開かせていただき光栄です―DILATED TO MEET YOU― 皆川博子
ヘンリー四世 シェイクスピア
ピープス氏の秘められた日記――17世紀イギリス紳士の生活 (岩波新書 黄版 206) 新書 – 1982/10/20 臼田 昭
18世紀 英国
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ベンジャミン・フランクリン(英語: Benjamin Franklin, グレゴリオ暦1706年1月17日<ユリウス暦1705年1月6日> - 1790年4月17日)は、アメリカ合衆国の政治家、外交官、著述家、物理学者、気象学者。印刷業で成功を収めた後、政界に進出しアメリカ独立に多大な貢献をした。また、凧を用いた実験で、雷が電気であることを明らかにしたことでも知られている。現在の米100ドル紙幣に肖像が描かれている他、米50セント硬貨にも1963年まで彼の肖像が使われていた。
勤勉性、探究心の強さ、合理主義、社会活動への参加という18世紀における近代的人間像を象徴する人物。己を含めて権力の集中を嫌った人間性は、個人崇拝を敬遠するアメリカの国民性を超え、アメリカ合衆国建国の父の一人として讃えられる。『フランクリン自伝』はアメリカのロング・ベストセラーの一つである。
ベンジャミン・フランクリン
Benjamin Franklin
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1775年
- 出来事
- 4月 - アメリカ独立戦争勃発(-1783年)
- 5月10日 - 第2回大陸会議開催。
- 第一次マラーター戦争勃発(-1782年)
- フランス人宣教師ピニョー、コーチシナ上陸
- 12月31日 - アメリカ独立戦争: ケベックの戦い (1775年)
ベンジャミン・ビーミス 26歳
- 通称 肥満体(ファッティ)ベン
- ダニエルの元弟子
- 『ヒュー・アンド・クライ』の編集者
- 小太り
- 仕立屋の子
ジョン・フィールディング卿
- 盲目の治安判事(19歳で失明した)
- ウェストミンスター地区治安判事
- ヒュー・アンド・クライ』の発行人
クラレンス・スウプナー 27歳
- 通称 饒舌(チャターボックス)クラレンス
- ダニエルの元弟子
- 『ヒュー・アンド・クライ』の編集者
- 床屋の子
フィンチ
- 玄関番
アルバート・ウッド 29歳
- 通称 骨皮(スキニー)アル
- ダニエルの元弟子
- 『ヒュー・アンド・クライ』の編集長
- サー・ジョンの助手に引き抜かれる
フランシス・ダッシュウッド卿
逓信(ていしん)
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〘名〙※造化妙々奇談(1879‐80)〈宮崎柳条〉二編「仮如(たとへ)ば二百四十九の知覚筋髄、逓信(テイシン)して脳に入(いる)れば」② 郵便、電信などの事務。
勲爵士(くんしゃくし)ラルフ・ジャガーズ
- ダッシュウッドの従弟
- サー・フランシスの領地ウェスト・ウィカムの管理人
- <犯罪訴追教会>の委員
勲爵士(くんしゃくし)
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ナイト(Knight)は、主にヨーロッパのキリスト教国家において勲章の授与に伴い王室または教皇から授与される、中世の騎士階級に由来した栄誉称号である。
特にイギリス(連合王国)の叙勲制度において王室より叙任されるものが有名。日本語では勲功爵、勲爵士、騎士爵、士爵などの訳が見られるほか、ナイト爵と片仮名で表記されることも多い。英国においてナイトは公・侯・伯・子・男の貴族の身分ではなく、世襲権を持たない準貴族である。また、称号としてのナイトを騎士号とも称する。本項では「ナイト」に統一し、「爵」ではなく「称号」と記述するが、伝統的な日本語訳である「勲爵士」を一部の括弧内に併記する。
ジョージ三世
- 現国王
ジョージ三世
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ジョージ3世(英語: George III、1738年6月4日 – 1820年1月29日)は、ハノーヴァー家第3代目のイギリス国王(在位:1760年10月25日 - 1820年1月29日)。
1760年10月25日から1800年12月31日まではグレートブリテン国王兼アイルランド国王であり、1801年1月1日に両国が合同してから崩御するまでは、グレートブリテン及びアイルランド連合王国国王。
また同時に、神聖ローマ帝国のハノーファー選帝侯でもあり、1814年10月12日以後はハノーファー王ゲオルク3世 (Georg III)に昇格した。ハノーヴァー家の国王だったが、先代・先々代と異なりイギリス生まれで母語は英語であり、ハノーファーへは一度も訪れなかった。
ジョージ3世の寿命と治世の長さはそれまでの全てのイギリス国王よりも長く、ヨーロッパからアフリカ、アメリカ、アジアまで拡大した多くの軍事紛争に彩られた。治世初期にはグレートブリテン王国が七年戦争でフランス王国に勝利、北アメリカとインドにおけるヨーロッパ諸国の勢力の間で支配的な勢力となった。しかし、アメリカ独立戦争では敗北して13植民地はじめ北米の多くの植民地を失った。1793年からは革命時期とナポレオンの帝政時期のフランスとの戦争に突入、1815年のワーテルローの戦いまで続いた。
治世後期は、精神疾患に繰り返し悩まされた。ポルフィリン症を患っていたとされたが、病気の原因は不明のままである。1810年に病気が再発、回復の兆しもなかったため摂政が任命され、長男のジョージ王太子が摂政王太子として統治した。1820年1月29日にジョージ3世が81歳で崩御すると、摂政王太子は57歳でジョージ4世として王位を継承した。
ジョージ3世の一生に関する史的分析において、様々な意見が様変わりした。これは伝記作家が入手可能な史料、そして彼ら自身の偏見に起因する。20世紀の後半に再評価されるまで、アメリカ合衆国におけるジョージ3世の評価は暴君そのものであったが、イギリスにおいては「(イギリス帝国による)帝国主義の失敗のスケープゴート」になった
ジョージ3世 George III |
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イギリス国王 | |
在位 | 1760年10月25日 - 1820年1月29日 |
戴冠式 | 1761年9月22日、於ウェストミンスター寺院 |
別号 | アイルランド国王 ハノーファー選帝侯 ハノーファー国王 |
アン=シャーリー・モア 27歳
- ジョン・フィールディングの義理の姪で助手
- 両親を馬車の事故で失ったので、ジョン・フィールディング判事が引き取り、後見人となった
- ジョン・フィールディング判事は夫人に先立たれ、アンは独身だったのでスキャンダラスな目で見られがち
- 女が仕事をしているのも、男装をすることにも、スキャンダラスな存在にされがち
ネイサン・カレン 22歳
- 容姿端麗
- ダニエル・バートンの元一番弟子
- 出奔中
- エド
ナイジェル・ハート
- 天才素描画家
- ダニエル・バートンの元弟子
- 出奔中
ダニエル・バートン 47歳
- 聖ジョージ病院常勤外科医
- 解剖学の先駆者
- コヴェント・ガーデン・マーケットの近くに住まいがある
- じゃがいもに似た風貌
- 短気
18世紀後半
- イギリスの犯罪摘発組織は整備されていない
- フランスやドイツには、警察機構が存在した
- フランス語のポリスに相当する英語さえなかった
- 1798年に、ようやくロンドン港の治安を護る組織が、マリン・ポリスと呼ばれるようになる
- ロンドン首都警察(スコットランド・ヤード)が創設されるもは、1829年
コンスタブル
シーフ・テイカー
- 「目明かし」やイギリスの治安判事に私的に雇われたシーフテイカーは、犯罪者まがいの胡散臭い連中だらけだった。
- 犯罪者を突き出して、ブラッドマネーと呼ばれる報奨金で生活していた
ダッシュウッド家
- 所領ウェスト・ウィカムは、ロンドンから30数マイルほど離れた地(オックスフォードに近い)
- 領内に白亜の層があり、採掘事業もしていが、掘りつくしたので採掘場は十数年前から閉鎖
白亜
- 1 石灰岩の一種。貝殻や有孔虫などの化石を含むこともあり、灰白色で軟らか。主成分は炭酸カルシウム。西ヨーロッパに分布し、ドーバー海峡の両側に露出する地層は有名。白墨の原料とする。チョーク。
2 白色の壁。しらかべ。「―の殿堂」
ダーク・フェイン卿
- ウェスト・ウィカムの治安判事
- 屍体に関する処置のすべてを一任されている
- サー・フランシスの義弟
ドゥルーリー・レイン座
- ドルリー・レーン、ドルリー・レーン劇場
- シアター・ロイヤル (ドルリー・レーン)の通称:en:Theatre Royal, Drury Lane
死体
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ダッシュウッド家所領ウェスト・ウィカムの採掘場の縦穴で発見
- 発見したのは、教区のコンスタブル(3日前)
- 死体の胸に、<ベツレヘムの子よ、よみがえれ!>と記されていた
- 二人の踏み車漕ぎが天使が空を舞うのを見た(見たのは盲目ではない方の吃音の知能に問題がある男)(死体発見の2日前)
- <アルモニカ・ディアボリカ>と死体に書かれていた
- 腐っていて年齢はわからないが、男性。
- 服装はチェニックとブリーチズ
ディアボリカ
- 悪魔の
アルモニア
- ハーモニー
ブリーチズ
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七年戦争(しちねんせんそう、英語: Seven Years' War、ドイツ語: Siebenjähriger Krieg)は、1754年から1763年まで行われた戦争である。実質の世界大戦でもある。
ハプスブルク家がオーストリア継承戦争で失ったシュレージエンをプロイセンから奪回しようとしたことが直接の原因であったが、そこに1754年以来の英仏間の植民地競争が加わり世界規模の戦争となった。イギリス・プロイセン側とその他の列強(フランスとオーストリアとロシア、スペイン、スウェーデン)に分かれてオスマン帝国を除く当時の欧州列強が全て参戦しており、戦闘はヨーロッパ以外にも拡大した。またインドではムガル帝国がフランスの支持をうけて、イギリスによるベンガル地方の侵攻を阻止しようとした。
この戦争の前にフランスとオーストリアは、台頭してきたイギリスとプロイセンを抑えるために古くからの因縁を捨てて同盟を組んだ(外交革命)。しかし戦争の結果、墺仏の外交努力は英普側が勝利したことで水泡と化し、イギリスの飛躍とフランスのヨーロッパにおける優位性の喪失、オーストリアの神聖ローマ帝国内での権威低下を招き、ヨーロッパの勢力均衡を変える結果となった。
七年戦争 | |
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左上から時計回り:プラッシーの戦い(1757年6月23日)、カリヨンの戦い(1758年7月6日 - 8日)、ツォルンドルフの戦い(1758年8月25日)、クネルスドルフの戦い(1759年8月12日)。 |
サマセット・ハウス
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サマセット・ハウス(英語:Somerset House)は、イギリス・ロンドンのテムズ川を望むストランド地区南側にある大規模な建物である。中央部は新古典主義建築で、1776年から1796年の建築家ウィリアム・チェンバーズによるジョージアン様式の大規模な建築プロジェクトであった。その後南北に古典主義的なヴィクトリアン・ウィングを増築。もともと同名の建物がこの地に建てられたのは当時より200年以上前のことであった。
現在はさまざまな政府関連機関、芸術・教育関連機関が入っており、ロンドン大学付属のコートールド・ギャラリー等がその代表的な例である。また中庭は冬季、アイススケートのリンクになり、ロンドンの冬の風物詩になっている。近隣の180 The Strand と共にロンドン・コレクションの会場にも用いられた。
1836年から1970年まで、戸籍本署 (General Register Office for England and Wales) が置かれており、イングランドとウェールズにおける出生・婚姻・死亡に関する書類が管理されていた。また1859年から1998年には遺言検認裁判所 (Court of Probate) が置かれていた。このため、アガサ・クリスティのエルキュール・ポアロシリーズなど、ミステリ作品等に登場することがある。
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コヴェント・ガーデン(Covent Garden)は、ロンドン中心部シティ・オブ・ウェストミンスター中に存在する地区。チャリング・クロスから500メートルほど北に位置する。商店や娯楽施設が立ち並び、常に人ごみで賑やかな場所である。ロイヤル・オペラ・ハウスを指してコヴェント・ガーデンと称することもある。
地区の周囲にはハイ・ホルボーン、キングスウェイ、ストランド、チャリング・クロス・ロードなどの道路が縦横に走っている。16世紀から1974年に至までは野菜や果物の卸売市場が置かれていた。市場はテムズ川の南岸ナイン・エルムズへと移転され、跡地はショピング街として再開発されている。
- <健康の殿堂>と呼ばれる
- 売春宿
エスター・マレット
- アンディの親方マーティンの娘
- 《金羊毛》の下女
- ケンタウロスのケイロンの占いでネイサンと知り合う
チェリー 15歳
- ダニエル・バートン先生の家の女中
- 前にいたネリーという女中が鍛冶屋と結婚したので、代わりに雇った娘
<動物・犬>チャーリー
- 去年老衰で死んだダニエル・バートン先生の愛犬
トビー
- ねじれ鼻
- ダニエル・バートン先生の玄関番
ドディントン令夫人
- 通称 樽
- サマセット州長官を務めたこちもあるバリー=スミス・ドディントン卿の妻
ハットン
- アンの助手
- 通称 ふやけプディング
ブッチャー