となった。玄蕃助・少内記を経て、貞観16年(874年)従五位下に叙爵し、兵部少輔ついで民部少輔に任ぜられた。当時の朝廷の第一人者藤原基経も道真の文才を評価した一人であり、父・菅原是善を差し置いて、度々代筆を道真に依頼している。元慶元年(877年)式部少輔次いで世職である文章博士を兼任する。元慶3年(879年)従五位上。元慶4年(880年)の父・是善の没後は、祖父・菅原清公以来の私塾である菅家廊下を主宰、朝廷における文人社会の中心的な存在となった。
    仁和2年(886年)讃岐守(讃岐国司)を拝任、式部少輔兼文章博士を辞し、任国へ下向することととなった。道真はこの任が「左遷である」言われていることが残念であると述べており、度々悲しみの意を表している。送別の宴で、道真は摂政藤原基経から詩をともに唱和するよう求められたが、落涙・嗚咽して一言しか発せなかったという。仁和3年末には一時帰京し、翌仁和4年(888年)正月には任地に戻った。この年の4月、阿衡事件が発生し、基経が職務をボイコットする事態となった。道真は10月頃再び入京し、基経に事件の発端となった橘広相を罰しないように意見書(奉昭宣公書)を寄せて諌めたとされる。この書が出されたとされる11月にはすでに橘広相は赦免されており、基経の態度に影響を与えるものではなかったが、儒者による橘広相への非難を緩和する効果があった可能性も指摘されている。 

<人>鷹取(たかとり)

  • 源家(左大臣家)の史生(ししょう)

<人>タマちゃん

  • 鷹取(たかとり)の娘

呂洞賓(りょどうひん)

  • 中国(唐)の英雄、仙人、大柄

呂洞賓(りょどうひん)

  • 呂 洞賓(りょ どうひん、貞元12年4月14日(796年5月4日) - ?)
  • 中国の代表的な仙人である八仙の一人。
  • 概要
    名は嵒(巌、巖、岩とも書く。もとの名は煜)といい、洞賓は字である。号は純陽子。純陽真人とも呼び、或いは単に呂祖(りょそ)とも呼ばれる。
    民間信仰の対象となり人々に敬愛されたことから、13世紀に元の武宗から「純陽演正警化孚佑帝君」の称号を贈られ、正式な神仙となった。以後の王朝からも神と公認され、道教での普遍的な称号は孚佑帝君と称される。
    蒲州永楽県(現在の山西省運城市芮城県)の人。祖父は唐の礼部侍郎の呂渭。父は海州刺史の呂譲。
    師は鍾離権であり、終南山で秘法(飛剣を飛ばし魔を退治する「天遁剣法」、また雷雨を操る「雷法」)を授かり、道士となったとされる。その姿は背に剣を負った書生で、青年あるいは中年男性として描かれる。
    呂洞賓に関する資料として「純陽呂真人文集」「呂祖志」「呂祖全書」「呂祖彙集」などがある。 科挙受験者であり、教養のある出自であることから優れた詩歌を幾つも残したという伝承があり、現代にも呂洞賓作と名乗る修行書や詩歌作品が多数残されているが、宋風の特徴を持つ作品が多く、他の作者がその人気に肖って仮託したものと考えられる。
    徒は曹国舅など。韓湘子や何仙姑を含める説もある。

<人>紀長谷雄(きのはせお)

紀長谷雄(きのはせお)

  • 平安時代前期の公卿・文人。弾正大忠・紀貞範の子。官位は従三位中納言
  • 竹取物語』の作者の候補者の一人であり、『長谷雄草紙』の主人公。
  • 経歴
    若い頃より学問を志し、18歳にして文章をつづることを会得したが、有力な援助者はなく、紀伝道の名家であった菅原氏・大江氏などとは異なり、学問を指導し取り立ててくれる人物にも恵まれなかったという。
    貞観10年(868年)頃より、当時文章得業生であった都良香に師事し詩文を学ぶが、神仙的人物として敬仰された良香からは神仙や怪奇についても影響を受けたともされる。ある夜、紀伝道を学ぶ学生が群飲して「幽人春水に釣す」の題で試作を競った。良香は、ただひとり長谷雄の詩を取り上げて「綴韻の間、甚だ風骨を得る」(韻を綴る間の趣きが非常に優れている)と激賞した。良香のこの一言によって、長谷雄はようやくその名を知られるようになった。しかし、逆にその才能を妬む同じ門人から讒言を受けてしまい、師である良香との関係が次第に疎遠になっていったという。
    貞観18年(876年)32歳にしてようやく文章生に補せられ、字を紀寛と称した。元慶5年(881年)文章得業生となるが、このころ長谷雄は次第に菅原道真の人柄に引かれ、道真と同門の党を結ぶようになった。元慶6年(882年)には右衛門大尉・坂上茂樹と共に掌渤海客使を務め、元慶7年(883年)対策に丁科で及第して三階昇進し従七位下に叙せられた。その後、讃岐掾・少外記を経て、仁和4年(888年)従五位下に叙爵するが、道真の推挙によるものとも想定される。
    宇多朝前半は、図書頭・文章博士・式部少輔を歴任する。寛平6年(894年)に従五位上・右少弁に叙任されると、寛平7年(895年)正五位下、寛平8年(896年)従四位下と宇多朝後半は急速に昇進を果たし、この間の寛平7年(895年)に式部少輔・大学頭・文章博士を兼ねて三職兼帯の栄誉に浴し、寛平9年(897年)には式部大輔兼侍従に任ぜられた。また、菅原道真に才能を見込まれ、寛平6年(894年)に計画されるも道真の建議により中止となった最後の遣唐使では副使に補されている。長谷雄の知識や政務能力そして人柄は宇多天皇からも早くから嘱目されており、宇多上皇醍醐天皇に与えた御遺戒の中にも、藤原時平菅原道真藤原定国・平季長と並べで、長谷雄を「心をしれり、顧問にも、そなわりぬべし」あるいは「博く、経典に渉り、共に大器なり」と評して推挙されている。
    醍醐朝に入ると左右大弁の要職を務める。昌泰4年(901年)昌泰の変が発生し、師とも仰ぐ右大臣・菅原道真大宰権帥に左遷されて失脚する。この変において長谷雄がどのような態度を取ったかは明らかではないが、道真に深い同情の念を寄せ、無念やるかたのない想いを抱きながらも、恐らく宇多上皇に慰留されて、目立った行動を起こすようなことを慎んでいたと想定される。あるいは行動が逆効果になることを恐れていた可能性もある。それでも、秘かに長谷雄は配所の道真を慰め援助していたと見られ、道真もこの誠意に感じ、配所で作った詩集『菅家後集』を長谷雄に贈っている。長谷雄は道真に心を寄せていたものの、醍醐天皇や執政の左大臣藤原時平も長谷雄の人柄や優れた政務能力を無視できず、延喜2年(902年)には参議に任じて公卿に加えた。なお、参議任官を挟んで要職の左大弁を約10年の長期に亘って務めたが、長谷雄が優秀な官人であったことの証明とする意見もある。延喜10年(910年)従三位・権中納言、延喜11年(911年) 中納言に至る。醍醐天皇の侍読を務める一方、『延喜格式』の編纂にもあたった。
    延喜12年(912年)2月10日薨去。享年68。最終官位は中納言従三位

<人>藤原紀長(ふじわらののりなが)

  • 大学寮
  • 藤原式家の四男
  • 捨て子の赤ちゃんの父親

<人>在原業平

<人>初音(はつね)

  • 権少納言(ごんのしょうなごん)の奥方付き
  • 昭姫(しょうき)の店に薬湯を買いに来る

<人>権少納言(ごんのしょうなごん)の奥方

  • 子供を亡くした

<人>都言道(みやこのことみち)

<場>伊勢 斎宮寮

<人>静子(しずこ)

<人>やす子

  • 宮様

奉幣使(ほうべいし)

  • 朝廷から各地の神社や陵墓に幣帛奉献のために参向する使者。