四柱 抜けない刀
金龍・・・黄金
百済王聡哲(くだらのにしきそうてつ)
吉田穂乃花(よしだほのか)
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)
道嶋嶋足(みちしまのしまたり)
桓武亭(かんむてい)
又子(またこ)
- 坂上田村麻呂の妹
百済王敬福(くだらのにしききょうふく)
多賀城(たがじょう)
- 東北の拠点
-
多賀城(たがじょう/たかのき、多賀柵)は、現在の宮城県多賀城市にあった日本の古代城柵。国の特別史跡に指定されている(指定名称は「多賀城跡 附 寺跡」)。
-
奈良時代から平安時代に陸奥国府や鎮守府が置かれ、11世紀中頃までの東北地方の政治・軍事・文化の中心地であった。なお、周辺はかつて「潟の世界」が想定されていたが、BP1900~1500年にはすでに潟湖的環境は存在せず、かつて「潟」が存在した証拠の一つと例示された砂押川最下流部の「塩入」「塩留」「塩窪」などの地名についても再検討されている
多賀城 (宮城県) |
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城郭構造 | 古代城柵 |
築城主 | 大野東人 |
築城年 | 神亀元年(724年) |
廃城年 | 不明 |
遺構 | 政庁跡など |
指定文化財 | 国の特別史跡「多賀城跡 附 寺跡」 |
位置 | 北緯38度18分24秒 東経140度59分18秒 |
地図 |
荒脛巾神(あらはばきのかみ)
荒脛巾神(あらはばきのかみ)の花
阿弖流為(あてるい)
伊治 呰麻呂(これはるのあざまろ)
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伊治 呰麻呂(これはり/これはる の あざまろ、生没年不詳)は、奈良時代の人物。姓は公。官位は外従五位下・上治郡大領。
8世紀後半に陸奥国(現在の東北地方)で活動した蝦夷の族長で、朝廷から官位も授けられていたが、宝亀11年(780年)に宝亀の乱(伊治呰麻呂の乱/伊治公呰麻呂の乱)と呼ばれる反乱を引き起こした。
大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)
- 大伴 弟麻呂(おおとも の おとまろ)は、奈良時代から平安時代初期にかけての公卿・武人。大和守・大伴古慈斐の子。史料に見える初の征夷大将軍。官位は従三位・東宮傅。勲等は勲二等
- 経歴
光仁朝末の宝亀10年(779年)従六位上から三階昇進して従五位下に叙爵し、翌宝亀11年(780年)衛門佐に任ぜられる。
天応元年(781年)従五位上・左衛士佐に叙任される一方、同年に即位した桓武天皇の生母である皇太夫人・高野新笠のために中宮職が設置された際に、その次官(中宮亮)を兼ねている。延暦元年(782年)常陸介、翌延暦2年(783年)征東副将軍と一時東国の地方官を務める。延暦6年(787年)右中弁次いで左中弁と京官に復帰し、延暦7年(788年)正五位下に昇叙され皇后宮亮を兼ねた。
延暦10年(791年)従四位上・征夷大使に叙任されるが、延暦11年(792年)11月に一旦征夷大使の辞表を提出し、翌延暦12年(793年)2月には征夷副使・坂上田村麻呂も辞表を提出している。しかし、結局両方とも認められなかったらしく、延暦13年(794年)正月に弟麻呂は征夷大将軍として節刀を賜与され、同年6月には副将軍の坂上田村麻呂が蝦夷征討で大きな戦果を挙げる。延暦14年(795年)正月に節刀を返上して、2月には征討の功労により従三位・勲二等に叙せられた。
その後、蝦夷征討の任務は田村麻呂(延暦16年(797年)征夷大将軍)が取って代わり、弟麻呂は東宮傅・治部卿と京官を歴任する。延暦25年(806年)老いて衰えたことを理由に辞職を願い出て許される。大同4年(809年)5月28日薨去。享年79。最終官位は散位従三位。
道嶋嶋足(みちしまのしまたり)
紀 古佐美(きこさみ)
- 紀 古佐美(き の こさみ)は、奈良時代後期から平安時代初期にかけての公卿。大納言・紀麻呂の孫。正六位上・紀宿奈麻呂の子。官位は正三位・大納言、贈従二位。勲等は勲四等。
- 経歴
天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱終結後に従五位下に叙爵し、天平神護3年(767年)丹後守に任ぜられる。
光仁朝では、兵部少輔・式部少輔・伊勢介・右少弁を歴任する。宝亀11年(780年)正月に従五位上に叙せられるが、同年3月に陸奥国で伊治呰麻呂が宝亀の乱を起こすと征東副使に任ぜられ、同じく副使の大伴益立と共に東国へ赴いた。翌天応元年(781年)5月陸奥守に任じられ、同年9月には乱鎮圧の功労により、三階昇進して従四位下に叙せられ、勲四等の叙勲を受けた。
桓武朝に入ると、左兵衛督・中衛中将と武官を務めると共に、左中弁・式部大輔を兼ね、延暦4年(785年)には従四位上・参議に叙任されて公卿に列した。同年11月安殿親王(のち平城天皇)の立太子に伴いその春宮大夫に、翌延暦5年(786年)右大弁次いで左大弁と、これまでの中衛中将と合わせて議政官として文武の要職を兼帯している。延暦6年(787年)正四位下。
延暦7年(788年)7月に征東大将軍に任じられ、12月に節刀を受けて蝦夷の征討に赴く。翌延暦8年(789年)3月末に衣川(現在の岩手県西磐井郡平泉町付近)に陣を敷くが、1ヶ月以上に亘り軍を動かさなかったことから、5月中旬に桓武天皇の叱責を受ける。これを受けて古佐美は5月末に大規模な渡河を伴う軍事行動を起こすが、蝦夷の族長であるアテルイの反撃に遭い、別将の丈部善理ら戦死25人、溺死1036人もの損害を出して大敗した(巣伏の戦い)。
6月に入ると古佐美は進軍に当たっての兵站の困難さと、軍を維持するために大量の兵糧が必要であることを理由に朝廷の許可を得ずに征東軍を解散し、桓武天皇から再度の叱責を受けた。9月に帰京して節刀を進上、大納言・藤原継縄、中納言・藤原小黒麻呂らから進軍せずに大敗した状況の取り調べを受けて征東事業失敗の責任を承服する。副将軍の池田真枚と安倍猨嶋墨縄が官職や位階を剥奪された一方で、古佐美は敗戦の責任により処断されるべきところ、これまで朝廷に仕えてきた功績を勘案され罪を免じられている。
以後も、延暦9年(790年)正四位上、延暦12年(793年)従三位、延暦13年(794年)には正三位・中納言と順調に昇進する。延暦15年(796年)には右大臣・藤原継縄の薨去に伴い、大納言に任ぜられて太政官の首班を占めた。またこの間の延暦12年(793年)には平安京遷都のために、大納言・藤原小黒麻呂と共に山背国葛野郡宇太村の土地を視察している[8]。
石成(いしなり)
- 坂上田村麻呂の部下
衣川(ころもがわ)
衣川 | |
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衣川
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水系 | 一級水系 北上川 |
種別 | 一級河川 |
延長 | 27.0 km |
平均流量 | -- m³/s |
流域面積 | -- km² |
水源 | 岩手県奥州市 |
水源の標高 | 927 m |
河口・合流先 | 北上川(西磐井郡平泉町) |
流域 | 日本 岩手県 |
母礼(もれ)・磐具公(いわぐのきみ)
- 阿弖流為の仲間
春子(はるこ)
- 坂上田村麻呂の娘
山背国(やましろのくに)
山城国 | |
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■-山城国 ■-畿内 |
天石(あまいし)
- 刀鍛冶
- 引退
福万呂(ふくまろ)
- 天石の息子
諸岩(もろいわ)
- 母礼(もれ)・磐具公(いわぐのきみ)の息子
延暦(えんりゃく)15年・796年
延暦(えんりゃく)16年・797年
- 田村麻呂 征夷大将軍となって再度東北へ
按察使(あぜち)
- 鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)は、奈良時代から平安時代にかけて陸奥国に置かれた軍政府である鎮守府の長官。令外官である。平安時代中期以降は武門の最高栄誉職と見なされたが、鎌倉幕府の成立で征夷大将軍が武家の首長職として常置されるに及び、鎮守府将軍の権限と地位はその中に吸収された。
名 | 補任(不明の場合は初見) | 兼官・位階 | 典拠・備考 |
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大野東人 | - 天平元年9月(729年10月)見 - | 按察使兼任、従四位下 | |
大伴古麻呂 | 天平勝宝9歳6月16日(757年7月6日)任 | 左大弁兼任、正四位下 | 同年7月4日(7月24日)罪死 |
藤原恵美朝猟 | - 天平宝字4年1月(760年1月)見 - | 陸奥按察使兼任、正五位下 | |
田中多太麻呂 | 天平宝字8年9月29日(764年10月28日)任 | 陸奥守兼任、従四位下 | |
石川名足 | 神護景雲2年9月4日(768年10月18日)任 | 大和守兼任、正五位上 | |
坂上苅田麻呂 | 神護景雲4年9月16日(770年10月9日)任 | 正四位下 | |
佐伯美濃 | 宝亀2年閏3月1日(771年4月20日)任 | 陸奥守兼任、従四位下 | |
大伴駿河麻呂 | 宝亀4年7月21日(773年8月13日)任 | 陸奥按察使・陸奥守兼任、正四位下 | 宝亀7年7月7日(776年7月26日)卒 |
紀広純 | - 宝亀8年12月(778年1月)見 - | 正五位下勲五等 → 従四位下勲四等 | |
大伴家持 | 天応2年6月17日(782年7月31日)任 | 陸奥按察使・春宮大夫兼任、従三位 | |
百済王俊哲 | - 延暦6年閏5月5日(787年6月24日)解 | 正五位上 | 日向権介に左遷 |
多治比宇美 | 延暦7年2月28日(788年4月8日)任 | 陸奥按察使・陸奥守兼任、正五位下 | |
百済王俊哲 | 延暦10年9月22日(791年10月23日)任 | 下野守兼任、正五位上 | |
坂上田村麻呂 | 延暦15年10月27日(796年11月30日)任 | 近衛少将兼任、従四位下 |
延暦20年・801年
神王(みわおう)
- 神王(みわおう)は、二品・志貴皇子の孫。榎井王の子。右大臣となり、桓武天皇の近親として桓武朝後半の治世を支えた。従二位、贈正二位。吉野大臣と号した
- 坂上田村麻呂が桓武帝による3度目の東征後、平安京に戻った時、神王は右大臣。
壱志濃王(いちしのおう)
- 壱志濃王(いちしのおう、天平5年(733年) - 延暦24年11月12日(805年12月6日))は、奈良時代後期から平安時代初期にかけての皇族。天智天皇の孫である湯原王の第二子。官位は正三位大納言。贈従二位。
- 坂上田村麻呂が桓武帝による3度目の東征後、平安京に戻った時、壱志濃王は大納言。
五柱 自らの役割
月読命(つくよみのみこと)の神社
- 月読を祭神とする神社・・・皇大神宮の別宮・月讀宮や、豊受大神宮の別宮・月夜見宮に祀られる。また、京都の月読神社は壱岐市の月讀神社から勧請を受けたものである。日本百名山や出羽三山で知られる月山(ガッサン,1984m,山形県)の名称は、山頂に鎮座する神社(月山神社,旧社格:官幣大社)の祭神である月読之命に因んだものとされる。
- 萩原良彦は仙台から京都に戻っているようなので、本書での神社は京都の月読神社と思われる。ここで傷の手当をされ、2日間意識がなかった義彦。
少彦名神(すくなびこなのかみ)
一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)
お華(はな)
高龗神(たかおかみのかみ)
-
日本神話では、神産みにおいて伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した際に生まれたとしている。
『古事記』及び『日本書紀』の一書では、剣の柄に溜った血から闇御津羽神(くらみつはのかみ)とともに闇龗神(くらおかみのかみ)が生まれ、『日本書紀』の一書では迦具土神を斬って生じた三柱の神のうちの一柱が高龗神(たかおかみのかみ)であるとしている。
- 『古事記』においては、淤迦美神の娘に日河比売(ひかはひめ)がおり、須佐之男命の孫の布波能母遅久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬのかみ)と日河比売との間に深淵之水夜礼花神(ふかふちのみづやれはなのかみ)が生まれ、この神の3世孫が大国主神であるとしている。 また、大国主の4世孫の甕主日子神は淤加美神の娘比那良志毘売を娶り、多比理岐志麻流美神をもうけている。
- 原義
龗(おかみ)は龍の古語であり、龍は水や雨を司る神として信仰されていた。
「闇」は谷間を、「高」は山の上を指す言葉である。
大国主神(おおくにぬしのかみ)
日名照額田毘道男伊許知邇神(ひなてるぬかたびちおいこちにのかみ)
- 日名照額田毘道男伊許知邇神(ひなてるぬかたびちおいこちにのかみ)は、日本神話に登場する女神。
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ひなてるぬかたびちおいこちにのかみと訓まれるが、書籍によってはひなてりぬかたびちおいこちにのかみともされる。
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『古事記』にのみ登場する神であるが、系譜以外の具体的な事績については不明。
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長い神名は文字の配列から考えて「日名照・額田毘道男・伊許知邇神」と分解できる
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次にこの神は女神であるのに、「男」を含むのは異常であるから、「日名照・額田毘道男」は「伊許知邇神」の父神の名で、それを娘の名に冠したものと考えられる。
- まず「日名照」は「日な(の)曇り」の反対で「日な(の)照る」の意で、「額田」は「額のような四角い田」の意で良田を指す。これは額田の上に「日がよく当る」という修飾語を冠している。「毘道男」の「毘」は「辺」で、「額田辺へ行く道の男」の意。これが父神の名。
- 次に「伊許知邇」の「伊許」は「厳(いか)」で、「いこよか」の語もあるように、勢いの盛んなさまで、ここでは「稲の繁茂」の表象、「知」は「神霊」、「邇」は人につく親称と解する。これが娘神の名。
上記から名義は「日が照る、額田辺の道を父にもつ、勢いの盛んな精霊」と考えられる。またこの神の農業神的性格が子の国忍富神に引き継がれている
- 系譜 大国主神の子鳥鳴海神との間に国忍富神を生んでいる。
- 仙台から京都へもどって2日
月読命(つくよみのみこと)
富久(ふく)と謡(よう)をつれた久延毘古命(くえびこのみこと)
久延毘古命(くえびこのみこと)
- 久延毘古(くえびこ)は、日本神話に登場する神。
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大国主の国づくりの説話において登場する。『古事記』によると、大国主神の元に海の向こうから小さな神がやって来たが、名を尋ねても答えず、誰もこの神の名を知らなかった。するとヒキガエルの多邇具久が「久延毘古なら、きっと知っているだろう」と言うので、久延毘古を呼び尋ねると「その神は神産巣日神の子の少名毘古那神である」と答えた。
さらに古事記では「久延毘古とは"山田のそほど"のことである」と説明されている。「山田のそほど」とはかかしの古名であり、久延毘古はかかしを神格化したもの、すなわち田の神、農業の神、土地の神である。かかしはその形から神の依代とされ、これが山の神の信仰と結びつき、収獲祭や小正月に「かかし上げ」の祭をする地方もある。また、かかしは田の中に立って一日中世の中を見ていることから、天下のことは何でも知っているとされるようになった。
神名の「クエビコ」は「崩え彦」、体が崩れた男の意で、雨風にさらされて朽ち果てたかかしを表現したものである。また、「杖彦」が転じたものとも取れ、イザナギが黄泉から帰ってきた後の禊で杖を投げ出した時に生まれた船戸神(ふなとのかみ、岐神、道祖神)との関連も考えられる。
田の神、また、学業・知恵の神として信仰されており、久氐比古神社(石川県鹿島郡中能登町)や大神神社(奈良県桜井市)末社・久延彦神社などで祀られている。
天棚機姫神(あめたなばたつひめのかみ)
建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)
大地主神(おおとこぬしのかみ)
田道間守命(たじまもりのみこと)
宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
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ウカノミタマは、日本神話に登場する女神。『古事記』では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、『日本書紀』では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記する。名前の「宇迦」は穀物・食物の意味で、穀物の神である。また「宇迦」は「ウケ」(食物)の古形で、特に稲霊を表し、「御」は「神秘・神聖」、「魂」は「霊」で、名義は「稲に宿る神秘な霊」と考えられる。記紀ともに性別が明確にわかるような記述はないが、古くから女神とされてきた。
伏見稲荷大社の主祭神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されている。ただし、稲荷主神としてウカノミタマの名前が文献に登場するのは室町時代以降のことである(後述)。伊勢神宮ではそれより早くから、御倉神(みくらのかみ)として祀られた。
白狐
- 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の脱走眷属
義彦の自宅
- 京都 左京区
- 高野川と鴨川が合流する鴨川デルタ
『大建て替え』
須佐之男命(すさのおのみこと)
鴨川デルタ
- 京都市左京区下鴨宮河町
- アクセス 市バス「河原町今出川」下車、徒歩約5分、または京阪「出町柳駅」下車すぐ
- 鴨川(賀茂川)と高野川が合流するギリシャ文字のΔ(デルタ)に似た形の場所。鴨川沿いの四季折々の風景が楽しめる。亀や鳥などの形の飛び石が有名で、休日は特に家族連れや大学生のグループなどでにぎわう。ドラマやアニメで登場することも多く、聖地巡礼として訪れる人も。
宗像(むなかた)の娘たち
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宗像大社(むなかたたいしゃ)は福岡県宗像市に在る神社。式内社(名神大社)、八神郡の一つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。日本各地に七千余ある宗像神社、厳島神社、および宗像三女神を祀る神社の総本社であり、『日本書紀』では、一書に曰くとして「道主貴」と称される。玄界灘に浮かぶ沖ノ島を神域とし、沖ノ島で出土した古代祭祀の奉献品の多くは国宝に指定されている。裏伊勢とも称される。
「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群の構成資産の一つとして2017年(平成29年)に世界文化遺産登録されている。
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宗像大社は、沖ノ島の沖津宮、筑前大島の中津宮、宗像市田島の辺津宮(総社)の三社の総称であるが、現在では「辺津宮」のみを指す場合も多い。辺津宮は宗像市田島に鎮座しており「田島さま」とも地元では呼ばれる。筑前大島には沖津宮遥拝所(瀛津宮)もある。地図上で辺津宮から11km離れた中津宮、さらに49km離れた沖津宮は全て直線上にある。記紀に由緒が記された日本最古の神社の一つであり、古代から大陸と半島の政治、経済、文化の海上路であった。古くから海上・交通安全の神としての神威にちなみ、信仰されているが、現在では海上に限らず、道主貴の名のもとにあらゆる道、陸上・交通安全の神として信仰を集めている。そのため、福岡県やその周辺では宗像大社のステッカーを貼った自動車が多数見受けられるほか、新車を購入した際に祈願殿にて御祓いを受ける人も非常に多い。また、車に装着する交通安全のお守りは宗像大社が発祥である。
沖津宮のある海上交通の要所に位置する沖ノ島は、古来より島に立ち入り見聞きした事を口外してはならず「お不言さま(おいわずさま)」と呼ばれ、島全体が御神体である。そのため現在でも女人禁制であり、男性であっても上陸前には禊を行なわなければならない。これが男女差別だと言われることもあるが、これは島の神が女の神様(田心姫神)であり、女性が島に上陸すると嫉妬され祟りがあると言われている説があるが定かではない。昭和29年以来十数年に渡り沖ノ島の発掘調査が行われ、4世紀から9世紀までの古代祭祀遺構や装飾品などの大量の祭祀遺物(奉献品)、この他に縄文時代から弥生時代にかけての石器や土器などの遺物が発見された。このことから、沖ノ島は俗に「海の正倉院」と呼ばれており、有史以前の古代から海人族らの信仰の対象とされていたことが偲ばれる。現在は、台風などの緊急避難港に指定されている。なお、大社拝殿に掲げられる神勅の額は、伏見宮貞愛親王が揮毫、宗像宮の額は勅使正二位権大納言、葉室顕孝の揮毫。
エジプト考古学者の吉村作治が提唱し、沖ノ島及び宗像地域の祭祀遺跡などを世界遺産にする運動が起こり、2009年に「沖津宮・中津宮・辺津宮」及び「沖津宮遥拝所と沖ノ島全体」を含めて、「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群として暫定リストに追加掲載、2015年には推薦候補となり、2017年7月、ポーランド・クラクフでのユネスコ世界遺産委員会で、正式に世界遺産に登録された。
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3社にそれぞれ以下の神を祀り、宗像三女神(宗像大神)と総称する。
六柱 過去と現在
坂上田村麻呂を祀る神社
- 死後と神格化
弘仁2年5月27日(811年6月21日)に大舎人頭・藤原縵麻呂と治部少輔・秋篠全継が田村麻呂宅に派遣され、天皇の宣命を代読して大納言・田村麻呂に従二位が贈られた。葬儀が同日に営まれ、山城国宇治郡来栖村水陸田三町を墓地として賜わって、遺体は甲冑・兵仗・釼・鉾・弓箭・糒・塩を調へ備へて、合葬せしめ、城の東に向け窆を立つように埋葬された。もし国家に非常時があれば田村麻呂の塚墓はあたかも鼓を打ち、あるいは雷電が鳴る。以後、将軍の職に就いて出征する時はまず田村麻呂の墓に詣でて誓い、加護を祈るとされた。現在、京都市山科区の西野山古墓が田村麻呂の墓所として推定されている。
弘仁3年(812年)正月、嵯峨天皇の勅令によって、鈴鹿峠の二子の峰に田村麻呂を祀る祭壇が設けられた。弘仁13年4月8日(822年5月2日)には土山の倭姫命を祀る高座大明神の傍らにも田村麻呂を祀る一社を建て、併せて高座田村大明神(現在の田村神社)と称した。
『公卿補任』に「毘沙門天の化身、来りてわが国を護ると云々」と記され、生前から毘沙門天の化身として評価されたことから伝説上の人物・坂上田村麻呂として語り継がれていく
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田村神社(たむらじんじゃ)は、滋賀県甲賀市土山町にある神社。旧社格は県社。境内のうち第一鳥居から第二鳥居並びに第二鳥居から海道橋まで、東海道が参道の一部を通る。
毎年2月18日を中心とした3日間に執り行われる厄除大祭で有名である。
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大阪府枚方市牧野阪の片埜神社裏にある牧野公園(片埜神社の旧社地)に「伝 阿弖流為 母禮 之塚」碑がある。顕彰碑が整備される以前は「首塚」と称される塚状の高まりであった。遺跡地図ではその場所に牧野阪古墳が記され、その隣に西寺の瓦が出土した牧野阪瓦窯跡が記されている。周辺一帯は牧野阪遺跡と呼ばれている。
枚方市史第一巻の「阪の古墳」は昭和28年(1953年)の台風13号被害復旧のために宮川徒達が見守る中、重機で破壊された。発掘はされていないので小丘が確実に古墳であったのかどうかは不確定でありその日時や詳しい場所や残存物処理方法も未記載である。・・・以降も色々ある
- 枚方市のアテルイ首塚問題
- 萩原良彦と吉田穂乃花と百済王聡哲(くだらのにしきそうてつ)が訪ねた場所
久久紀(くくき)
- 久久紀若室葛根神(くくきわかむろつなねのかみ)
- 『古事記』によると、大年神の子で山裾の肥沃な土地の神である羽山戸神と穀物神である大気都比売神が婚姻して以下の八人の御子神が生まれた。若山咋神、若年神、若沙那売神、弥豆麻岐神、夏高津日神(夏之売神)、秋毘売神、久久年神、久久紀若室葛根神。
- これらの神々は植物(特に稲)の成育を示す
- 久久紀は茎立つ木で材木、若室は新築の家、葛根は材木を結び固める綱のことで、新嘗祭のための新しい建物の意味。
大気都比売神(おおげつひめのかみ)
久久紀(くくき)が言う日名照(ひなてる)とは
- 日名照額田毘道男伊許知邇神(ひなてるぬかたびちおいこちにのかみ)のこと
布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)
- 布都御魂(ふつのみたま)は、記紀神話に現れる霊剣。韴霊剣、布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)とも言う。佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ)とも言う。この表記の内、佐士布都神の「さじ(佐士)」は「さひ(佐比=刀の古語)」の誤記と見られている。名称にある「ふつ」とは、「断ち切る様」をいう
- 伝承
建御雷神(たけみかずちのかみ)はこれを用い、葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定した。神武東征の折り、ナガスネヒコ誅伐に失敗し、熊野山中で危機に陥った時、高倉下が神武天皇の下に持参した剣が布都御魂で、その剣の霊力は軍勢を毒気から覚醒させ、活力を得てのちの戦争に勝利し、大和の征服に大いに役立ったとされる。
神武の治世にあっては、物部氏、穂積氏らの祖と言われる宇摩志麻治命(うましまじのみこと)が宮中で祭ったが、崇神天皇の代に至り、同じく物部氏の伊香色雄命(いかがしこおのみこと)の手によって石上神宮に移され、御神体となる。同社の祭神である布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)は、布都御魂の霊とされる。
- 石上神宮
布都御魂はやがて拝殿の裏手の禁足地に埋められるが、明治7年(1874年)に当時の大宮司の菅政友によって発掘され、本殿内陣に奉安され、御神体として祭られている。その際、刀鍛冶師の月山貞一(初代)が作刀した布都御魂剣の複製2振が本殿中陣に奉安された。
菅政友によって発掘された物は、形状は内反り(通常の日本刀とは逆に刃の方に湾曲)の片刃の鉄刀。柄頭に環頭が付いている。全長は記録によって微妙に異なるが、85cm位である。
- 鹿島神宮
一方、鹿島神宮にも布都御魂剣または韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)と称する巨大な直刀が伝わっている。由来は不明であるが、奈良時代末期から平安時代初期の制作とされる。国宝に指定されており、鹿島神宮の宝物館にて展示されている。
布都御魂は神武天皇に下される前は鹿島神宮の主神であるタケミカヅチのものであり、布都御魂が石上神宮に安置され鹿島に戻らなかったために作られた二代目が、現在鹿島に伝わる布都御魂剣であるという
七柱 償いと決意
ホワイトチョコレートでコーティングされたラスク
鹽竈(しおがま)の社
荒脛巾神 斎場
- 氷川神社との関係
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この大宮を中心とする氷川神社群(氷川神社、中氷川神社、女氷川神社に調神社、宗像神社、越谷の久伊豆神社まで含めたもの)はオリオン座の形に並んでおり、脇を流れる荒川を天の川とすれば、ちょうど天を映した形になっているとみる説もある[誰?]。氷川神社は延喜式に掲載されている古社ではあるが、氷川神社の主祭神がスサノオであるという明確な記述は江戸時代までしか遡れない
丹内山神社
- 丹内山神社(たんないさんじんじゃ)は、岩手県花巻市東和町にある神社。本殿などが岩手県の有形文化財に
- 祭神 多邇知比古神(たにちひこのかみ)天之御中主神(あまのみなかぬしのかみ)高御産日神(たかみむすびのかみ)神御産日神(かみむすびのかみ)宇麻阿志訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)夫之常立神八十八座
- 岩手県花巻市東和町谷内2-303
- 本書では阿弖流為と坂上田村麻呂が誓い合った場所
『神の禁忌』
鹽土老翁神(しおつちおぢもかみ)
- シオツチノオジ(シホツチノヲヂ)は、日本神話に登場する神であり塩竈明神とも言う。『古事記』では塩椎神(しおつちのかみ)、『日本書紀』では塩土老翁・塩筒老翁、『先代旧事本紀』では塩土老翁と表記する。別名、事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさ)。
- 名前の「シホツチ」は「潮つ霊」「潮つ路」であり、潮流を司る神、航海の神と解釈する説もある。『記紀』神話におけるシオツチノオジは、登場人物に情報を提供し、とるべき行動を示すという重要な役割を持っている。海辺に現れた神が知恵を授けるという説話には、ギリシア神話などに登場する「海の老人」との類似が見られる。また、シオツチノオジは製塩の神としても信仰されている。シオツチノオジを祀る神社の総本宮である鹽竈神社(宮城県塩竈市)の社伝では、武甕槌神と経津主神は、塩土老翁の先導で諸国を平定した後に塩竈にやってきたとする。武甕槌神と経津主神はすぐに去って行くが塩土老翁はこの地にとどまり、人々に漁業や製塩法を教えたという。白鬚神社の祭神とされていることもある
- 伝承
『日本書紀』の天孫降臨の説話において、日向の高千穂の峰に天降ったニニギが笠狭崎に至った時に事勝国勝長狭神が登場し、ニニギに自分の国を奉っている。一書では、事勝国勝長狭神の別名が塩土老翁で、イザナギの子であるとしている。
海幸山幸の説話においては、ホデリ(海幸彦)の釣針を失くして悲嘆にくれるホオリ(山幸彦)の前に現れる。ホオリから事情を聞くと小舟(または目の詰まった竹籠)を出してホオリを乗せ、そのまま進めば良い潮路に乗って海神の宮に着くから、宮の前の木の上で待っていれば、あとは海神が良いようにしてくれると告げる。
遥斗(はると)
- 高龗神(たかおかみのかみ)の役にたちたいと思っている
優真(ゆうま)
- 稲本(おなもと)となかがいい
大野(おおの)
- 和歌山
八柱 愛らしいもの
根源神(こんげんしん)
天照大御神=大日孁女神(おおひるめのめがみ)
国之常立神(くにのとこたちのかみ)
四つ石の社
白(はく)
- 白狐
- 今は須佐之男命の眷属
みかんまるごとぷるぷるひんやりゼリー
坂上田村麻呂の刀
- 京都府の鞍馬寺に奉納された黒漆剣(こくしつけん)
- 兵庫県の清水寺に奉納された無銘の大刀(三振)
- 田村麻呂の墓とされる木棺墓(西野山古墓)から発見された金装大刀
- 田村麻呂の死後、天皇家の重宝「坂家宝剣(坂上宝剣)」として代々受け継がれてきたものもあると言われていますが、現在は不明