Corona Borealis

*読書*

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はじめまして。

ようこそいらっしゃいました。

本棚 三国志(5)(吉川英治歴史時代文庫 37) 文庫 – 1989/4/11 吉川英治 (著)

 

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I found a book that I want to read.

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三国志(5)

(吉川英治歴史時代文庫 37) 文庫 

1989/4/11

吉川英治 (著)

 

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本と作家のリスト
 

f:id:coronaborealis:20170710085409g:plain三国志(6)(吉川英治歴史時代文庫 37) 文庫 – 1989/4/11  吉川英治

f:id:coronaborealis:20170710085409g:plain項羽と劉邦(上) (新潮文庫文庫 – 1984/9/27 司馬 遼太郎  

f:id:coronaborealis:20170710085409g:plain項羽と劉邦(中) (新潮文庫文庫 – 1984/9/27 司馬 遼太郎  

f:id:coronaborealis:20170710085409g:plain項羽と劉邦(下) (新潮文庫文庫 – 1984/9/27 司馬 遼太郎

f:id:coronaborealis:20170710085409g:plain封神演義

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映像リスト

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memo

 

赤壁の戦い 続き

場所 博陵(はくりょう)の渡口

曹仁(そうじん)

 
 

曹洪(そうこう)

 

 

張飛(ちょうひ)

 
燕人張飛
  • 張飛がかつて燕があった地域の涿郡(たくぐん)出身だったから

 
紀元前260年の戦国七雄
許褚(きょちょ)
 
玄徳(げんとく)
孔明(こうめい)
劉封(りゅうほう)
糜芳(びほう)

場所 樊城(はんじょう)へ

 

場所 宛城(えんじょう)

曹操(そうそう)

劉曄(りゅうよう)

徐庶(じょしょ)


場所 襄陽(じょうよう)へ 

  • 百姓も連れていく

関羽(かんう)

張飛(ちょうひ)

劉琮(りゅうそう)

  • 劉 琮(りゅう そう、生没年不明)
  • 後漢末の人。
  • 劉表の少子。
  • 生母は不詳。
  • 妻は蔡瑁蔡夫人蔡瑁の姉)の姪
  • 兄に劉琦
  • 三国志劉表伝によると、劉表と後妻の蔡夫人に寵愛され、蔡瑁張允の一派が兄の劉琦を排除して彼を後継者に擁立しようとしたため、劉琦との仲が悪化した

    建安13年(208年)の劉表の死後、蔡瑁らの政治工作もあって、兄の劉琦を差し置いて後継者となった。進攻する曹操の軍勢に対抗して荊州保全する策を配下に尋ねたが、蔡瑁蒯越傅巽韓嵩王粲らの進言に従い曹操に降伏した。

    降伏の後は、蔡瑁・蒯越らと共に厚遇され、曹操により青州刺史に任ぜられ、同時に列侯に封ぜられた。後に諌議大夫・参同軍事となった

魏延(ぎえん)


蔡 瑁
(さい ぼう、生没年不詳)蔡瑁(さいぼう)

張允(ちょういん)

  • 張 允(ちょう いん、生没年不詳)
  • 中国後漢時代末期の政治家、武将。
  • 従父は劉表劉表の甥。劉表の姉か妹の子)
  • 蔡瑁と共に劉表から信任を受けた。また後継者問題では、蔡瑁の姪婿にあたる劉琮の後継を支持し、兄の劉琦を退けようと謀った。劉表の病が重くなると、江夏を守備していた劉琦が見舞いに戻ってきた。張允と蔡瑁は、これを劉表に会わせると後継を考え直す可能性があると勘ぐり、理由をつけて追い返した。やはり劉表死後は劉琮が後継したが、まもなく曹操荊州進攻が始まったため、劉琮は戦わずして降伏した。張允についても、これ以上の記述は史書に見当たらない。
文聘(ぶんぺい)

 

場所 江陵(こうりょう)へ

  • 湖北省・沙市(さし)・揚子江
  • 襄陽(じょうよう)城の蔡瑁(さいぼう)から玄徳(げんとく)を慕って脱走する将士も一緒
  • 魏延(ぎえん)長沙(ちょうさ)の太守韓玄(かんげん)に身を寄せた

王威(おうい)

  • 王 威(おう い、生没年不詳)
  • 中国後漢時代末期の武将。
  • 正史 劉表の子劉琮に仕えた。曹操が大軍を率い荊州に侵攻して来ると、劉琮は戦わずして降伏し、劉備も逃走した。このとき王威は「曹操は我が軍を降し劉備も退けたため、安心して備えを緩めているに違いありません。私に兵数千を預けていただければ、曹操を捕虜にしてみせます。曹操を捕らえれば天下も夢ではありません」と劉琮に申し出た。しかし、劉琮はこれを容れなかった。その後の王威の行方は不明である。

蒯越(かいえつ)

  • 蒯 越(かい えつ、? - 214年
  • 中国後漢時代末期の政治家、武将。字は異度(いど)。
  • 荊州南郡中廬侯国の人。
  • 楚漢戦争期の説客である蒯通の子孫。
  • 同郷同姓の人である蒯良との関係は不明。
  • 正史 最初は何進に東曹掾として仕え、宦官殺害を進言したが容れられなかった。その後、蒯越は自ら望んで汝陽の令として荊州に赴き、劉表配下の大将となった。初平年間に、蒯越は謀略と弁舌を駆使して、荊州劉表に対立していた地方官や豪族を次々と滅ぼし、あるいは降伏させ、劉表荊州統一に大きく貢献している。後、献帝詔勅により、章陵太守を任され、樊亭侯に封じられた。

    官渡の戦いが起こると、曹操に味方することを韓嵩劉先と共に進言したが、劉表には受け入れられなかった。

    建安13年(208年)、曹操荊州へ進攻する中、劉表が死去し劉琮が後継した。蒯越は韓嵩や傅巽と共に曹操への降伏を劉琮に進言し、劉琮はこれを受け入れた。降伏後、蒯越は曹操から列侯に封じられ、光禄勲となった。曹操は、荀彧への手紙の中で「荊州を手に入れたことは嬉しくないが、蒯異度を手に入れたことは嬉しい」と記している。

    建安19年(214年)に死去。臨終の際、蒯氏一門を託す手紙を曹操に送り、曹操は報書して蒯越の願いに応えることを誓った。

蔡瑁(さいぼう)➡曹操に水軍大都督に任命される

張允(ちょういん)➡曹操に助順侯水軍副都督に任命される

荀攸(じゅんゆう)

蔡夫人(さいふじん)

重臣の5人➡曹操列侯(れっこう)に任命される

蒯越(かいえつ)➡曹操に江陵(こうりょう)の太守樊城侯(はんじょうこう)に任命される

王粲(おうさん)・傅巽(ふそん)➡曹操に関内侯(かんだいこう)に任命される

劉琮(りゅうそう)➡曹操に青洲(せいしゅう)へ行かされる。刺史に。

  • 王威(おうい)ついていく
  • 于禁(うきん)に殺される

王粲(おうさん)

傅巽(ふそん)

  • 傅 巽(ふ そん、生没年不詳)

  • 中国後漢末期から三国時代の政治家。字は公悌

  • 三国志においては、劉表伝に引用された『傅子』にまとまった記載がある。またに仕えた傅嘏は甥に当たる。

  • 傅嘏伝によると、傅氏は「傅介子の后」とある。さらに傅嘏伝に引用された『傅子』によると、傅嘏の祖父は傅睿(代郡太守)、父は傅充(黄門侍郎)とある。傅嘏の出身が北地郡泥陽県となっており、傅子の著者である傅玄も同じであるため、傅巽も同地の出身である可能性がある。

  • 当初は三公に招聘を受けた人材であったが(東曹掾であったという記録がある)、後に荊州に逃れ、独自勢力を保っていた刺史劉表を頼った。

  • 劉表の死後、曹操荊州平定の軍を起こすと、荊州とその客将である劉備の軍事力を当てにして、降伏を渋る劉表の子劉琮蒯越韓嵩らと共に説得した。傅巽は劉備曹操に対抗できないであろう事と、仮に劉備曹操に対抗できたとしても、今度は劉琮が劉備に対抗できず併呑されてしまうだろうと説き、曹操への降伏が滅亡を免れる道であるという旨の進言をした(劉表伝)。劉琮が曹操に降伏すると、傅巽は荊州を降伏させた功績から関内侯に封じられた。

  • 魏への禅譲の際は散騎常侍の地位にあったが、多くの群臣と共に曹丕に協力したという(文帝紀に引く『献帝伝』より)。曹丕(文帝)が即位すると、黄初年間には侍中(傅嘏伝では侍中尚書)に任じられた。同僚の蘇則が、曹丕に責められていると誤解し弁明しようとした際は、曹丕が蘇則ではなく曹植を責めていることをこっそり伝え、弁明を止めさせている(蘇則伝)。

  • 曹叡(明帝)の時代である太和年間に死去した。

  • 容貌が整った人物で、博学多才、加えて人物鑑定の天才であったという。荊州に居た頃、無名であった龐統を「才知に優れた英雄だが、器量が不完全」と評し、また裴潜を「清潔で品行方正な人物」と評価した。また、曹操に仕えた後、才能ある人物として評判のあった魏諷を「後に謀反を起こす」と予言した。

関内侯(かんだいこう)

  • 関内侯(かんだいこう)は王朝爵位

  • 漢の二十等爵における十九番目であり、その上には列侯があるだけである。

  • 名前の由来は、「侯の称号はあっても封国がなく関内(函谷関以西。の元々の領土)に居るから」(『漢書顔師古注)、「関内の邑の租税を得るから」(『続漢書』注引如淳)、「秦が六国を滅ぼす以前、将帥の家は関内にあったから」(『続漢書』注引荀綽『晋百官表注』)、「秦は関内を直轄領としていたため」(『続漢書劉昭注)など諸説ある。

  • 列侯との違いとして師古注では基本的に食邑が与えられず、特別として関内の邑の租税のみを与えられることがあるとしている。しかし関内侯に食邑が与えられた例は多数あり、この解釈は誤りとされる。関内侯と列侯との間に実利的な意味での違いは無かったが、韋玄成が関内侯に落とされた時にその嘆きを詩に読んだ史実が示すように、実利を超越して爵制における最高位と十九位の差は大きかったと考えられる

列侯(れっこう)

  • 列侯(れっこう)は、古代中国、前漢後漢における爵位の一つ。

  • 元は徹侯と言った。武帝の名が「徹」であるため、避諱されて「通侯」「列侯」と言った。『漢書』等の記録の中では通常「列侯」と呼ばれている。

  • 漢の二十等爵最上位に当たり、その上には皇帝の一族しか封じられないのが原則の諸侯王があるのみであるため、実質的には人臣が昇りうる最高の爵位である。

  • 列侯は封土を与えられてその地の民の君主となり、その租税を自分のものとした。通常は封土の名前を付けて「○○侯」と呼ばれ、その封土は「○○国」と呼ばれる。例えば、潁川郡舞陽県に封じられたら「舞陽侯」であり、その侯国は「舞陽国」である。そうではなく、富民侯のようにめでたい字で名前をつけることもあった。

  • 印綬は金印紫綬であり、侯国を統治するためにが置かれた。また家丞、庶子、門大夫、洗馬、行人といった属官が置かれた(家丞と庶子以外は後漢になり廃止された)。

  • 侯国の君主という扱いであるため、官職を持つものと皇帝により特に止められている者以外は封国に実際に赴くこととなっていた。後者が待遇として制度化されたものが特進である。封じられた者が死ぬとが贈られ、嫡子が列侯を継承した。嫡子が無かった場合、または罪があった場合には列侯が剥奪された。たとえば漢の高祖の功臣樊噲は功により舞陽侯に封じられ、死去したのちに武侯と諡された。嫡子が舞陽侯を継承したが、母が呂后の妹であった縁から呂氏が滅んだのに連座して誅殺され、舞陽侯は断絶した。数ヶ月後に樊噲の庶子が再び舞陽侯に封じられ、死去した後に荒侯と諡された。その息子が舞陽侯を継いだが、後に荒侯の実子ではないとされ舞陽侯は断絶している(史記樊噲伝)。

  • 軍功など大きな功績があった者、及び外戚が列侯に封建された。武帝元朔2年(紀元前127年)の「推恩の令」以降は、諸侯王が自分の領地を自分の子弟に分け与え、列侯とすることが許された。また、公孫弘以降は、丞相に就任すると列侯に封じられるのが定例となった。ただし、後漢に入ると丞相の列侯は行われなくなった。

  • 漢の列侯はの成立とともに関中侯に降格され、代わりに魏の成立に貢献した功臣の将軍が列侯になるが、魏の最末期(の成立期)に五等爵が列侯の上に位置づけられたことで形骸化し、功臣や外戚への待遇は、功臣には将軍位、外戚には光禄大夫が与えられるようになった。

刺史(しし)

于禁(うきん)

玄徳追撃文聘(ぶんぺい)➡遅刻して、曹操に江夏の太守関内侯(かんだいこう)に官職を引き上げられる

糜芳(びほう)・糜竺(びじく)・簡雍(かんよう)

糜竺(びじく)

簡雍(かんよう)


淳于 導
(じゅんう どう)淳于導(じゅんうんどう)

恩侯恩(かこうおん)

倚天剣(いてんけん)と青紅剣(せいこうけん)

  • 倚天剣(いてんけん)と一対をなす青紅剣(せいこうけん)のふたつは同時期に作られた剣です。青紅剣(せいこうけん)はもともと曹操(孟徳)所有の名剣でしたが、夏侯恩という武将に与えられています。
  • 倚天剣(いてんけん)は、創作の三国志演義に登場します。「天をも貫く」という意味を持っています。その名が示すとおり、素晴らしい切れ味を誇っており、岩を泥のように切り裂くことができる名剣であったとか。曹操(孟徳)はこの倚天剣(いてんけん)を愛用し、常にこの剣を腰に帯びていたと伝えられています。さらに倚天剣(いてんけん)は曹操(孟徳)の死後、魏の宝剣として大切に保管されました。

糜夫人(びふじん)死亡

糜夫人(びふじん)

晏明(あんめい)

張郃(ちょうこう)


趙子龍(ちょうしりゅう)
 場所 長坂橋(ちょうはんきょう)


夏侯淳の部将 
鐘縉(しょうしん)

  • 鐘紳の兄
  • 長坂の戦いで阿斗を抱いて逃げる趙雲を阻止しようとして殺された。

鐘紳(しょうしん)

  • 夏侯淳の部将 
  • 長坂の戦いで阿斗を抱いて逃げる趙雲を阻止しようとして殺された。

張遼(ちょうりょう)

夏侯惇(かこうじゅん)


楽 進
(がく しん、? - 218年楽進(がくしん)

  • 中国後漢末期の武将。文謙
  • 兗州陽平郡衛国県(現在の河南省濮陽市清豊県)の人。
  • 子は楽綝
  • 孫は楽肇。
  • 三国志魏志「張楽于張徐伝」に伝がある。
  • 小柄な体格だが激しい胆気を持ち、曹操董卓に反抗して挙兵すると、その下へ馳せ参じた。曹操は当初、楽進を武将ではなく帳下の吏(記録係)として用いていた。あるとき楽進を出身郡へ帰らせて兵を集めさせたところ、楽進は1000もの兵を引き連れ帰還してきたという。これにより曹操楽進を武将として起用することにし、軍の仮司馬・陥陣都尉に任命した。

白旄黄鉞(はくぼうこうえつ)

  • 【斧】より…斧の大きいものを(えつ)といい,天子が将軍に征討を命ずるときそのしるしとして授けた。天子が自ら征討に赴くときは,黄金で飾ったいわゆる黄鉞を用いた(《史記》周本紀など)。一般的に斧は日用の道具であるだけでなく武器であり,また刑具でもあり,戦争,破壊などの象徴としてこれを用いるのは世界的な現象である。…
  • 【黄】より…また《広韻》は黄を中央の色とするが,これは五行思想から東西南北と中央の五方を青白赤黒および黄で象徴したものである。このように黄は地の中央を支配する天子を象徴する色となり,たとえば天子の車を黄屋,天子の鉞(まさかり)を黄鉞,宮城の門を黄門または黄闥と呼んだ。インドでは人民の4階級(カースト)を表す4色(白赤黄黒)のうち黄はクシャトリヤ(王侯・武士階級)の色である。…
  • 【旄】ピンインmáo名詞 (古代,旗先につけた)ヤクの毛の飾り,(軍隊指揮用の)ヤクの毛の飾りのある旗.

夏侯覇(かこうは)

 荀彧(じゅんいく)


劉 琦
(りゅう き、生年不詳 - 209年劉琦(りゅうき)

孫乾(そんけん)

場所 江夏へ

 鄧義(とうぎ)

  • 鄧 義(とう ぎ、生没年不詳)
  • 中国後漢時代末期の政治家。
  • 荊州章陵郡の人。
  • 正史 

    劉表配下の治中従事(『後漢書劉表伝は「侍中従事」としているが、「治中従事」の誤りと思われる)。

    建安元年(196年)、曹操献帝に迎え入れると、鄧義は劉表曹操と同盟するよう進言した。しかし、この時点で袁紹と同盟していた劉表は進言を容れず、しかも鄧義を侮辱するような言動をした。鄧義は病気を口実に辞職し、劉表が没するまで出仕しなかった。

    建安13年(208年)、曹操荊州を支配すると、鄧義は招聘され侍中に任命された。これ以後は史書に記述が見当たらない。

劉先(りゅうせん)

  • 劉 先(りゅう せん、生没年不詳)
  • 中国後漢末期の政治家。始宗
  • 荊州零陵郡の人。
  • 妹の子に周不疑がいる。
  • 正史 

    劉表の配下。博学・強記での学を好み、漢代の故実に通じていた。劉表から荊州別駕に任じられた。

    官渡の戦いが起こると、劉表の大将蒯越・従事中郎韓嵩と共に、曹操への降伏を劉表に説いたが、受け入れられなかった。

    建安13年(208年)、曹操荊州を支配すると、劉先も招聘された。劉先は漢王朝健在時に尚書令に任命され、のちに魏国[1]尚書令に任命されている。以上の事跡のみからでは、劉先は単なる降伏主義者でしか無いように見えるが、『零陵先賢伝』によれば、彼の真価を物語る以下のような逸話もある。

    劉表配下であったとき、劉先は劉表の使者として曹操と会見する機会があった。「劉表殿は(献帝のいる許に来ず)どうして郊外で天を祀られたのか」と曹操が問うと、「凶悪な者どもに道を阻まれているからです」と劉先は答えた。「凶悪な者どもとは何か」と曹操が問うと、「眼に映るものが全てそうです」と劉先は平然と答えた。「私には大軍がある。服従しないものなどない」と曹操がさらに答えると、「軍事力に頼り残忍な行為をする者は、現代の蚩尤智伯でしかありません」と劉先は非難した。

    曹操は不機嫌に黙り込んだが、劉先を武陵太守に任命した。その後の劉先の出世は、むしろ曹操の度量を物語る逸話となっている。またこの逸話は、結末こそ全く異なるが、『三国志演義』において、劉璋配下の張松曹操が対面した際の逸話の元の一つである

曹操 呉に檄文+軍事牽制

孫権(そんけん)


孫 権
(そん けん)場所 柴桑城(さいそうじょう)

魯粛(ろしゅく)


諸葛 瑾
(しょかつ きん、174年 - 241年諸葛瑾(しょかつきん)

 の解説

縹渺(ひょうびょう)

  •  
    [ト・タル][文][形動タリ]
  •  広くはてしないさま。「―たる雪の広野を隔てて」〈鏡花・註文帳〉
  •  かすかではっきりとしないさま。「慷慨 (こうがい) 節義の譚に、神仙―の趣を交ゆ」〈露伴運命

張昭(ちょうしょう)

 

 管仲(かんちゅう)


楽 毅
(がく き拼音Yuè Yì、生没年不明)楽毅(がっき)

項羽(こうう)

  • 項 籍(こう せき、Xiàng Jí、紀元前232年 - 紀元前202年

  • 末期の武将は籍、が羽である。以下、一般に知られている項 羽(こう う、Xiàng Yǔ)の名で記す。

  • 秦に対する造反軍の中核となり秦を滅ぼし、一時“西楚の覇王”(在位紀元前206年 - 紀元前202年)と号した。

  • その後、天下を劉邦と争い(楚漢戦争)、当初は圧倒的に優勢であったが、次第に劣勢となって敗死した。

虞 翻(ぐ ほん、 164年 - 233年仲翔(ちゅうしょう)

歩騭(ほしつ)

蘇秦(そしん)

張儀(ちょうぎ)

薛綜(せつそう)