恋のたくらみは公爵と The Duke and I 2000年 2008年1月ジュリア・クイン (著) 村山美雪 竹書房 〈ラズベリーブックス〉
不機嫌な子爵のみる夢は The Viscount Who Loved Me 2000年 2008年6月 ジュリア・クイン (著)村山美雪 竹書房 〈ラズベリーブックス〉
もう一度だけ円舞曲(ワルツ)を An Offer From A Gentleman 2001年 2007年6月 ジュリア・クイン (著)村山美雪 竹書房 〈ラズベリーブックス〉
恋心だけ秘密にして Romancing Mister Bridgerton 2002年 2008年11月 ジュリア・クイン (著)村山美雪 竹書房 〈ラズベリーブックス〉
まだ見ぬあなたに野の花を To Sir Phillip, With Love 2003年 2009年6月 ジュリア・クイン (著)村山美雪 竹書房 〈ラズベリーブックス〉
青い瞳にひそやかに恋を When He Was Wicked 2004年 2009年11月 ジュリア・クイン (著)村山美雪 竹書房 〈ラズベリーブックス〉
突然のキスは秘密のはじまり It's In His Kiss 2005年 2010年3月 ジュリア・クイン (著)村山美雪 竹書房 〈ラズベリーブックス〉
夢の乙女に永遠の誓いを On the Way to the Wedding 2006年 2010年7月ジュリア・クイン (著) 村山美雪 竹書房 〈ラズベリーブックス〉 リタ賞受賞作
幸せのその後で〜ブリジャートン家後日譚〜 The Bridgertons: Happily Ever After 2013年 2013年8月 ジュリア・クイン (著)村山美雪 竹書房 〈ラズベリーブックス〉 スピンオフ作品
ドラマ
ジュリア・クイン
- ジュリア・クイン(Julia Quinn、本名:ジュリア・ポッティンガー〈Julie Pottinger 〉、旧姓:コトラー〈Cotler 〉、1970年 - )
- アメリカ合衆国のロマンス作家。
- ペンネームの「クイン (Quinn) 」は、本棚でベストセラー作家のアマンダ・クイック (Quick) の隣に並べられたいとの思いから名付けたと明かしている。
- 著作は26か国語に翻訳されており、『ニューヨーク・タイムズ』のベストセラー・リストに18回ランクインしたことがある。
『ブリジャートン家』
- ブリジャートン シリーズブリジャートン家の家族構成は8人兄弟姉妹と未亡人の母。作中では、一家はイギリス社交界から尊敬され好意的な目で見られている。一家は深い絆で結ばれている。シリーズは全8巻から成り、各巻で兄弟姉妹が順に1人ずつ主人公を務め、「真の愛」を見つけていく。
- 時代設定は、イギリス摂政時代の終末期の上流社会。
- 2016年、兄弟姉妹の一世代前、伯母ビリー(父エドモンドの姉)の時代を描く新シリーズ「ロークズビー家シリーズ」が開始した。
- シリーズ第8作『夢の乙女に永遠の誓いを』は2007年にリタ賞を受賞。第5作『まだ見ぬあなたに野の花を』は2002年に『パブリッシャーズ・ウィークリー』でその年のベスト6に選ばれた。『ニューヨーク・タイムズ』のベストセラー・リストにも何作かがランクインしている。第2作から第7作までの6作に、「2番目のエピローグ」を電子書籍として書き下ろしている。第1作と第8作のエピローグを足した全8作と、母ヴァイオレットにスポットを当てた短編を足した短編集が2013年4月に刊行された
プロローグ
<人>サイモン・アーサー・ヘンリー・フィッツラヌルフ・バセット 男
- クライヴェドン伯爵
- イングランドでも屈指の伝統を誇る裕福な公爵家の跡継ぎ
- 4歳まで話さず、吃音だった。
- 乳母のてつだいで8歳には吃音は治ってきたが、動揺した時は口ごもる
- 意志が強く、賢い、頑固
- 11歳父公爵に会う決心
- 現・第十代ヘイスティングス公爵
- イートン校からオックスフォード大学時代アンソニー・ブリジャートンと親友
- 6年間外国へ父親が死亡してアイギリスにかえる
<人>第九代ヘイスティングス公爵
- サイモン・アーサー・ヘンリー・フィッツラヌルフ・バセットの父親
<人>スタッブス医師
- 妻の出産のため、ロンドンで最も高名な医師に城に待機させた
<人>第九代ヘイスティングス公爵夫人 故人
- 男児出産➡サイモン・アーサー・ヘンリー・フィッツラヌルフ・バセット
- 出産後亡くなる。
<人>乳母 ホプキンズ
- 愛情深い乳母
- 父親に見離されたサイモンの吃音を丁寧になおす手伝いをしてくれた
<場>ロンドン バセット館(ハウス)
- 11歳サイモンと乳母ホプキンズが初めて訪れた
- バセット館(ハウス)では伯爵は亡くなったことになっていた
1
ブリジャートン家
- 貴族の中でも多産な一族
- アルファベット順に子供の名前をつけている
<人>ブリジャートン子爵 故人
<人>ブリジャートン子爵夫人
- 8人の子供達
<人>アンソニー・ブリジャートン 男
- ブリジャートン子爵家の長男
- 現ブリジャートン子爵。
- サイモンの親友。オックスフォード大学時代から
<人>ベネディクト・ブリジャートン 男
- ブリジャートン子爵家の次男
<人>コリン・ブリジャートン 男
- ブリジャートン子爵家の四男
<人>ダフネ・ブリジャートン 女
- ブリジャートン子爵家の長女
- ロンドン社交界 2シーズン目 花婿探し
<人>エロイーズ・ブリジャートン 女
- ブリジャートン子爵家の次女
<人>フランチェスカ・ブリジャートン 女
- ブリジャートン子爵家の三女
<人>グレゴリー・ブリジャートン 男
- ブリジャートン子爵家の四男
<人>ヒヤシンス・ブリジャートン 女
- ブリジャートン子爵家の四女
<時>1813年4月26日
1813年
- 1月24日 - ロンドンでフィルハーモニック協会(現・ロイヤル・フィルハーモニック協会)発足。
- 1月28日 - ジェーン・オースティンの小説「高慢と偏見」が出版。
- 6月6日 - 米英戦争: ストーニー・クリークの戦いでイギリス軍が勝利。
- 6月21日 - スペイン独立戦争: ビトリアの戦いでウェリントン率いる英西葡三カ国連合軍が勝利。
- 6月24日 - 米英戦争: ビーバー・ダムズの戦いでイギリス軍が勝利。
- 8月26日 - ナポレオン戦争: ドレスデンの戦いがはじまる。
- 9月10日 - 米英戦争: エリー湖の湖上戦で米軍勝利。
- 10月5日 - 米英戦争: テムズの戦いで米軍勝利。
- 10月16日 - ナポレオン戦争: ライプツィヒの戦いがはじまる。
- 10月24日 - ロシア帝国とガージャール朝がゴレスターン条約を締結。
- 11月11日 - 米英戦争: クライスラー農園の戦いで英国カナダ軍が勝利。
イギリス摂政時代
- 摂政時代(せっしょうじだい、英語: Regency era、Regency periodまたは単にRegency)
- イギリスにおいてジョージ3世が統治不能に陥り、息子の王太子ジョージが摂政王太子として統治した時期を指す。
- ジョージ3世が1820年に死去すると、摂政王太子はジョージ4世として即位した。「摂政時代」は正式な摂政時期である1811年から1820年までのほか、より広くジョージ3世の治世の後半である1795年からウィリアム4世が死去する1837年を指すこともある。その場合にはジョージ4世とウィリアム4世の治世も摂政時代に含まれる。摂政時代にはイギリスの建築、文学、ファッション、政治、文化で特徴的なトレンドが見られた。摂政時代は1837年にウィリアム4世が死去、ヴィクトリア女王が即位したことで終結した。
- 摂政時代の社会
摂政時代はその美術と建築の優雅さ、および両領域における業績で知られている。この時代は社会、政治、経済における大変革の時期であり、ナポレオン・ボナパルトなどとの戦争は本国とヨーロッパ諸国の経済と政治に影響を与えた。ナポレオン戦争に伴う殺戮があったが、同時に文化的に大きく進歩した上品な時代とされ、イギリス全体の社会構造を変えた。
摂政王太子(後のジョージ4世)自身も美術と建築のパトロンであった。小規模な文化的ルネサンスのなか、イギリスの上流社会は開花した。摂政王太子は美術における偉大なパトロンの1人として、美麗で異国風なブライトン・パビリオンの建造と改装に莫大な資金を投じた。建築では飾りたてたカールトン・ハウスなど多くの建物の建造に投資した(ジョン・ナッシュ、ジェームズ・バートン、デシマス・バートンも参照)。摂政王太子、後に国王の派手好きで王室経費は使い果たされ、やがて国庫からも金銭を出す羽目となった。
この時期のイングランドの美しさとファッションとは裏腹に、イギリスの社会は高度に階級化されたものになり、社会の暗部となっていた。ロンドンのより富裕でない、薄汚い地域では盗み、情事、ギャンブル、「集団繁殖地」の存在(スラムの意)、酒浸りの人々、などが横行した。人口も大幅に上昇し、1801年時点で100万にちょうど満たなかった人口が1820年には125万ほどになっていた。この人口増は混乱でありながら、流動的な、活気のみなぎる情勢を作り出した。ロバート・サウジーによると、社会階層の差はすさまじいものだった:
摂政時代の社会の魅力、華々しさとその裏にある卑しさ、汚さは明確な対照となった。貧困への対策はほんのわずかしかなかった。ジョージ3世の引退後の摂政時代において、より敬虔で保守的な社会は終わり、より軽薄な、見栄っ張りな社会に取って代わられた。この変遷は摂政王太子自身による影響であり、彼は政治と軍事から完全に隔離された。しかし、王太子の活力がポジティブな方向性になることはなく、そのはけ口はただ享楽と、父への反抗に向けられた。
これらの変遷を推進したのは金や青年期の反抗心だけでなく、技術の進歩もあった。1814年、タイムズ紙が蒸気式の印刷機を採用した結果、1時間ごとに200部も印刷できなかったのが5倍以上の1,100部まで上がり、生産能力と需要が大幅に上昇した。蒸気式の印刷機を採用したことで、出版社は当時大人気な社交界小説で金持ちや貴族の物語、噂話、見せびらかし話などを広めることができた。時にはそれらの物語の主人公を(あまり秘密的でない風に)ほのめかした。社会階層の大きな裂け目により、下流の市民は上流社会を現実に存在するが手の届かない存在として認識しつつ、奇妙で空想的なフィクションとみなした。
- 摂政時代の事件 1811 プリンス・オブ・ウェールズジョージ・オーガスタス・フレデリックは摂政に就任、以降9年間その位に留まり、摂政王太子として知られるようになる。ジョージアン時代の一期間である(正式な)摂政時代の始まりとなった。ウェリントン公爵が半島戦争のフエンテス・デ・オニョロの戦いとアルブエラの戦いで勝利。6月19日の21時、摂政王太子はカールトン・ハウスで摂政就任の祝祭を行った。ラッダイト運動がおこる。グラスゴーで織工が暴動。 1812 スペンサー・パーシヴァルが庶民院で暗殺される。エルギン・マーブルの輸送が終わる。サラ・シドンズ引退。海運と領土をめぐる紛争により、イギリスとアメリカの間で米英戦争が勃発。イギリス軍がサラマンカの戦いでフランス軍に勝利。ガス会社(ガス・ライト・アンド・コーク・カンパニー)設立。チャールズ・ディケンズ誕生。 1813 ジェーン・オースティンの『高慢と偏見』出版。ウィリアム・ヘドリーの蒸気機関車パッフィング・ビリーが試験運転に成功。クエーカーで監獄の改革者であるエリザベス・フライによるニューゲート監獄の改革が始まる。ロバート・サウジーが桂冠詩人になる。 1814 第六次対仏大同盟がフランスに侵攻した後、パリ条約で講和した。ナポレオンは退位、エルバ島に流刑となる。ウェリントン侯爵がロンドンのバーリントン・ハウスで公爵に叙される。イギリス軍がワシントンを焼き討ちにし、ホワイトハウスが焼かれる。最後のテムズ川の氷上フェアが行われ、以降テムズ川が氷結することはなかった。ロンドンの市街地でガス灯が導入される。 1815 ナポレオン・ボナパルトの百日天下が第七次対仏大同盟とのワーテルローの戦いに敗れ、ナポレオンはセントヘレナ島へ流罪となる。穀物法の施行により穀物の輸入が規制される。ハンフリー・デービーが炭鉱工の安全灯(デービー灯)の特許を取得。ジョン・ラウドン・マクアダムの道路工事の手法が採用される。 1816 所得税廃止。インドネシアの火山噴火により、「夏のない年」がおこる。メアリー・シェリーが『フランケンシュタイン』を書く。ウィリアム・コベットが新聞をパンフレットとして出版。イギリスがインドネシアをオランダに返還。ロンドンのリージェンツ運河建築工事の第1段階が始まる。洒落者ブランメルが債権者から逃避してフランスへ逃亡。 1817 アントナン・カレームがブライトンにあるロイヤル・パビリオンで摂政王太子のための宴を振舞った。シャーロット王女が出産の合併症で死去、産科学の慣習が変わるきっかけを作った。エルギン・マーブルが大英博物館で展示される。ウィリアム・ブライ中将死去。 1818 シャーロット王妃がキューで死去。マンチェスターの綿織工がストライキを行う。鉛坑夫とダラム主教の部下がウェアデールにおける猟権をめぐってスタンホープで暴動。ピカデリーサーカス建設。 1819 ピータールーの虐殺。アレクサンドリナ・ヴィクトリア王女(後のヴィクトリア女王)の洗礼式がケンジントン宮殿で行われる。ウォルター・スコットの『アイヴァンホー』出版。トーマス・ラッフルズがシンガポールを創設。蒸気船による初の大西洋横断がサバンナによって行われる(ジョージア州サバンナからリヴァプールまで)。 1820 ジョージ3世死去、摂政王太子がジョージ4世として国王に即位。貴族院がジョージ4世とキャロライン王妃の離婚を許可する法案を通過させたが、大衆の圧力で廃案になる。ジョン・コンスタブルが『乾草の車』を描き始める。カト・ストリートの陰謀が失敗。王立天文学会設立。ミロのヴィーナス発見。
<人>レディ・ホイッスルダウン
- 新聞のコラムを書いている
- ブリジャートン家のことも記事にした
- ゴシップ紙<レディ・ホイッスルダウンの社交界新聞>の社主
- 実名記載
- 創刊3か月 無料配布のあと、3週目から1部5ペニー(法外な値段)
<場>紳士の会員制クラブ<ホワイツ>
<人>レディ・ダンベリー
- 老婦人
- ヘイスティングス公爵は彼女に好感をもっている
- ヘイスティングス公爵が子供の頃親切にしてもらった
- 子供の頃学校の休みに何日かレディ・ダンベリーの甥のリバーデールと過ごしたことがある
- 上流階級の婦人。
<人>リバーデール 男
- レディ・ダンベリーの甥
<オールマックス>
- オールマックス舞踏会場
<場>レディ・ダンベリーの舞踏会
- 今週の予定
2
<場>レディ・ダンベリーの舞踏会
<人>アンソニー・ブリジャートン 男
- ブリジャートン子爵家の長男
- 現ブリジャートン子爵。
- サイモンの親友。オックスフォード大学時代から
- 妹ダフネのために、バーブルックからの求婚を断ってあげている
<人>ベネディクト・ブリジャートン 男
- ブリジャートン子爵家の次男
<人>コリン・ブリジャートン 男
- ブリジャートン子爵家の四男
- パリからもどった(ダフネは1年ぶり)
- 家族の中では一番お調子者
<人>ダフネ・ブリジャートン 女
- ブリジャートン子爵家の長女
- ロンドン社交界 2シーズン目 花婿探し
<人>ナイジェル・バーブルック 男
- 上流階級の紳士
- ダフネ・ブリジャートンの求婚者
- 二週間に二度ダフネとの結婚を申し込みにきた
<人>サイモン・アーサー・ヘンリー・フィッツラヌルフ・バセット 男
- クライヴェドン伯爵
- イングランドでも屈指の伝統を誇る裕福な公爵家の跡継ぎ
- 4歳まで話さず、吃音だった。
- 乳母のてつだいで8歳には吃音は治ってきたが、動揺した時は口ごもる
- 意志が強く、賢い、頑固
- 11歳父公爵に会う決心
- 現・第十代ヘイスティングス公爵
- イートン校からオックスフォード大学時代アンソニー・ブリジャートンと親友
- 22歳から6年間外国(あちこち)へ父親が死亡してイギリスにかえる
伊達男(ポー)ブランメル
- ジョージ・ブライアン・ブランメル(George Bryan Brummell, 1778年6月7日 – 1840年3月30日)
- Beau Brummell(伊達男ブランメル)の異名で知られた、摂政時代のイギリスにおけるファッションの権威である。
- 摂政皇太子(後のジョージ4世)の友人でもあった。
- 生涯
祖父は下僕か菓子職人ともいわれ、ノース卿に仕えた父の代で財をなし、平民の身でイートン・カレッジへ入学することができた。貴公子ぞろいの同級生の中でも、服装への関心と洗練は抜き出ており、靴の新しい留め金まで発明している。非の打ち所のない身だしなみと冷ややかで物憂げな立ち居振る舞いによって、級友たちからBeau Brummellのあだ名を進呈された。
叔母の農家で皇太子と出会い、その関心を引く。オックスフォード大学を卒業後、1794年に近衛第十軽騎兵隊に入る。イギリス社交界の注目を集め始め、1795年に皇太子の許嫁(いいなずけ)である大公女の出迎え役に指名されるという栄誉に与る。1796年には18歳で大尉に昇進している。1799年にマンチェスターへの転任が命じられると、その無粋な工業都市が気に入らなかったブランメルは、近衛隊を辞めてロンドンに留まることを選んだ。
チェスターフィールド街4番地に居を構え、骨董品収集や定期的に設けられる宴席で招待客の感嘆を浴びる。ダンディとしての伝説は、この時期の生活で確立された。彼はイギリスだけではなくヨーロッパの流行界に王者として君臨する。
- 1810年にパトロンであるウェールズ公ジョージと仲違いした後でも、高級貴族の集まりウォーティア・クラブの終身会長に選ばれている。そのクラブでは賭博でも名を挙げ、
- 1812年に「ボナパルトがまもなくパリに戻る」ことに賭けて200ギニー獲得
- 1813年に「連合軍がボナパルトと同盟を結ぶ」ことで100ギニー獲得
- 1814年に「ボナパルトが6週間以内で死ぬ」に賭ける相手に勝ち
- 1815年に「マリー・ルイズが1年以内に再婚する」に賭ける相手に勝つ。
伝えるところによるとブランメルは、一晩のうちにトランプ勝負で2500リーブルを稼いだこともあるという。しかし、1814年に対ナポレオン戦争を終えてロンドンを訪れたロシアやプロイセンの将校たちが挑む、向こう見ずな高額の勝負を受けているうちに、ブランメルの所有する現金55万フラン相当の財産は消尽した。
1816年5月16日、借金で首が回らなくなったブランメルはイギリスを逃亡し、フランスのカレー市に移り住んだ。イギリスのヨーク公夫妻をはじめとする崇拝者たちから援助を受けながら生きのびたブランメルは、イギリス社交界の話題の主であり続けた。カレーへの訪問客にはウェリントン公をはじめとするイギリスの貴顕が数えられる。暇つぶしに創られた詩「蟻の埋葬」はその見事なできばえで、イギリス本土にまで伝えられた。
ジョージ4世が退位したときにフランスのカーン市に新設された領事の職に任命され、1830年10月に着任した。ところがパーマーストン卿への報告書でカーンの領事職は不要である旨書き送ったために罷免されてカレーへ戻り、ほどなく借金のために投獄される。晩年は完全な老衰状態で、養老院で息をひきとったという。
-
ブランメルは毎日服装を整えるのに2時間をかけたという。18世紀の終わりにイギリスに始まった紳士服の規準を創ったとされる。上衣は体にフィットし、乗馬に適しているというイギリス紳士の条件にブランメルは従っていた。ドイツ風長靴に長ズボンか、仔鹿革の短ズボンの上に折り返しつきの長靴。昼間はホイッグ党員風の黄褐色の上衣、夕方からは合わせボタンの青い上衣に白のチョッキ、ぴったり身にあった黒の長ズボンに、縞の絹靴下、シルクハット。飾りといえば細い時計の鎖一つ。香水は用いない。
ブランメルを有名にした着付けの技法としては、頸布(Neck-Cloth)がある。シャツに大きな襟を取りつけ、ネクタイには柔らかく弛んだモスリンの代わりに糊づけした布地を用いた。その白いネクタイは1フィート(30.48センチメートル)もの長さがあった。襟をほどよい大きさに折り曲げ、下顎で徐々にネクタイを押さえつけてへこませながら、首の回りに高々と結びつけるやり方は、当時の伊達男たちが競って真似をしようとした。ブランメルのお洒落は決して派手ではなく、むしろ地味である。彼のよく知られた寸言に「街を歩いていて、人からあまりじろじろと見られているときは、君の服装は凝りすぎているのだ」というのがある。
バイロン卿はブランメルを非常に高く評価しており、「19世紀の三偉人」を格付けして「バイロン自身が3位、ナポレオンが2位、ブランメルが1位」だとした。バイロンの出自は貴族で様々な優位を生まれながらに得ていたが、ブランメルにはそのようなものはなく、ただ自らの個性だけで人々のファッションを支配していたという比類なき自己創造力の持ち主と見ていた。全くの都会人で、服装が乱れるという理由でスポーツは軽蔑していたといわれている。
ジュール・バルベー・ドールヴィイ『ダンディズム、ならびにジョージ・ブランメルについて』をはじめとしてヴァージニア・ウルフ、ジャック・ブーランジェなどの作家がブランメルについて書いている。日本では生田耕作が『ダンディズム~栄光と悲惨』(中公文庫)でブランメルについて詳しい紹介をしている。他に、山田勝著『ブランメル閣下の華麗なダンディ術―英国流ダンディズムの美学』(展望社)など。
3
<人>フィリッパ・フェザリントン 女
- フェザリントン家の次女
ダフネ・ブリジャートンとサイモンの出会い
4
<時>1813年4月28日
<人>ボーシャ・フェザリントン 女
- フェザリントン夫人
- 夫は3年前に他界
<人>ブルーデンス・フェザリントン 女
- フェザリントン家の長女
<人>フィリッパ・フェザリントン 女
- フェザリントン家の次女
<人>ペネロペ・フェザリントン 女
- フェザリントン家の三女
<人>フェリシティ・フェザリントン 女
- フェザリントン家の四女
- 10歳
<人>ベネディクト・ブリジャートン 男
- ブリジャートン子爵家の次男
- イートン校の時にサイモンと会っている
<人>コリン・ブリジャートン 男
- ブリジャートン子爵家の四男
- パリからもどった(ダフネは1年ぶり)
- 家族の中では一番お調子者
- 丁度、大陸巡游旅行から戻ってきたところ
<人>マックルズフィールド伯爵
- コリンの友人
- カッスルフォード様のご子息
5
<時>1813年4月30日
<人>チャルマーズ卿 男
- 60歳
- 今週、ダフネに結婚を申し込まれたが断った
ダフネ・ブリジャートンとサイモン・アーサー・ヘンリー・フィッツラヌルフ・バセットの密約
6
<時>1813年4月30日
<場>ブリジャートン家
- チューリップの花束を手にサイモンが訪ねに来る。
7
<時>1813年4月30日
- 兄アンソニー・ブリジャートンに密約を打ち明ける
- ディナー
8
<時>1813年5月3日
<場>グリニッジ天文台へ
- 王立天文台は毎年、綿密な海図本を出している<航海歴>
-
グリニッジ天文台(グリニッジてんもんだい、英: Royal Observatory, Greenwich、旧称: Royal Greenwich Observatory)
-
ロンドン郊外グリニッジ地区のテムズ川河畔グリニッジ・パーク内に存在する天文台。ロンドン中心部から東におよそ5km、テムズ川河畔からは南におよそ800mの丘に建てられている。
-
1675年にイングランド国王チャールズ2世が設立した王立天文台で、初代天文台長はジョン・フラムスティード。1957年にイースト・サセックスのハーストモンソーに移転し、「グリニッジ旧王立天文台」となった。1990年にケンブリッジに移転した後、1998年に閉鎖され、再び「グリニッジ王立天文台」と呼ばれるようになった。現在は観測機器はなく、史跡として維持されている。
-
1851年に台長エアリーが本館(当時)に子午環を設置し、窓の中心を基準として観測を行い、この地点(グリニッジ子午線上)の平均太陽時であるグリニッジ平均時を定めていた。その後、世界共通の経度の基準(経度0度、本初子午線)と定められ、世界の経度および時刻の基準を担っていた。1833年に設置された報時球は現在も稼働している。
-
なお、現在では、エアリーの子午環は、正確には本初子午線ではなくなっている。本初子午線は、エアリーの子午環から東へ、角度 5.301 秒、距離にして102.478 m の位置を通過している(詳細は本初子午線、IERS基準子午線を参照のこと)。
-
近隣のブラックヒースには、ジェームズ1世 (イングランド王)が1608年に最初7ホールを造らせたゴルフクラブがある。これは今も超一流コースとして利用されている。
グリニッジをゼロ地点として経度がしめされている
-
グリニッジ子午線(グリニッジしごせん、prime meridian at Greenwich)
-
歴史的にイギリスだけではなく国際的な本初子午線(経度0度0分0秒の基準子午線)として用いられた。本項目ではグリニッジ子午線自体の歴史について説明する。
-
現在、国際的に使用される本初子午線は、このグリニッジ子午線を修正変更したIERS基準子午線で、これは「エアリー子午環」の102.478 メートル東を通っている(1989年時点)。この変更によりグリニッジ子午線の経度は西経0度0分5.3101秒となった。
-
したがって、グリニッジ子午線は、もはや本初子午線ではなくなっているのであるが、この二つの子午線は、全地球的には極めて近いことから、現在でも通俗的には「グリニッジ子午線」が「本初子午線」の意味で用いられることがある。また、日本において「本初子午線」を定めた法令では「英国グリニツチ天文台子午儀ノ中心ヲ経過スル子午線ヲ以テ経度ノ本初子午線トス」とされ、この規定は現在も効力がある
- 草深い岸辺にもどり、ブリジャートン家の料理人がこしらえた、簡単だけど気の利いた軽食を食べた
10歳のヒヤシンスがグリニッジのロマンティックな話をサイモンに教える。
・・・「ここで、かの寵臣サー・ウォルター・ローリーが、ぬかるみで女王エリザベスの履物が汚れないよう、外套を地面にかぶせたんですって」・・・
サー・ウォルター・ローリー
- 船にもどる
- アンソニーとサイモンがテイムズ川に落ちる
<場>ブリジャートン家
<時>夜
<食>キッチンに忍び込んで、兄アンソニーとダフネだけでホットミルクをつくろうとしたが、埋め込み式焜炉の使い方がわからなくて、牛乳をそのまま飲んでいた
埋め込み式焜炉
- その年(1813年)の初めに料理人が買い入れた、ひときわ近代的な調理器具
9
<時>1813年5月14日
<時>2週間後
<場>ハムステッド・ヒースにあるレディ・トローブリッジ邸
- 舞踏会
<人>レディ・ジャージー 女
- ダフネの人気上昇は数か月前から予測していたと吹聴している
ハムステッド・ヒース
-
ハムステッド・ヒース(英語: Hampstead Heath)
-
ロンドンにある320ヘクタール (790エーカー)の公園である。
-
ロンドンで最も標高が高い場所のひとつで、ハムステッドからハイゲートに広がっている。ロンドン粘土層に堆積した砂の上にあり、全体が草木に覆われている。ヒースには広大な平地、丘、池、新旧の森、屋外水泳場、遊戯用広場、陸上のトラックなどに加え、かつてカントリー・ハウスとして利用されていたケンウッド・ハウスと庭園が含まれる。公園の東南はパーラメント・ヒルと呼ばれる地帯で、パーラメント・ヒルからの眺望は法律で保護されている。
-
ヒースの東側には池が連なっている。うち3つの池はフリート川から取水した飲料水用のため池で、今は屋外水泳場となっている。公園全体がイギリスの自然保護区域に指定されており、ケンウッド地区の一部はイギリスの重要自然科学区域にもなっている。池の周囲では夏季にはコンサートも催される。ヒースはシティ・オブ・ロンドン・コーポレーションによって管理され、敷地の大半がカムデン区にあるが、外縁部とゴルダーズ・ヒル・パークはバーネット区にある。
“未来の宝”
- 今、ダフネが呼ばれている
- すごくモテモテ
- サイモンとの計画成功
“粉々の公爵”
- サイモンのこと
- フィリッパ・フェザリントン(フェザリントン家の次女)が、サイモンを“胸が粉々に砕けちゃいそうなぐらいハンサム”と評したのをきっかけにつけられた
<人>ミドルソープ公爵 男
- 老紳士
- サイモンの父親と友人だった
ロンドンでは星が見えない
『魔笛』
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『魔笛』(まてき、独: Die Zauberflöte, ドイツ語発音: [ˈdiː ˈt͡saʊ̯bɐˌfløːtə] 発音 )K. 620は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが1791年に作曲したジングシュピール(歌芝居、現在では一般にオペラの一種として分類される)。
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モーツァルトが生涯の最後に完成させたオペラである。台本は興行主・俳優・歌手のエマヌエル・シカネーダーが自分の一座のために書いた。現在もモーツァルトのオペラの中で筆頭の人気を持つ(「Opernwelt」誌の毎年の作品別上演回数統計、「音楽の友」誌の定期的な人気作品投票など)。
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作曲の経緯と初演 シカネーダーは当時ヨーロッパ各地を巡業していた旅一座のオーナーで、モーツァルトとはザルツブルク時代の知り合いであり、モーツァルトが所属したフリーメイソンの会員でもあった。シカネーダーはウィーンの郊外にあるフライハウス(免税館)内のヴィーデン劇場(Theater auf der Wieden、フライハウス劇場とも呼ばれる。フライハウスは劇場も含む建物群。1000人以上収容の集合住宅、市場、礼拝堂、菜園、工房、厩舎までを含む巨大な複合施設)を管理し、一座の上演を行っていた。
シカネーダーは、当時仕事がなく生活に困っていたモーツァルトに大作を依頼した。モーツァルトは1791年の3月から9月にかけて作曲を進め、プラハでの『皇帝ティートの慈悲』の上演のため中断を経て、9月28日に完成させた。当時妻コンスタンツェがバーデンへ湯治に出ており、モーツァルトは一人暮しをしていたため、シカネーダーは彼にフライハウス内のあずまやを提供した(このあずまやはザルツブルクの国際モーツァルテウム財団の中庭に移設され現存する)。
『魔笛』の台本は、次の作品からアイデアを流用したものである。
- パウル・ヴラニツキー作曲のオペラ『オーベロン』 - シカネーダー一座のための台本は、一座の一員カール・ルートヴィヒ・ギーゼケによる。
- トービアス・フィーリップ・フォン・ゲーブラーの戯曲『エジプト王ターモス』 - モーツァルトは以前にこの戯曲のための音楽(K.345)を書いている。
- クリストフ・マルティン・ヴィーラントの童話劇集『ジンニスタン』から『ルル、またの名、魔笛』
ギーゼケはのちに『魔笛』の台本は自分が書いたと主張したが、真偽は定かでない。音楽コラムニストのジェイミー・ジェイムズは、「魔笛」の物語はフリーメイソン団員のアッベ・ジャン・テラッソンが書いた古代エジプトの王子セトスをめぐる寓意小説『セトス』に基づいている、と述べている。
初演は1791年9月30日、ヴィーデン劇場で行なわれ、大好評を博した。モーツァルトはバーデンの妻に「アントニオ・サリエリが愛人カヴァリエリとともに公演を聴きに来て大いに賞賛した」と手紙を書いている(10月14日)。
同じ年の12月、死の床にあったモーツァルトは時計をみながら当日の上演の進行を気にしていたという(フリードリヒ・ロホリッツのモーツァルト逸話集:1798年)。
10
<時>1813年5月14日
11
<時>1813年5月17日
決闘
- 違法行為
結婚
12
<時>1813年5月19日
<人>ジェフリーズ
- サイモンの執事
13
<時>1813年5月21日
婚約指輪
結婚式
14
<時>1813年5月24日
<場>クライヴェドン城
<場><野兎と犬>
- 宿屋
- 計画を変更して泊まることにする
15
<時>1813年5月28日
<人>コルソン夫人
- クライヴェドン城の家政婦
- 50代のきりりとした家政婦
- 亡き公爵夫人の侍女で、その前の遊び相手だった。母親が亡き公爵夫人の乳母だったから。
16
<時>1813年6月2日
- 結婚して2週間
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クラバット【cravate】
クラバットとは、ネクタイの起源とされる首の周りに巻く装飾用のスカーフ状の布の事。
クロアチアの軽騎兵が首に巻いたスカーフが元とされ、名称のクラバットもクロアチア兵という意味。
17
<時>1813年6月2日
18
<時>1813年6月4日
<場>酒場
19
<時>1813年6月9日
<場>ロンドン ヘイスティングス館へ
- ダフネ
<場>ウィルトシャー
- サイモン
- サイモンの私有地
<時>サイモンがクライヴェドン城を出てから2ヶ月。
20
<時>1813年8月2日
<場>ロンドン ヘイスティングス館
- サイモンもどる
<場>ハイド・パーク
- 乗馬
ハイドパーク
- サイモンとダフネの長女
- サイモンとダフネの次女
- サイモンとダフネの三女