お気に召すまま シェイクスピア
ピックウィック・ペイパース ディケンズ
カントリー・チャイルド アリソン・アトリー
氷の花たば アリソン・アトリー
モルッカ諸島(モルッカしょとう、英: Moluccas、蘭: Molukken)またはマルク諸島(インドネシア語: Kepulauan Maluku)は、インドネシア共和国のセラム海とバンダ海に分布する群島。スラウェシ島の東、ニューギニア島の西、ティモール島の北に位置する。歴史的に香料諸島(スパイス諸島)[1]として特に西洋人や中国人の間で有名であった。
山がちであり、いくつかの活火山がある。気候は湿潤。農業は小規模で行われているが、米、サゴヤシの他、ナツメグ、クローブなどの香辛料など価値の高い農産物を生産している。
大航海時代にヨーロッパ諸国がマルク諸島に押し寄せたことからキリスト教徒が多い
マルク諸島 | |
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所在地 | インドネシア |
地名
モルッカの名は、アラブ人商人によってつけられた、女王の島という語の「女王」の部分だという説が有力である(マリク参照)[3]。しかし、その名は14世紀に書かれたムプ・プラパンカによる著書に既に見られ、アラブ人商人らの到着した15世紀後半に先行することになる。 現地語で「牛の頭」や何か大きな物を意味するという説もあるものの、いずれも定説とされるものではない
バージナル
ハープシコードに似た小さな鍵盤楽器。初期のピアノの一タイプ。
1597年 ヴァージナル ロッシ作
・・・“それは恋する若者と娘、おやおやまあ!おやまあ!”という歌だけでした。・・・
シェイクスピアの作品「お気に召すまま」の中にある歌。
ペネロピーがバビントンの人びとと共に過ごしたのはそれ以前の時代だから、16世紀の人びとはこの歌を知らない。
音符が四角い
ヘンリー王が作った“ヒイラギとツタ”
イギリスの讃美歌
ひいらぎとつた(The Holly and The Ivy)
・・・テーブルに取り入れ祝いのごちそうが並んでいました。てっぺんにナツメグをふりかけたジャンケット、クリームをかけたラズベリー、金茶色に焼けて、スパイスをちらした、たっぷり3フィートもある大きな凝乳パイ。・・・
ジャンケット Junket
甘みや香りをつけたクリームチーズのようなもので、てっぺんに熱くした牛乳から作ったクリームを乗せる
ジャンケットは、甘くした牛乳とレンネット、牛乳を凝乳する消化酵素で作られた牛乳ベースのデザートです。いくつかの古い料理の本は、料理をカードとホエーと呼んでいます。
ジャンケットを作るには、牛乳(通常は砂糖とバニラを加えたもの)を体温程度に加熱し、水に溶かしたレンネットを混ぜて牛乳をセットさせます。デザートはサービングの前に冷やされます。ジャンケットは、しばしば上にすりおろしたナツメグを振りかけながら提供されます。
歴史
ジャンケットは、古いフランス料理のジョンケ、ホエイが凝乳したクリームから排出され、残りのカードが砂糖で甘くされたレンネットクリームの皿から進化しました。[1]
中世のイングランドでは、ジャンケットはクリームで作られ、ローズウォーター、スパイス、砂糖で味付けされた貴族の食べ物でした。チューダー時代には好まれ始め、ファッショナブルな宴会テーブルのシラバスに取って代わられ、18世紀までに路上で売られる日常の食べ物になりました。
米国東部の20世紀のほとんどの間、クリームの代わりに牛乳で作られたジャンケットは、主にその甘さと消化の容易さのために、病気の子供にとって好ましい食品でした。
ドロシー・ハートレーは「Food in England」の中で、レンネットに関するセクションとそれに続く「ジャンケット、カード、ホエイまたはクリーム」のセクションを持っています。彼女は最も一般的な風味としてラム酒を挙げ、クロテッドクリームを「通常の伴奏」として挙げています。彼女は、牛乳を血液の熱に加熱する習慣は新しいものであると指摘しています。もともと、ジャンケットは牛から得た牛乳で作られていましたが、すでに血液の熱で作られていました。
凝乳パイ
チーズの原料にする凝乳(牛乳を分離して作る濃厚なかたまり)を使って作るパイ
カード(凝乳、フランス語: caillé、英語: curd、ドイツ語: der Quark、オーストリア語: der Topfen)は、牛乳や山羊、水牛などの乳に、酸やキモシンなどの酵素を作用させてできる凝固物のこと[1]。チーズの原料。 カードからホエイ(乳清)の一部を除去したもの、これを熟成させたものがナチュラルチーズである。特に熟成しないものはフレッシュチーズに分類される。モッツアレラ、カッテージチーズ、マスカルポーネ、南アジアのチェナー、ドイツのクワルクなどがある。一部地域では擬乳の断片をチーズカードといってそのままおやつとして食べる。熟成チーズの中にはリンバーガーのように悪臭を放つことで有名なものもある。
乳からカードを除いた液はホエー(乳清)といい、タンパク質、乳糖、ビタミン、ミネラルなどが含まれる。
中央ヨーロッパと東ヨーロッパでは軽食への詰め物として使われる。
インドやスリランカなど南アジアの旧英国植民地では、むしろヨーグルトの意味で用いられることが多い(南アジアのカードについては、ダヒを参照)。
乳以外のタンパク質を凝固させた食品、例えば豆腐も、(ソイ)ビーンカード(soy bean curd、大豆のカード)と呼ばれることがある。
タチアオイ |
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ホリホック(ホリーホック)ともいうが、英名 hollyhock は必ずしも本種を指すとは限らず、旧属名・タチアオイ属(Alcea)の各種をはじめ、ときには他属の種をも指す言葉である[1]。 俗説として holly- は holy に通じ、この花が十字軍によってシリア(キリスト教聖地)からヨーロッパにもたらされたことに因み、「聖地の花」の意味が込められている、などとも言われる[2]。
日本語では「花あおい」(花葵)とも呼ぶ。ただし学術的には、同科別属であるハナアオイ属、または同属下の Lavatera trimestris を指して「ハナアオイ」と呼んでいるので、注意が必要である。
Lavatera trimestris
マルバ・トリメストリス(同義語Althaea trimestris、Lavatera trimestris)、通称アニュアル・マロー、ローズ・マロー、ロイヤル・マロー、リーガル・マロー[1]、コモン・イヤー・ツリー・マロー[2][3]は、地中海地域に自生する開花植物の種である。
それは毎年、高さ120cm(47インチ)、幅45cm(18インチ)に成長し、夏には白とピンクの色合いで浅い漏斗形の花を咲かせ、花びらに栗色の中心と栗色の静脈があります。ラテン語のtrimestrisは文字通り「3ヶ月の」を意味し、成長期と開花期を指す。[5]
この植物は広く栽培されており、しばしばLavatera trimestrisという名前で栽培されています。庭用に数多くの栽培品種が開発されており、それらはすべて同じ年に開花するために春に播種される一年生植物です。品種「ビューティーシリーズ」[6]と「シルバーカップ」[7]は、王立園芸協会のガーデンメリット賞を受賞しました。
毎年恒例のマロー | |
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スイートジョン(植物)
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スイートナンシー(植物)
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キツネノテブクロ
ジギタリス(実芰答里斯[1][注釈 1]、羅: Digitalis)とは、オオバコ科[注釈 2]ジギタリス属(キツネノテブクロ属、学名: Digitalis)の総称である。狭義ではジギタリス属の特定の種(Digitalis purpurea)を指す。
ジギタリス |
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西洋でジギタリスには、暗く寂れた場所に繁茂し不吉な植物としてのイメージが有るとされる。いけにえの儀式が行われる夏に花を咲かせるため、ドルイド達に好まれると言われる。「魔女の指抜き」「血の付いた男の指」などと呼ばれていた地域もある。メーテルリンクは「憂鬱なロケットのように空に突き出ている」と形容している。
スコットランド女王メアリーがシェフィールドからウイングフィールドに移る日
ウイングフィールドの荘園屋敷に
1584年9月
ラルフ・サダラー卿
ウイングフィールドの隣り合った領地の領主
鍛冶屋のピーター・ドビン
フランシス・バビントンの九柱戯(ナインボール)仲間でチャンピオン
ボスウェル・ダーレイ
第4代ボスウェル伯爵ジェームズ・ヘップバーン(James Hepburn, 4th Earl of Bothwell, 1535年 - 1578年4月14日)は、スコットランド女王メアリーの3人目の夫(王配)。
ジェームズ・ヘップバーン James Hepburn |
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スコットランド王配 | |
ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーン
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別称号 | ボスウェル伯 オークニー公爵 ファイフ侯爵 |
出生 | 1535年 スコットランド王国、エディンバラ |
死去 | 1578年4月14日 デンマーク=ノルウェー、ドラグスホルム |
配偶者 | アンナ・スロンドセン |
ジーン・ゴードン | |
スコットランド女王メアリー | |
父親 | ボスウェル伯パトリック・ヘップバーン |
母親 | アグネス・シンクレア |
ハーツ・タン(牡鹿の舌)
シダ
ロンドン・プライド(London pride)
ヒカゲユキノシタ
春雨草(ハルサメソウ)
昔スペイン無敵艦隊の襲来をイングランドの人びとに知らせるための狼煙台のあった丘の頂
ヴィクトリア女王の在位記念祝典
1897年 ヴィクトリア女王の在位60年祭が盛大にお祝いされた
サッカーズの丘の頂にある狼煙台にも火がともされた
ナポレオンがイングランドに侵入仕様としたとき
(サッカーズの丘の頂にある狼煙台にも火がともされた)
ナポレオン一世が1804年にフランス皇帝になってから、1815年にワーテルローの戦いで敗れるまで、ヨーロッパを制覇しようと何度も戦争を企てたこと
ナポレオン・ボナパルト(フランス語: Napoléon Bonaparte、漢字:那波列翁・勃納把爾的[2]、出生名: ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ、Napoleone di Buonaparte、1769年8月15日 - 1821年5月5日)は、フランス革命期の軍人、革命家で、フランス第一帝政の皇帝に即位してナポレオン1世(フランス語: Napoléon Ier、在位:1804年 - 1814年、1815年)となった。漢字標記は那波烈翁、那勃列翁[3]、奈破崙[4]。奈翁、那翁[5](なおう)と略されることもある。1世から3世まで存在するが、単にナポレオンと言えばこの人物を指すことがほとんどである。
フランス革命後の混乱を収拾し、軍事独裁政権を樹立した。大陸軍(フランス語: Grande Armée グランダルメ)と名づけた軍隊を築き上げて、フランス革命への干渉を図る欧州諸国とのナポレオン戦争を戦い、幾多の勝利と婚姻政策によって、イギリス、ロシア帝国、オスマン帝国の領土を除いたヨーロッパ大陸の大半を勢力下に置いた。対仏大同盟との戦いに敗北し、百日天下による一時的復権を経て、南大西洋の英領セントヘレナにて没した。
ナポレオン・ボナパルト (ナポレオン1世) Napoléon Ier |
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フランス人民の皇帝 | |
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在位 | 1804年[1]5月18日 - 1814年4月11日 1815年3月20日 - 1815年6月22日 |
戴冠式 | 1804年12月2日、パリ・ノートルダム大聖堂 |
別号 | イタリア国王、アンドラ大公 |
全名 | ナポレオン・ボナパルト Napoléon Bonaparte |
出生 | 1769年8月15日 フランス領 コルシカ島、アジャクシオ |
死去 | 1821年5月5日(51歳没) イギリス領 セントヘレナ島、ロングウッド |
埋葬 | 1840年12月15日 フランス パリ、オテル・デ・ザンヴァリッド |
配偶者 | ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ |
マリー・ルイーズ・ドートリッシュ | |
子女 | ナポレオン2世 レオン伯シャルル アレクサンドル・ヴァレフスキ |
王朝 | ボナパルト朝 |
父親 | シャルル・マリ・ボナパルト |
母親 | マリア・レティツィア・ボナパルト |
宗教 | ローマ・カトリック |
ウイングフィールドの館は廃墟に
清教徒革命
清教徒革命またはピューリタン革命(せいきょうとかくめい/ピューリタンかくめい、英語:Wars of the Three Kingdoms 、直訳:Puritan Revolution)は、狭義には1642年から1649年にかけてイングランド・スコットランド・アイルランドで起きた内戦・革命である。
広義には1639年の主教戦争から1660年の王政復古までを含み、「三王国戦争(Wars of the Three Kingdoms)」「大反乱」「英国内乱(British Civil Wars)」もしくは名誉革命とあわせて「イギリス革命」「ブリテン革命」とも呼ばれる。
清教徒革命 | |
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ネイズビーの戦い後の風景(1645年)
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ステュアート朝時代のイングランド王国はイングランド国教会(プロテスタント)による王の絶対主義によって維持されつつも富を得て上昇する者と没落する者が錯綜し、社会の仕組みが絶対主義の確立されたテューダー朝時代とは大きく異なってきていた(ただし、ステュアート朝時代における王室と議会の対立の源となった社会矛盾の多くはテューダー朝時代に由来している)。三十年戦争では、1624年にフランスの呼びかけに応じてデンマーク=ノルウェーを対ハプスブルク同盟へ引き込む為に資金を提供した結果、王室は財政難に苦しむことになった。
しかし、1625年にイングランドとスコットランドの王位を継承したチャールズ1世は、変化に対応する能力に欠けており、王権神授説にもとづき議会と対立し、大陸の戦火がイングランドにも及ぶことになった。イングランド内戦は、1641年のアイルランドのカトリックが蜂起してアイルランド・カトリック同盟政権を樹立したアイルランド反乱(アイルランド同盟戦争の発端)から始まった。翌1642年にイングランドでも王と議会の対立から第一次イングランド内戦(1642年 - 1646年)が始まった。スコットランドでも二次にわたる主教戦争を経て1644年、国民盟約(盟約派)と国王派の間でスコットランド内戦が始まっている。特にイングランドではピューリタニズムの影響を受けて民衆運動となり、次第に過激化・大規模化していった。
王党派(騎士党)と議会派(円頂党)の内戦は議会派が勝利して終わったが、議会派内でも内部対立がおこって第二次イングランド内戦(1648年 - 1649年)が起こり、国王チャールズ1世の処刑が行われた。
王政は廃止され共和政のイングランド共和国(1649年 - 1660年)が樹立したが、第三次イングランド内戦(1649年 - 1651年)はそれぞれの勝利した陣営によって三つ巴の戦争に発展し(三王国戦争、英語: Wars of the Three Kingdoms)、特にアイルランドでは現在も続くアイルランド問題の発端となったクロムウェルのアイルランド侵略(1649年 - 1653年)が行なわれた。1652年には英蘭戦争(第一次英蘭戦争)が始まり、イングランド内戦を制した後もイングランド共和国は安定せず、1653年には大きな軍事的功績をおさめたオリバー・クロムウェルが担ぎ上げられる形で護国卿となった。1654年に英西戦争が始まってダンケルクを占領したものの、護国卿体制は5年で破綻した。
1660年の王政復古によって清教徒革命は失敗に終わり、かくしてイングランド・スコットランド・アイルランドは王政に復した。しかし、星室庁や独自の財源を失ったステュアート朝の王権弱体化は明らかであった。実権を掌握しつつあったイングランド議会は王権神授説や絶対王政を志向する王との溝を深めてゆき、それはやがて名誉革命を招いて、王を中心とする絶対君主制から議会を中心とする立憲君主制へと移行することになった。清教徒革命はステュアート朝の王たちが目指していた絶対主義から脱却するという点から市民革命のひとつとして分類される。現在では名誉革命と併せてイギリス革命として議論されることが多い。
スコットランド女王メアリーの犬
スパニエル犬 フロー、タイニー、トレニ
スパニエル (Spaniel)
スコットランド女王メアリーの侍女
イライ・スタダム
1900年初頭の方のシェフィールドの農家の人
アメリカ人に椅子を売らなかった人
・・・ティッシーおばさんは声を出してディケンズの「ピックウィック・ペイパーズ」を読んでいる。・・・
DICKENS, Charles
"The Posthumous Papers of the Pickwick Club"
London, 1837
ディケンズ 『ピックウィック・ペイパーズ』
チャールズ・ディケンズ(1812~1870)は、イギリス南岸のポートシー郊外に海軍経理部の書 記の子として生まれた。間もなく一家はロンドンに出たが、彼の少年時代に家計が悪化し靴墨工場で 働いて収入を得たという。この経験が、小説家としての人物形成に影響を与えたといわれている。 ディケンズが英国最大の小説家として文学史上に名を残すようになったのは、彼のすぐれた創造 性や、機知とユーモア、さらには哀感に富んだ描写にある。そして、作者ディケンズは常に大衆の 味方となり、自分の経験をよりどころとして、作中の人物として生きているのである。
《 The Posthumous Papers of the Pickwick Club,edited by Boz, 1836-1837 》通称 『Pickwick Papers』 は、ディケンズの最初の本格的長編で、これによってディケンズは彼のペンネーム“ Boz ” と共に、一躍、有名作家となった。この作品は、1836年4月から翌年11月にわたり、分冊で発表さ れ、挿絵は漫画家の Robert Seymour が描いた。しかし、Seymour の自殺後は Buss や Browne(Phiz) という人物がこれに代わった。
登場人物は約300名にのぼるが、ピックウィック・クラブ(Pickwick Club)という奇妙なクラブの 会長 Pickwick 氏を中心に、Tupman 、Snodgrass 、Winkie の4 人の会員が、通信部を組織して旅に 出て、旅先の見聞や遭遇した事件をクラブに報告した記録形式の旅行記で、愉快な事件が次々と展 開する。
本書は分冊をまとめて1837年にロンドンで出版されたもので、本学図書館にはこの初版本の完 全なセットが所蔵されている
・・・“三匹の目の見えないねずみ”を歌いだすと、・・・
『Three blind Mice スリー・ブラインド・マイス』(3匹の盲目ねずみ)は、イギリス(イングランド)に伝わる古いマザーグース。様々な歌詞が存在し、古いものでは1609年の出版物も確認されている。
歌詞の意味・歴史的由来については、ブラッディ・メアリー(Bloody Mary/血まみれのメアリー)と恐れられたイングランド女王メアリー1世との関連を指摘する説がある
Three blind mice. Three blind mice.
See how they run. See how they run.
They all ran after the farmer's wife,
Who cut off their tails with a carving knife,
Did you ever see such a sight in your life,
As three blind mice.
3匹の盲目ねずみ 走る姿を見てごらん
農家の奥さんを追っかけてるよ
彼女がナイフでねずみのしっぽを切ったんだ
今までこんな光景みたことあるかい?
ローマ教皇を中心とするカトリック世界への復帰をめざし、プロテスタントを迫害したイングランド女王メアリー1世(Mary I of England/1516-1558)。
イングランド国教会の総本山カンタベリー大聖堂の大司教であったトマス・クランマー(Thomas Cranmer)は、最後までローマ・カトリックへの復帰を拒み、ヒュー・ラティマー(Hugh Latimer)、ニコラス・リドリー(Nicholas Ridley)の2名の司教とともに、1556年3月21日、オックスフォードで公開火炙りにされた。
これら3名の司教の殉教は、後に「オックスフォードの殉教者(Oxford Martyrs)」と呼ばれ、イギリスの歴史に深く刻み込まれることとなった。
マザーグース[注 1]/マザー・グース[注 2] (英:Mother Goose [14][15]) とは、イギリスで古くから口誦によって伝承されてきた童謡や歌謡の総称で通称[16][3][4][5][6]。英米で広く親しまれている[5]。元来は「マザーグースの歌(英:Mother Goose's rhymes)」といった[16]。
著名な童謡は特に17世紀の大英帝国の植民地化政策によって世界中に広まった[17]。現在ではイギリス発祥のものばかりでなく、アメリカ発祥のものも加わり、600から1000以上の種類があるといわれている。英米では庶民から貴族まで階級の隔てなく親しまれており、聖書やシェイクスピアと並んで英米人の教養の基礎となっているともいわれている[18]。現代の大衆文化においてもマザーグースからの引用や言及は頻繁になされている。
なお、「童謡」全般を指す英語としては、「子供部屋の歌」を意味する「ナーサリーライム (nursery rhyme)」[ 語構成:nursery(〈家庭の〉子供部屋)+ rhyme(脚韻)]を用いるのが通例ではある[19]。「ナーサリーライム」が新作も含む包括的語義であるのに対し、「マザーグースの歌」、略して「マザーグース」は、伝承化した童謡のみに用いられる点に違いがあると考えられる[20]。後述するように「マザーグース」が童謡の総称として用いられるようになったのは18世紀後半からであるが、それに対して「ナーサリーライム」が童謡の総称に用いられるようになったのは1824年のスコットランドのある雑誌においてであり、「ナーサリーライム」のほうが新しい呼称である[20]。
ジュードがペネロピーに渡した木彫りの人形 「糸巻坊や」
トマス・タッサー
1524~1580年
サンフォークに農場をかまえていた農場主・詩人。
農場生活全般についてのユーモラスな詩や警句を発表した。
アラベラ
スパイのバラード
クリスマスプディング (Christmas pudding)は、イギリスの伝統的なクリスマスケーキ。具材にプラムが使われることが多いため、プラム・プディング (plum pudding) とも呼ばれる[1]。
味や食感、外見は日本人が想像するケーキや一般に「プリン」と呼ばれるカスタードプディングとは大きく異なる[2]。味は濃厚で芳醇、その食感は「ドライフルーツが舌に絡む」とも言われる
中世のクリスマスに作られた濃厚なスープ、あるいは肉と果物が入ったポリッジがクリスマスプディングの起源とされていて[1]、それらの粥はケルト神話の収穫の神ダグザにあやかって作られたものが起源とする説もある[4]。
16世紀までにクリスマスのシンボルとしての地位を確立し、清教徒革命中のクリスマスでは、クリスマスプディングはミンスパイと共に製作を禁止された[1]。チャールズ2世の時代に[5]材料に増粘剤が加えられて現在のような固形の料理になり、チャールズ・ディケンズが著した『クリスマス・キャロル』にも固形状のクリスマスプディングが登場する[1]。そしてヴィクトリア女王がクリスマスプディングを英国王室のデザートに採用して以降、イギリス国民のクリスマスに欠かせないデザートとして定着した[1]。
各家庭ごとに異なる味とレシピがあり、イギリス人にはこれについて一家言持つ人が多い(日本のお雑煮の例を想像すると理解しやすい)。しかし、今日では手製のクリスマスプディングの代わりに市販のものを購入する家庭が多くなっている
クリスマス前夜に炉で焚く大きな薪のことで、ユール・ブロック、ユール・クロッグともいう[11]。発祥は中世ドイツといわれ、本来はたき火を焚く目的で伐採された[12]。森で巨木を伐採して、多くの場合リボンで飾られ、家へと運ばれる。家に運ぶ際、同行しているうちで最年少の者は、薪の上に乗ることができる[11]。ブルターニュでは、家族の最年長者と最年少者がこの薪に乗って、祈りをささげたといわれる。中世のフランスでは、農民が領主の屋敷に大きな薪を運ぶ賦役が課せられた。またイギリスでは、この習慣は17世紀以降になって普及した[13]。
薪を取るのは、スコットランドではカバノキ、フランスのプロヴァンスでは果樹、セルビアではオーク、オリーブ、ブナを用いた。薪を家に運び入れる時には、ワインを掛けたり、穀物を振り掛けたりした。燃やす前にはチョークで人のかたちを描いたり、また、常緑樹の葉やリボンで飾ったりもした[13]。
火はクリスマス当日の朝に点火され、「十二夜」まで燃えているようにした[14]。途中で火が消えるとその翌年は不吉なことが起こるとされた[15]。この薪には魔力があり、太陽の輝きを助けるとともに、この火の影に頭がうつらなければその年のうちに死ぬとか、灰は病気や雷に効き目があると信じられた。また、飼葉や土を井戸に入れると、牛が安産である、豊作になる、水の味が良くなるなどと言われた[11]。ユール・ログの最盛期は19世紀で、今はすたれたが[16]、この薪を模したチョコレートケーキであるブッシュ・ド・ノエル(フランス語で「クリスマスの丸太」)[14]にその面影をとどめている[16]。ユール・ログの一番古い記録は、1184年のドイツのものであるが、のちに、イタリアのアルプス地方、バルカン半島、北欧、フランス、イベリア半島でも、この習慣が見られるようになった[11]。
ジョン・ダービシャー
髭をはやしたおじいさん
領地で一番年寄り
ピューター(英: Pewter)、またはしろめ(白目、白鑞)は、スズを主成分とする古くからある低融点合金である。成分の一例はスズ93%、アンチモン7%で、融点は約250℃である。青灰色。しばしば、アンチモンの代わりに鉛、または銅やビスマスを含むこともある。
元々はスズに鉛を加えていたが、18世紀のイギリスにて鉛の代わりにアンチモンを加える改良がなされた。それらの改良されたピューターはブリタニアメタル、またはチューダー・ピューターと称された。今では、ピューターと言えばブリタニアメタルの事を指す。
主に工芸品や装飾品、メタルフィギュアなどに用いられる。全米フィギュアスケート選手権では、4位までがメダル授与対象であるため、金・銀・銅のメダルに加えて4位選手にピューターメダルが授与される。
マレーシアのスランゴール州はスズの産地であり、ピューターの工芸品が名産となっている。装飾品やマグカップ、ウイスキーを入れるスキットルなどが製作され、ロイヤル・スランゴール(Royal Selangor)のブランドで販売されている。
日本のキリスト教教会では大抵「ケルビム」と呼ばれ、日本聖書協会も「ケルビム」との表記を用いているが、日本ハリストス正教会では「ヘルヴィム」(明治時代の文献では「ヘルワィム」と書いてヘルウィムと読ませていたものが多数存在する)と呼ばれている。いずれもギリシャ語転写の"Χερουβείμ"が基になっているが、こうした違いが発生したのはギリシャ語発音が時代によって変化した事に由来する。
ギリシャ語表記"Χερουβείμ"は、古典再建音では「ケルーベイム」であり、中世以降の発音は「ヘルヴィム」である。前者を西方教会が継承し、後者を正教会が継承した。これらの転写の違いが、日本において教派ごとの異なる片仮名表記に表れている。
旧約聖書の創世記3章によると、主なる神はアダムとエバを追放した後、罪のある状態のままで永遠の命を得てしまわないように命の木への道を守らせるためにエデンの園の東に回転する炎の剣とともにケルビムを置いたという。また、契約の箱の上にはこの天使を模した金細工が乗せられている。神の姿を見ることができる(=智:ソフィア)ことから「智天使」という訳語をあてられた。
エゼキエル書10章21節によれば、四つの顔と四つの翼を持ち、その翼の下には人の手のようなものがある。ルネッサンス絵画ではそのまま描写するのではなく、翼を持つ愛らしい赤子の姿で表現されている。これをプット(Putto)という。
「彼はケルブに乗って飛び、」(サムエル記下22章11節)「主はケルビムの上に座せられる。」(詩篇99編1節)といった記述があり「神の玉座」「神の乗物」としての一面が見られる。
ケルブの起源はアッシリアの有翼人面獣身の守護者「クリーブ(kurību)」といわれている[1]。
エゼキエル書1章[2]にはケルビムの姿について以下のように書かれている。
多くの目(18節)は知の象徴、翼で体をおおっている(11節)のは体をもっていないから隠しているのだという。またケルビムの翼の下に見えていた人間の手の形(8節)は神の手だという。[要出典]
なお絵画表現において、セラフィムと混同されて描かれているものもある。