天智と天武 1 -新説・日本書紀- (ビッグコミックス) (日本語) コミック – 2013/2/28
中村 真理子 (著), 園村 昌弘 (原著)
隋唐帝国 (講談社学術文庫) (日本語) 文庫 – 1997/10/9
布目 潮風 (著), 栗原 益男 (著)
<人>炊屋姫(かしきやみめ)=推古天皇
<人>堅塩媛(きたしひめ)
- 曽我稲目(そがのいなめ)の娘
<人>敏達(びだつ)天皇
<人>穴穂部皇子(あなほべのみこ)
<人>小姉君(おあねのきみ)
- 蘇我稲目(そがのいなめ)の娘
<人>崇峻天皇(すしゅんてんのう)=泊瀬部(はつせべ)大王
<人>蘇我馬子
- 古代の中央豪族
- 蘇我稲目(いなめ)の子
- 稲目に次いで大臣(おおおみ)となり,587年聖徳太子とともに排仏派の物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼした
- 用明天皇の崩御後、蘇我と物部の対立が激化
- 蘇我馬子は用明2 (587) 年、物部氏が立てようとしていた穴穂部皇子を殺し、豊御食炊屋姫尊 =推古天皇や群臣とともに泊瀬部皇子を即位させた
- この月に大和倉梯 (くらはし) 柴垣宮に都した
- 馬子が大臣となり国政を左右したので,天皇は馬子を除こうとしたが、東漢直駒 (やまとのあやのあたいこま) に暗殺された
<人>東漢直駒 (やまとのあやのあたいこま)
<人>推古天皇
- 第 33代の天皇、女帝 (在位 592~628)
- 欽明天皇の第3皇女、母は蘇我稲目の娘
- 皇太夫人堅塩媛 (きたしひめ)
- 用明天皇と同母の妹で、名は幼少時は額田部、のち豊御食炊屋姫尊 (とよみけかしきやひめのみこと)
- 敏達5 (576) 年敏達天皇の皇后となったが、同 14年天皇を失い、さらに蘇我馬子のために崇峻天皇が殺されたのち、擁立されて崇峻5 (592) 年 12月豊浦宮で即位(39歳)
<場>飛鳥、豊浦宮(とゆらのみや)
<人>厩戸(うまやど)皇子=聖徳太子
- 父は用明天皇、母は穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后
- 推古天皇の甥
- 幼名は厩戸豊聡耳(うまやどのとよとみみ)皇子、のち上宮(じょうぐう)王ともいう
- 592年に即位した推古天皇の摂政として仏教を基調とした政治を行った
- 603年冠位十二階を定め、翌年には十七条憲法を制定した
- 607年小野妹子(いもこ)を派遣し隋(ずい)との対等の国交を開き、留学生・留学僧を送って大陸文化の導入に努めた
- 仏教に対しては深い理解と信仰を示し、その著作とされる《三経義疏(さんぎょうぎしょ)》には独自の解釈がうかがわれ、法隆寺・四天王(してんのう)寺・中宮寺・橘寺・広隆寺・法起(ほっき)寺・妙安寺の7寺を建立したといわれる
- 墓は磯長(しなが)谷(大阪府太子町)の叡福(えいふく)寺の伽藍北側にあり,叡福寺北古墳ともよばれる。叡福寺は推古天皇が太子の墓を守護追福するため坊舎を営んだことに始まると伝え,724年聖武天皇の勅願によって広大な伽藍が建立されたという。なお同寺は磯長寺・御廟(ごびょう)寺ともよばれ,大阪府八尾市の下太子大聖勝軍(しものたいしたいせいしょうぐん)寺,同羽曵野(はびきの)市の中太子野中(なかのたいしやちゅう)寺とともに上太子(かみのたいし)と並称される
- 622年2月22日 聖徳太子(49歳)
<時・場>589年 隋は南方の陳を攻め中国全土を統一した
- 朝鮮三国と大和王権は、隋が攻めてくるのではと恐怖する
<場>四天王(してんのう)寺
<人>慧慈(エジ)
<人>来目皇子(くめのおうじ)
- 用明天皇皇子
- 母は皇后穴穂部間人皇女
- 聖徳太子の同母弟
- 推古 10 (602) 年、征新羅将軍となり軍衆を率いて筑紫にいたり、遠征の準備(新羅征伐)を進めたが病気により翌年(603)2月筑紫において薨じた
<人>当摩皇子(たいまのおうじ)
- 用明天皇皇子
- 推古 11 (603) 年、征新羅大将軍来目皇子が筑紫に薨じたので後任となり難波より発船した。しかし播磨国 (兵庫県) において妻が没したため京に帰り、そのまま再び赴任せず遠征計画は中止された。大和王権は新羅支配と任那(みまな)回復を断念
<人>境部臣(さかいべのおみ)
- ?-? 飛鳥(あすか)時代の豪族
- 「日本書紀」によれば,推古天皇8年(600)大将軍に任命さ、万余の衆をひきいて任那(みまな)(朝鮮)救援のために新羅(しらぎ)(朝鮮)を攻めたという
- 境部氏は蘇我(そが)氏の一族。名前がつたわっていないが、蘇我馬子の弟境部摩理勢(まりせ)とする説がある。
<場>斑鳩の里
<場>豊浦宮(とようらのみや)→小墾田宮(オハリダノミヤ)
<人>菩岐々美郎女(ほききみのいらつめ)
- 斑鳩の膳(かしわで)氏の出身
冠位十二階
- 日本で最初の位階制度
- 冠の色によって階級を表わした
- 推古 11 (603) 年聖徳太子が制定
- 徳,仁,礼,信,義,智の6徳目をそれぞれ大小の2つに分けて 12階とし、これに紫,青,赤,黄,白,黒の色をあて、その濃淡によって大小を区別した
- その呼び方は『翰苑』によれば、徳をマヒトキミといっているように、中国風の音読みではなかったように思われる
- 施行範囲は、蘇我氏などの大豪族には及ばず、令制による四位以下相当のものに対して行われたという
- 大化3 (647) 年、3階の冠位が制定された
十七条憲法制度
- 聖徳太子の制定による日本最古の成文法
- 推古 12 (604) 年成立
- その内容は「和を以って貴しと為す」「篤く三宝(仏・法・僧)を敬え」「詔を承けては必ず慎め」など大和朝廷の官僚や豪族の守るべき道徳的訓戒で、17ヵ条の漢文で成り立っている
- 原始社会から大和王権に至るまで、この国の人々を縛ってきた祭祀的論理を否定し、上下の礼の秩序を基盤とする法理を提示
<人>小野妹子(おののいもこ)
- 推古天皇15年(607) 第二次遣隋使 7年ぶり
- 「日出る処の天子 日没する処の天子に書を致す 恙なきや・・・」
- 日本最初の遣隋大使
- 推古天皇15年(607)隋に渡り、翌年、隋使裴世清(はいせいせい)とともに帰国。同年、再び渡海。生没年未詳
<人>煬帝(ようだい)
- 隋の皇帝
<場>難波津
- 608 隋使・裴世清(はいせいせい)来訪 小野妹子とともに帰国
<人>裴世清(はいせいせい)
- 隋の煬帝の使者
- 推古 16 (608) 年6月第1回遣隋使小野妹子の帰国に伴われて来朝
- 日本の威信を示すために難波の鴻臚館に盛大に迎えられ、隋の国書、進物を朝廷に届けた。同年9月第2回遣隋使とともに帰国
<人>高向玄理(たかむくのくろまろ)
- [?~654]飛鳥(あすか)時代の朝臣
- 渡来人の子孫
- 遣隋使小野妹子(おののいもこ)に随行(608)
- 帰国後、僧旻(そうみん)とともに国博士(くにはかせ)に任ぜられ、大化の改新政府の重臣となった
- のち、遣唐押使となり、長安で客死
<人>犬上御田鍬(いぬがみたすき)
- 第四次遣隋使
<時>626年 蘇我馬子死去
<人>蘇我蝦夷(そがのえみし)
- 大臣を継ぐ
<時>628年3月7日 推古天皇死去(75歳)
<人>田村(たむら)皇子
<人>山背大兄(やましろおおえ)王