三国志(6)(吉川英治歴史時代文庫 37) 文庫 – 1989/4/11 吉川英治
項羽と劉邦(上) (新潮文庫) 文庫 – 1984/9/27 司馬 遼太郎
項羽と劉邦(中) (新潮文庫) 文庫 – 1984/9/27 司馬 遼太郎
項羽と劉邦(下) (新潮文庫) 文庫 – 1984/9/27 司馬 遼太郎
赤壁の戦い 続き
場所 博陵(はくりょう)の渡口
曹仁(そうじん)
- 曹 仁(そう じん、建寧元年(168年) - 黄初4年3月19日(223年5月6日))
- 中国後漢末期から三国時代の武将。字は子孝(しこう)。
- 豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の人。
- 祖父は曹褒
- 父は曹熾(字は元盛、侍中・長水校尉)。
- 従兄は曹操。
- 弟は曹純。
- 子は曹泰・曹楷・曹範ら。
- 孫は曹初(曹泰の子)。
- 『三国志』魏志「諸夏侯曹伝」に伝がある。
- 騎兵を指揮して各地を転戦し、後には防衛司令官となり、晩年は大将軍・大司馬にまで昇った。
曹洪(そうこう)
- 曹 洪(そう こう、? - 232年)
- 中国後漢末期から三国時代の武将。字は子廉。
- 豫州沛国譙県の人。
- 従兄は曹操。
- 族父は曹瑜(後漢の衛将軍)。
- 伯父は曹鼎。
- 子は曹馥・曹震。娘は荀粲の妻。
- 曹操の養祖父である宦官曹騰の血族である。
- 曹騰や曹鼎の甥に当たる。
- 『三国志』魏志「諸夏侯曹伝」に伝がある。
張飛(ちょうひ)
-
中国後漢末期から三国時代の蜀の将軍、政治家。字は益徳。幽州涿郡(現在の河北省涿州市)の人。『三国志』蜀志に伝がある。封号は新亭侯、のち西郷侯。諡は桓侯。子は張苞・張紹・敬哀皇后張氏・張皇后。孫は張遵。
-
後漢末の群雄の1人である劉備の挙兵に当初から付き従った人物で、その人並み外れた勇猛さは下述の通り中原に轟いた。その武勇は後世にも称えられ、小説『三国志演義』を始めとした創作作品でも多くの脚色を加えて取り上げられており、現在でも中国や日本を中心にその人柄を大いに親しまれている。
- 張飛がかつて燕があった地域の涿郡(たくぐん)出身だったから
燕
- 燕(えん、紀元前1100年頃 - 紀元前222年)
- 中国に周代・春秋時代・戦国時代にわたって存在した国。春秋十二列国の一つ、また戦国七雄の一つ。河北省北部、現在の北京を中心とする土地を支配した。首都は薊(けい)で、現在の北京にあたる。燕都・薊城の遺蹟は北京市房山区に所在する。
- 糜 芳(び ほう、生没年不詳)
- 中国後漢末期から三国時代の将軍、政治家。字は子方。
- 徐州東海郡朐県(江蘇省連雲港市)の人。
- 兄は糜竺。
- 妹は糜夫人(劉備の夫人)。
- 本来の姓は縻(または靡)と読まれるという。
- 劉備に仕えた後、呉に仕えた。
場所 樊城(はんじょう)へ
場所 宛城(えんじょう)
曹操(そうそう)
劉曄(りゅうよう)
- 劉 曄(りゅう よう、生没年不詳)
- 中国、後漢末から三国時代にかけての政治家。魏の重臣。
- 家系は劉氏。字は子揚。
- 揚州阜陵国成徳県(現在の安徽省淮南市寿県)の人。
- 後漢の光武帝の庶子である阜陵質王・劉延の子孫に当たり、王族系の名門の出身であった。
- 成徳侯・劉普の次子。劉渙の同母弟。
- 子に劉寓、劉陶。
- 同族に幽州牧の劉虞がいる。
徐庶(じょしょ)
- 徐 庶(じょ しょ、? - 234年?)
- 中国後漢末期から三国時代の魏にかけての武将・政治家。字は元直(げんちょく)。
- 元の名は福であり、単家(たんか、あるいはぜんかと読み、権勢のない家柄、或いは寒門の意味)の出身である。
- 『三国志』「諸葛亮伝」注に引く『魏略』に伝があり、裴松之によると厳幹・李義・張既・游楚・裴潜・趙儼・韓宣・黄朗と同じ巻に収録されていた。
- 豫州潁川郡長社県(現在の河南省許昌市長葛市)の出身。
場所 襄陽(じょうよう)へ
- 百姓も連れていく
関羽(かんう)
張飛(ちょうひ)
劉琮(りゅうそう)
- 劉 琮(りゅう そう、生没年不明)
- 後漢末の人。
- 劉表の少子。
- 生母は不詳。
- 妻は蔡瑁・蔡夫人(蔡瑁の姉)の姪。
- 兄に劉琦。
-
『三国志』劉表伝によると、劉表と後妻の蔡夫人に寵愛され、蔡瑁・張允の一派が兄の劉琦を排除して彼を後継者に擁立しようとしたため、劉琦との仲が悪化した。
建安13年(208年)の劉表の死後、蔡瑁らの政治工作もあって、兄の劉琦を差し置いて後継者となった。進攻する曹操の軍勢に対抗して荊州を保全する策を配下に尋ねたが、蔡瑁・蒯越・傅巽・韓嵩・王粲らの進言に従い曹操に降伏した。
降伏の後は、蔡瑁・蒯越らと共に厚遇され、曹操により青州刺史に任ぜられ、同時に列侯に封ぜられた。後に諌議大夫・参同軍事となった。
魏延(ぎえん)
蔡 瑁(さい ぼう、生没年不詳)蔡瑁(さいぼう)
張允(ちょういん)
文聘(ぶんぺい)- 文 聘(ぶん ぺい、生没年不詳)
- 中国後漢末期から三国時代にかけての武将。字は仲業。
- 荊州南陽郡宛県(現在の河南省南陽市宛城区)の人。
- 子は文岱・文厚(従子)・文休(養子)。
- 孫は文武(文休の子)。
- 『三国志』魏志「二李臧文呂許典二龐閻伝」に伝がある。
場所 江陵(こうりょう)へ
王威(おうい)
- 王 威(おう い、生没年不詳)
- 中国後漢時代末期の武将。
- 正史 劉表の子劉琮に仕えた。曹操が大軍を率い荊州に侵攻して来ると、劉琮は戦わずして降伏し、劉備も逃走した。このとき王威は「曹操は我が軍を降し劉備も退けたため、安心して備えを緩めているに違いありません。私に兵数千を預けていただければ、曹操を捕虜にしてみせます。曹操を捕らえれば天下も夢ではありません」と劉琮に申し出た。しかし、劉琮はこれを容れなかった。その後の王威の行方は不明である。
蒯越(かいえつ)
- 蒯 越(かい えつ、? - 214年)
- 中国後漢時代末期の政治家、武将。字は異度(いど)。
- 荊州南郡中廬侯国の人。
- 楚漢戦争期の説客である蒯通の子孫。
- 同郷同姓の人である蒯良との関係は不明。
-
正史 最初は何進に東曹掾として仕え、宦官殺害を進言したが容れられなかった。その後、蒯越は自ら望んで汝陽の令として荊州に赴き、劉表配下の大将となった。初平年間に、蒯越は謀略と弁舌を駆使して、荊州で劉表に対立していた地方官や豪族を次々と滅ぼし、あるいは降伏させ、劉表の荊州統一に大きく貢献している。後、献帝の詔勅により、章陵太守を任され、樊亭侯に封じられた。
官渡の戦いが起こると、曹操に味方することを韓嵩や劉先と共に進言したが、劉表には受け入れられなかった。
建安13年(208年)、曹操が荊州へ進攻する中、劉表が死去し劉琮が後継した。蒯越は韓嵩や傅巽と共に曹操への降伏を劉琮に進言し、劉琮はこれを受け入れた。降伏後、蒯越は曹操から列侯に封じられ、光禄勲となった。曹操は、荀彧への手紙の中で「荊州を手に入れたことは嬉しくないが、蒯異度を手に入れたことは嬉しい」と記している。
張允(ちょういん)➡曹操に助順侯水軍副都督に任命される
荀攸(じゅんゆう)
- 荀 攸(じゅん ゆう、永寿3年(157年) - 建安19年(214年))
- 中国後漢末期の政治家。曹操軍の筆頭軍師。字は公達。
- 豫州潁川郡潁陰県(現在の河南省許昌市)の人。
- 荀彧の従子(おい)にして彼より年長である。
- 『三国志』魏志「荀彧荀攸賈詡伝」に伝がある。
蔡夫人(さいふじん)
蒯越(かいえつ)➡曹操に江陵(こうりょう)の太守樊城侯(はんじょうこう)に任命される
王粲(おうさん)・傅巽(ふそん)➡曹操に関内侯(かんだいこう)に任命される
劉琮(りゅうそう)➡曹操に青洲(せいしゅう)へ行かされる。刺史に。
- 王威(おうい)ついていく
- 于禁(うきん)に殺される
王粲(おうさん)
- 王 粲(おう さん、熹平6年(177年) - 建安22年1月24日(217年2月17日))
- 中国後漢末期の文学者・学者・政治家。字は仲宣。
- 兗州山陽郡高平県(現在の山東省済寧市微山県)の人。
- 曾祖父は王龔(後漢の三公)。
- 祖父は王暢(後漢の三公)。
- 父は王謙。
- 従兄弟は王凱。
- 子は男子二人。
- 文人としても名を残したため、建安の七子の一人に数えられる。
傅巽(ふそん)
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傅 巽(ふ そん、生没年不詳)
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傅嘏伝によると、傅氏は「傅介子の后」とある。さらに傅嘏伝に引用された『傅子』によると、傅嘏の祖父は傅睿(代郡太守)、父は傅充(黄門侍郎)とある。傅嘏の出身が北地郡泥陽県となっており、傅子の著者である傅玄も同じであるため、傅巽も同地の出身である可能性がある。
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当初は三公に招聘を受けた人材であったが(東曹掾であったという記録がある)、後に荊州に逃れ、独自勢力を保っていた刺史の劉表を頼った。
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劉表の死後、曹操が荊州平定の軍を起こすと、荊州とその客将である劉備の軍事力を当てにして、降伏を渋る劉表の子劉琮を蒯越や韓嵩らと共に説得した。傅巽は劉備が曹操に対抗できないであろう事と、仮に劉備が曹操に対抗できたとしても、今度は劉琮が劉備に対抗できず併呑されてしまうだろうと説き、曹操への降伏が滅亡を免れる道であるという旨の進言をした(劉表伝)。劉琮が曹操に降伏すると、傅巽は荊州を降伏させた功績から関内侯に封じられた。
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魏への禅譲の際は散騎常侍の地位にあったが、多くの群臣と共に曹丕に協力したという(文帝紀に引く『献帝伝』より)。曹丕(文帝)が即位すると、黄初年間には侍中(傅嘏伝では侍中尚書)に任じられた。同僚の蘇則が、曹丕に責められていると誤解し弁明しようとした際は、曹丕が蘇則ではなく曹植を責めていることをこっそり伝え、弁明を止めさせている(蘇則伝)。
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容貌が整った人物で、博学多才、加えて人物鑑定の天才であったという。荊州に居た頃、無名であった龐統を「才知に優れた英雄だが、器量が不完全」と評し、また裴潜を「清潔で品行方正な人物」と評価した。また、曹操に仕えた後、才能ある人物として評判のあった魏諷を「後に謀反を起こす」と予言した。
関内侯(かんだいこう)
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名前の由来は、「侯の称号はあっても封国がなく関内(函谷関以西。秦の元々の領土)に居るから」(『漢書』顔師古注)、「関内の邑の租税を得るから」(『続漢書』注引如淳)、「秦が六国を滅ぼす以前、将帥の家は関内にあったから」(『続漢書』注引荀綽『晋百官表注』)、「秦は関内を直轄領としていたため」(『続漢書』劉昭注)など諸説ある。
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列侯との違いとして師古注では基本的に食邑が与えられず、特別として関内の邑の租税のみを与えられることがあるとしている。しかし関内侯に食邑が与えられた例は多数あり、この解釈は誤りとされる。関内侯と列侯との間に実利的な意味での違いは無かったが、韋玄成が関内侯に落とされた時にその嘆きを詩に読んだ史実が示すように、実利を超越して爵制における最高位と十九位の差は大きかったと考えられる。
列侯(れっこう)
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元は徹侯と言った。武帝の名が「徹」であるため、避諱されて「通侯」「列侯」と言った。『漢書』等の記録の中では通常「列侯」と呼ばれている。
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漢の二十等爵の最上位に当たり、その上には皇帝の一族しか封じられないのが原則の諸侯王があるのみであるため、実質的には人臣が昇りうる最高の爵位である。
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列侯は封土を与えられてその地の民の君主となり、その租税を自分のものとした。通常は封土の名前を付けて「○○侯」と呼ばれ、その封土は「○○国」と呼ばれる。例えば、潁川郡舞陽県に封じられたら「舞陽侯」であり、その侯国は「舞陽国」である。そうではなく、富民侯のようにめでたい字で名前をつけることもあった。
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印綬は金印紫綬であり、侯国を統治するために相が置かれた。また家丞、庶子、門大夫、洗馬、行人といった属官が置かれた(家丞と庶子以外は後漢になり廃止された)。
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侯国の君主という扱いであるため、官職を持つものと皇帝により特に止められている者以外は封国に実際に赴くこととなっていた。後者が待遇として制度化されたものが特進である。封じられた者が死ぬと諡が贈られ、嫡子が列侯を継承した。嫡子が無かった場合、または罪があった場合には列侯が剥奪された。たとえば漢の高祖の功臣樊噲は功により舞陽侯に封じられ、死去したのちに武侯と諡された。嫡子が舞陽侯を継承したが、母が呂后の妹であった縁から呂氏が滅んだのに連座して誅殺され、舞陽侯は断絶した。数ヶ月後に樊噲の庶子が再び舞陽侯に封じられ、死去した後に荒侯と諡された。その息子が舞陽侯を継いだが、後に荒侯の実子ではないとされ舞陽侯は断絶している(史記樊噲伝)。
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軍功など大きな功績があった者、及び外戚が列侯に封建された。武帝元朔2年(紀元前127年)の「推恩の令」以降は、諸侯王が自分の領地を自分の子弟に分け与え、列侯とすることが許された。また、公孫弘以降は、丞相に就任すると列侯に封じられるのが定例となった。ただし、後漢に入ると丞相の列侯は行われなくなった。
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漢の列侯は魏の成立とともに関中侯に降格され、代わりに魏の成立に貢献した功臣の将軍が列侯になるが、魏の最末期(晋の成立期)に五等爵が列侯の上に位置づけられたことで形骸化し、功臣や外戚への待遇は、功臣には将軍位、外戚には光禄大夫が与えられるようになった。
刺史(しし)
于禁(うきん)
- 于 禁(う きん、? - 黄初2年(221年)?)
- 中国後漢末期から三国時代の武将。字は文則(ぶんそく)。
- 兗州泰山郡鉅平県(現在の山東省泰安市岱岳区)の人。
- 子は于圭。
- 『三国志』魏志「張楽于張徐伝」に伝がある。
玄徳追撃文聘(ぶんぺい)➡遅刻して、曹操に江夏の太守関内侯(かんだいこう)に官職を引き上げられる
糜竺(びじく)
- 糜 竺(び じく、? - 221年)
- 中国後漢末期から三国時代の政治家。字は子仲。
- 徐州東海郡朐県(江蘇省連雲港市)の人。
- 妹は糜夫人(劉備の夫人)。
- 弟は糜芳。
- 子は糜威。
- 孫は糜照。
- 本来の姓は縻(または靡)と読まれるという。
簡雍(かんよう)
淳于 導(じゅんう どう)淳于導(じゅんうんどう)
恩侯恩(かこうおん)
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夏侯 恩(かこう おん)
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第41回に曹操麾下として登場。曹操の寵愛を受け、宝剣である青釭の剣を預かる。長坂の戦いでの劉備追撃の際に趙雲によって刺殺され、青釭の剣を奪われる。
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なお、吉川英治の小説『三国志』では「夏侯惇の弟」としているが、『演義』及び吉川が直接の種本にしたとされる湖南文山の『通俗三国志』では「曹操の随身」とするのみであり、夏侯惇の弟というのは吉川が追加した人物設定と思われる。
倚天剣(いてんけん)と青紅剣(せいこうけん)
- 倚天剣(いてんけん)と一対をなす青紅剣(せいこうけん)のふたつは同時期に作られた剣です。青紅剣(せいこうけん)はもともと曹操(孟徳)所有の名剣でしたが、夏侯恩という武将に与えられています。
- 倚天剣(いてんけん)は、創作の三国志演義に登場します。「天をも貫く」という意味を持っています。その名が示すとおり、素晴らしい切れ味を誇っており、岩を泥のように切り裂くことができる名剣であったとか。曹操(孟徳)はこの倚天剣(いてんけん)を愛用し、常にこの剣を腰に帯びていたと伝えられています。さらに倚天剣(いてんけん)は曹操(孟徳)の死後、魏の宝剣として大切に保管されました。
糜夫人(びふじん)死亡
- 阿斗を関羽に託す
糜夫人(びふじん)
晏明(あんめい)
張郃(ちょうこう)
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子は張雄、他4人。
趙子龍(ちょうしりゅう) 場所 長坂橋(ちょうはんきょう)
- 趙 雲(ちょう うん、拼音: 、? - 229年)
- 中国後漢末期から三国時代の蜀漢にかけての将軍。字は子龍(しりゅう)。
- 冀州常山郡真定県(現在の河北省石家荘市正定県)の人。
- 封号は永昌亭侯。諡は順平侯。
- 子は趙統・趙広。
- 父と兄の名は不詳。
- 正史
もともとは公孫瓚の部下であったが、青州で袁紹と戦っていた田楷の援軍として公孫瓚が劉備を派遣した際、趙雲も随行して劉備の主騎となった。
建安13年(208年)、荊州の当陽県長坂で曹操自ら指揮を執る5000の兵に追いつかれた劉備は、妻子を捨てて逃走した。この時、趙雲が劉禅を身に抱え、更に甘夫人を保護したので、二人は危機を免れることができたが、劉備の娘二人は曹純に捕獲された(長坂の戦い)。この戦いの後、牙門将軍に昇進した。
劉備の入蜀時には荊州に留まった。建安18年(213年)、諸葛亮・張飛・劉封らと共に長江を遡って入蜀し、益州の各郡県を平定した。趙雲は江州(重慶)から別の川に沿って西進し、途上で江陽を攻略した。益州が平定された後、翊軍将軍に任ぜられた。
建興元年(223年)、劉禅が即位すると中護軍・征南将軍へ昇進し、永昌亭侯に封じられた。後、鎮東将軍に昇進した。
建興5年(227年)、諸葛亮と共に北伐に備えて漢中に駐留した。翌6年(228年)、諸葛亮が斜谷街道を通ると宣伝すると、魏の曹叡は曹真を郿に派遣し、諸軍の指揮を命じて駐屯させた。趙雲は鄧芝と共にその相手をする事となり、諸葛亮は祁山を攻めた。曹真は箕谷に大軍を派遣したが、兵の数は趙雲と鄧芝の方が多かったという(『漢晋春秋』)。しかし曹真の兵は強く、趙雲と鄧芝の兵は弱かったので、箕谷で敗北した。その際趙雲は自ら殿軍を務め、軍兵を取りまとめてよく守り、輜重もほとんど捨てずに退却できたため、大敗には至らなかったが、鎮軍将軍に降格された。一方、『華陽国志』では位階ではなく禄を貶したとの記録がある。諸葛亮は、箕谷では不戒の失があったと上奏している(蜀志「諸葛亮伝」)。
景耀4年(261年)、趙雲は順平侯の諡を追贈された。法正・諸葛亮・蔣琬・費禕・陳祗・夏侯覇は死後すぐに、関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠は景耀3年に追贈されており、趙雲は12人目である。時の論はこれを栄誉とした。
夏侯淳の部将 鐘縉(しょうしん)
- 鐘紳の兄
- 長坂の戦いで阿斗を抱いて逃げる趙雲を阻止しようとして殺された。
鐘紳(しょうしん)
- 夏侯淳の部将
- 長坂の戦いで阿斗を抱いて逃げる趙雲を阻止しようとして殺された。
張遼(ちょうりょう)
夏侯惇(かこうじゅん)
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吉川英治の三国志や横山光輝の三国志などの作品では「かこうじゅん」と江戸時代の慣例に従った読みになっている。
詳細は「三国志 (吉川英治)#作品の特徴」および「三国志 (横山光輝の漫画)#登場人物」を参照 - 前漢の高祖に仕えた夏侯嬰の末裔という。『三国志』(裴松之注引)の『曹瞞伝』や『世語』によると、曹嵩(曹操の父)は叔父(父の弟)に当たるという。曹操と夏侯淵の従兄弟に当たる。
- 中国後漢末期の武将。字は文謙。
- 兗州陽平郡衛国県(現在の河南省濮陽市清豊県)の人。
- 子は楽綝。
- 孫は楽肇。
- 『三国志』魏志「張楽于張徐伝」に伝がある。
- 小柄な体格だが激しい胆気を持ち、曹操が董卓に反抗して挙兵すると、その下へ馳せ参じた。曹操は当初、楽進を武将ではなく帳下の吏(記録係)として用いていた。あるとき楽進を出身郡へ帰らせて兵を集めさせたところ、楽進は1000もの兵を引き連れ帰還してきたという。これにより曹操は楽進を武将として起用することにし、軍の仮司馬・陥陣都尉に任命した。
白旄黄鉞(はくぼうこうえつ)
- 【斧】より…斧の大きいものを鉞(えつ)といい,天子が将軍に征討を命ずるときそのしるしとして授けた。天子が自ら征討に赴くときは,黄金で飾ったいわゆる黄鉞を用いた(《史記》周本紀など)。一般的に斧は日用の道具であるだけでなく武器であり,また刑具でもあり,戦争,破壊などの象徴としてこれを用いるのは世界的な現象である。…
夏侯覇(かこうは)
荀彧(じゅんいく)
-
若いことから才名をうたわれ「王佐の才」とも称揚され、後漢末の動乱期においては、後漢朝の実権を握った曹操の下で数々の献策を行い、その覇業を補佐した。しかし、曹操の魏公就任に反対したことで曹操と対立し、晩年は不遇だった。
劉 琦(りゅう き、生年不詳 - 209年)劉琦(りゅうき)
孫乾(そんけん)
場所 江夏へ
- 劉備軍
鄧義(とうぎ)
- 鄧 義(とう ぎ、生没年不詳)
- 中国後漢時代末期の政治家。
- 荊州章陵郡の人。
- 正史
劉表配下の治中従事(『後漢書』劉表伝は「侍中従事」としているが、「治中従事」の誤りと思われる)。
建安元年(196年)、曹操が献帝を許に迎え入れると、鄧義は劉表に曹操と同盟するよう進言した。しかし、この時点で袁紹と同盟していた劉表は進言を容れず、しかも鄧義を侮辱するような言動をした。鄧義は病気を口実に辞職し、劉表が没するまで出仕しなかった。
劉先(りゅうせん)
- 劉 先(りゅう せん、生没年不詳)
- 中国の後漢末期の政治家。字は始宗。
- 荊州零陵郡の人。
- 妹の子に周不疑がいる。
- 正史
劉表の配下。博学・強記で老荘の学を好み、漢代の故実に通じていた。劉表から荊州別駕に任じられた。
官渡の戦いが起こると、劉表の大将蒯越・従事中郎韓嵩と共に、曹操への降伏を劉表に説いたが、受け入れられなかった。
建安13年(208年)、曹操が荊州を支配すると、劉先も招聘された。劉先は漢王朝健在時に尚書令に任命され、のちに魏国[1]の尚書令に任命されている。以上の事跡のみからでは、劉先は単なる降伏主義者でしか無いように見えるが、『零陵先賢伝』によれば、彼の真価を物語る以下のような逸話もある。
劉表配下であったとき、劉先は劉表の使者として曹操と会見する機会があった。「劉表殿は(献帝のいる許に来ず)どうして郊外で天を祀られたのか」と曹操が問うと、「凶悪な者どもに道を阻まれているからです」と劉先は答えた。「凶悪な者どもとは何か」と曹操が問うと、「眼に映るものが全てそうです」と劉先は平然と答えた。「私には大軍がある。服従しないものなどない」と曹操がさらに答えると、「軍事力に頼り残忍な行為をする者は、現代の蚩尤・智伯でしかありません」と劉先は非難した。
曹操は不機嫌に黙り込んだが、劉先を武陵太守に任命した。その後の劉先の出世は、むしろ曹操の度量を物語る逸話となっている。またこの逸話は、結末こそ全く異なるが、『三国志演義』において、劉璋配下の張松と曹操が対面した際の逸話の元の一つである
曹操 呉に檄文+軍事牽制
孫権(そんけん)
孫 権(そん けん)場所 柴桑城(さいそうじょう)
魯粛(ろしゅく)
- 魯 粛(ろ しゅく、172年 - 217年)
- 中国後漢末期の武将・政治家。字は子敬(しけい)。
- 徐州下邳国東城県(現在の安徽省定遠県南東部)の出身。
- 子は魯淑。
- 孫は魯睦。袁術・孫策・孫権に仕えた。
- 赤壁の戦いでは降伏派が多い中、主戦論を唱え周瑜・孫権と共に開戦を主張した。
諸葛 瑾(しょかつ きん、174年 - 241年)諸葛瑾(しょかつきん)
ひょう‐びょう〔ヘウベウ〕【×縹×渺/×縹×緲/×瞟×眇】
縹渺(ひょうびょう)
-
- 1 広くはてしないさま。「―たる雪の広野を隔てて」〈・註文帳〉
- 2 かすかではっきりとしないさま。「慷慨 (こうがい) 節義の譚に、神仙―の趣を交ゆ」〈・〉
張昭(ちょうしょう)
- 張 昭(ちょう しょう、156年-236年)
- 中国後漢末期から三国時代の呉にかけての政治家・武将。字は子布。諡は文侯。
- 徐州彭城国の人。
- 妻は孫氏
- 子は張承・張休・他一名。
- 孫は張震。曾孫は張闓。玄孫は張混。
- 甥は張奮。
管仲(かんちゅう)
- 管 夷吾(かん いご)
- 中国春秋時代における斉の政治家である。
- 桓公に仕え、覇者に押し上げた。
- 一般には字の仲がよく知られており、以下本稿でも管仲(かん ちゅう)として記す
- 三国時代の管寧はその後裔という
項羽(こうう)
虞 翻(ぐ ほん、 164年 - 233年)仲翔(ちゅうしょう)
- 中国後漢末期から三国時代の学者・政治家。
- 呉に仕えた。
- 字は仲翔。
- 揚州会稽郡余姚県の人。
- 高祖父は虞光。
- 曾祖父は虞成。
- 祖父は虞鳳。
- 父は虞歆(字は文繡)。
- 子は虞汜・虞忠・虞聳・虞昺ら男子11名ほか。
- 『三国志』呉志に伝がある。
歩騭(ほしつ)
- 歩 騭(ほ しつ、? - 247年)
- 中国三国時代の呉の武将・政治家。字は子山。
- 徐州臨淮郡淮陰県の人。
- 子は歩協・歩闡。
- 孫は歩璣・歩璿。
- 同族に歩練師(孫魯班・孫魯育の母)。
- 『三国志』の呉志に伝がある。『呉書』によると、歩氏は晋の大夫である楊氏に遡る一族で、歩の地に所領を持ったことから歩姓を称したという。先祖には孔子に師事したという歩叔乗(子車)という人物がいる。秦末漢初の動乱期に将軍となった一族が淮陰侯に封じられたため、以降は淮陰を本貫としたという。
蘇秦(そしん)
張儀(ちょうぎ)
薛綜(せつそう)