伴 健岑(とも の こわみね)は、平安時代初期の官人。右兵衛督・伴真臣の子。官職は春宮坊帯刀舎人。
経歴
仁明朝において、皇太子であった恒貞親王(淳和上皇の皇子)の春宮坊帯刀舎人を務める。
承和9年(842年)7月に天皇家の家父長的存在であった嵯峨上皇が危篤に陥ったことで、健岑は恒貞親王の立場に不安を持ち、7月10日に弾正尹・阿保親王に対して、嵯峨上皇の死期が近づいて国家の乱れが発生しようとしており、恒貞親王を奉じて東国へ向かってほしい旨を語る。しかし、阿保親王はこれに同調せずに、子細を記した封書を作成して密かに太皇太后・橘嘉智子に上呈、封書の内容は中納言・藤原良房を経由して仁明天皇に上奏されてしまう。7月15日に嵯峨上皇が崩御して16日に葬儀を終えると、17日には早くも謀反が露わにされて、健岑は但馬権守・橘逸勢と共に首謀者として捕らえられ、左衛門府に拘束される[1]。健岑と逸勢は左大弁・正躬王と右大弁・和気真綱から笞杖で打たれる拷問を受けるが[2]、両者共に罪を認めなかった。しかし、23日には仁明天皇より両者が謀反人であるとの詔勅が出され、恒貞親王は皇太子を廃された[3]。健岑と逸勢は最も重い罰を受け、健岑は隠岐国へ、逸勢は橘朝臣姓を剥奪して非人姓に改めた上で伊豆国への流罪に処された[3](承和の変)。
貞観7年(865年)配流先の隠岐国司から、恩赦によって放免された健岑を平安京に戻す旨の報告が右京職になされるが、対処は誤りであったらしく、改めて勅により出雲国へ遷配されている
承和の変(じょうわのへん)は、平安時代初期の842年(承和9年)に起きた廃太子を伴う政変。藤原氏による最初の他氏排斥事件とされている事件である。
823年(弘仁14年)、嵯峨天皇は譲位し、弟の淳和天皇が即位した。ついで皇位は、833年(天長10年)嵯峨上皇の皇子の仁明天皇に伝えられた。仁明天皇の皇太子には淳和上皇の皇子恒貞親王(母は嵯峨天皇の皇女正子内親王)が立てられた。嵯峨上皇による大家父長的支配のもと30年近く政治は安定し、皇位継承に関する紛争は起こらなかった。
この間に藤原北家の藤原良房が嵯峨上皇と皇太后橘嘉智子(檀林皇太后)の信任を得て急速に台頭し始めていた。良房の妹順子が仁明天皇の中宮となり、その間に道康親王(後の文徳天皇)が生まれた。良房は道康親王の皇位継承を望んだ。道康親王を皇太子に擁立する動きがあることに不安を感じた恒貞親王と父親の淳和上皇は、しばしば皇太子辞退を奏請するが、その都度、嵯峨上皇に慰留されていた。
840年(承和7年)、淳和上皇が崩御する。2年後の842年(承和9年)7月には、嵯峨上皇も重い病に伏した。これに危機感を持ったのが皇太子に仕える春宮坊帯刀舎人伴健岑とその盟友但馬権守橘逸勢である。彼らは皇太子の身に危険が迫っていると察し、皇太子を東国へ移すことを画策し、その計画を阿保親王(平城天皇の皇子)に相談した。阿保親王はこれに与せずに、逸勢の従姉妹でもある檀林皇太后に健岑らの策謀を密書にて上告した。皇太后は事の重大さに驚き中納言良房に相談した。当然ながら良房は仁明天皇へと上告した[注釈 1]。
7月15日、嵯峨上皇が崩御。その2日後の17日、仁明天皇は伴健岑と橘逸勢、その一味とみなされるものを逮捕し、六衛府に命じて京の警備を厳戒させた。皇太子は直ちに辞表を天皇に奉ったが、皇太子には罪はないものとして一旦は慰留される。しかし、23日になり政局は大きく変わり、左近衛少将藤原良相(良房の弟)が近衛府の兵を率いて皇太子の座所を包囲。出仕していた大納言藤原愛発、中納言藤原吉野、参議文室秋津を捕らえた。仁明天皇は詔を発して伴健岑、橘逸勢らを謀反人と断じ、恒貞親王は事件とは無関係としながらも責任を取らせるために皇太子を廃した。藤原愛発は京外追放、藤原吉野は大宰員外帥、文室秋津は出雲員外守にそれぞれ左遷、伴健岑は隠岐(その後出雲国へ左遷)、橘逸勢は伊豆に流罪(護送途中、遠江国板築にて没)となった。また、春澄善縄ら恒貞親王に仕える東宮職・春宮坊の役人が多数処分を受けた。
事件後、藤原良房は大納言に昇進し、道康親王が皇太子に立てられた。
通説において、承和の変は藤原氏による他氏排斥事件の初めで、良房の望みどおり道康親王が皇太子に立てられたばかりでなく、名族伴氏(大伴氏)と橘氏に打撃を与え、また同じ藤原氏の競争相手であった藤原愛発、藤原吉野をも失脚させたとされている。承和の変の意味は、桓武天皇の遺志に遠因をもつ、嵯峨、淳和による兄弟王朝の迭立を解消し、嵯峨-仁明-文徳の直系王統を成立させたという点も挙げられる。また良房は、この事件を機にその権力を確立し昇進を重ね、遂に人臣最初の摂政・太政大臣までのぼり、藤原氏繁栄の基礎を築いた。
恒貞親王伝(つねさだしんのうでん)は、平安時代前期に書かれた漢文伝の1つ。承和の変で廃太子となった恒貞親王の生涯を描いている。全1巻(ただし、現存する古写本及び『続群書類従』に採録されたものには冒頭部分と中途部分に欠落がある)。
著作年代や著者については不明であるが、親王が没してから時期を経ていない9世紀後期の作品と考えられ、著者は古くから三善清行を著者とする説と紀長谷雄を著者とする説がある。
親王を擁護する立場から執筆されており、経学・歴史・音楽・書道・絵画に優れた才能を発揮して釈奠復興に努めるという優れた才能と実績を有しながら、本人の意向に反して立太子された末に承和の変でその地位を追われ、出家後は仏道修行に専念して大覚寺を開いたこと、陽成天皇退位後に藤原基経によって皇位継承を要請されて辞退した故事などが記されている。六国史にない記述も含まれており、史料としての評価も高い。
承和の変 わかりやすい動画見つけました。