北条 政村(ほうじょう まさむら)は、鎌倉時代前期から中期にかけての北条氏の一門。鎌倉幕府第7代執権(在職:1264年 - 1268年)。2代執権北条義時の四男。母は継室の伊賀の方。3代執権北条泰時は異母兄にあたる。政村流北条氏の祖であり、12代執権北条煕時は曾孫にあたる。13代執権北条基時も血縁的には曾孫である。
幼少の得宗家北条時宗(泰時の曾孫)の代理として7代執権となり、辞任後も連署を務めて蒙古襲来の対処にあたり、一門の宿老として嫡流の得宗家を支えた。
北条 時宗(ほうじょう ときむね)は、鎌倉時代中期の鎌倉幕府第8代執権(在職1268年-1284年)。
鎌倉幕府執権職を世襲する北条氏の嫡流得宗家に生まれ、世界帝国であったモンゴル帝国の圧力が高まるなかで執権に就任。内政にあっては得宗権力の強化を図る一方、モンゴル帝国(大元朝)の2度にわたる侵攻(元寇)を退けた。官位は、正五位下相模守。贈従一位。
太字は嫡流である得宗家。細字は支流(流祖ではない男子は省略)。
名越流はその嫡流意識の強さから、度々得宗家と対立し、数度の討伐を受けた。金沢流は最古の武家文庫と知られる金沢文庫を設立した。極楽寺流の北条重時は『極楽寺殿御消息』、『六波羅殿御家訓』の作者として知られる。得宗、赤橋流、常盤流の女系血筋は足利将軍家が、名越流の女系血筋は斯波氏が引き継いでいる。
執権1時政 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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2義時 | 時房 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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(佐介流) 時盛 |
(大仏流) 朝直 |
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3泰時 | (名越流) 朝時 |
(極楽寺流) 重時 |
(政村流) 7政村 |
(金沢流) 実泰 |
(伊具流) 有時 |
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時氏 | (苅田流) 時継 |
(赤橋流) 6長時 |
(常盤流) 時茂 |
(普恩寺流) 業時 |
(塩田流) 義政 |
(坂田流) 忠時 |
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4経時 | 5時頼 | (阿蘇流) 時定 |
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8時宗 | (宗政流) 宗政 |
(桜田流) 時厳 |
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9貞時 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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14高時 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
少弐氏(しょうにし、旧字体:少貳氏)は、日本の氏族の一つ。筑前、肥前など北九州地方の御家人・守護大名。藤原北家秀郷流と称した武藤氏の一族。
少弐氏 | |
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寄懸り目結
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出身
少弐氏は、武藤資頼が大宰府の次官である大宰少弐に任命されたことから始まる。資頼は藤原秀郷の流れを汲む武藤頼平の猶子となって武藤の名跡を継ぐが、資頼の出自は不詳である。その意味では、少弐氏は、資頼の父の武藤頼平の家系からすれば、頼平の先祖である藤原秀郷の後裔になるが、資頼の血筋からすれば、先祖不詳ということになる。
同時に、資頼は藤原道長の後裔と称し、代々が武蔵国に知行を持ち、武藤氏を称したという。さらに、鎮西豪族の興亡を記した戦記物によると、「左中将尾張守藤原長頼は、相伝の知行地である武州戸塚郷に下り、武藤中将と称した。その子頼氏は、八幡太郎義家に従って奥州に出陣し、寄懸の紋の旗を賜った」とある。これによれば、頼氏の子孫とする資頼は道長の後裔ということになる
劉 復亨(りゅう ふくこう、? - 1283年)は、モンゴル帝国・元に仕えた漢人武将。字は誠之。
至元11年(1274年)、元の日本侵攻(元寇)に際し、左副都元帥として第一回目の侵攻(文永の役)に従軍。『元史』左副元帥・劉復亨伝では「(劉復亨は)征東左副都元帥に遷り、軍4万、戦船900艘を統率し日本を征す。倭兵10万と遇い、これを戦い敗った」とされている。