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グラーグ ソ連集中収容所の歴史 アン・アプルボーム、川上洸・訳 白水社
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イヴァン雷帝 (中公文庫) (日本語) 文庫 – 1987/1/1
面白いほどよくわかるスラヴ神話: スラスラ読めて一気にわかる神々の物語 (神話が好きになるポケット文庫シリーズ) Kindle版
イワン雷帝
静かなドン
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『イワン・デニーソヴィチの一日』( - のいちにち、ロシア語: Оди́н день Ива́на Дени́совича Odin den' Ivana Denisovicha、英語 One Day in the Life of Ivan Denisovich)
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1962年に発表されたアレクサンドル・ソルジェニーツィンの文学作品。彼のデビュー作で、世界的なベストセラーとなった。
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収容所、キャンプを意味するロシア語の単語であるが、日本などではソビエト連邦における強制収容所を指して使われることが多い。
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党により反革命罪等の体制に対する罪を犯したと判断された政治犯や重犯罪を犯した者、また敵国の捕虜等を主に収容し、恐怖や猜疑心、疲労によって支配された過酷な環境下に置くことにより、体制への恭順な態度を導き出す手段として使用された。
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収容者は無償の労働力としても利用された。特にスターリン体制下では家族ごと収容されることが多く、また収容所内での出産率も高かったため乳幼児の収容者も多かった。
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ロシアではロマノフ王朝時代から、帝政に反抗する者は秘密警察によって逮捕され、シベリア流刑の処分を受けた。刑は軽く、また監視の目も非常に甘いため容易に脱走できた。2月革命が起きると、臨時政府は時代にそぐわないとしてシベリア流刑を廃止したが、10月革命によりボリシェヴィキが権力を掌握すると、大量の「反革命分子」「敵階級」を収容するため強制収容所が復活した。
第二次世界大戦時の日本人捕虜も多くがシベリアなどの収容所に抑留され、強制労働に従事させられた(シベリア抑留)。日本人のほか、200万ともそれ以上とも言われるドイツ軍捕虜、枢軸国であったイタリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、フィンランド、大戦初期に併合されたバルト三国・ポーランド東部からも多数の捕虜や政治犯が収容所に送り込まれ、過酷な強制労働に従事させられた。
1953年のスターリンの死の直後から、スターリン体制の反省と採算性の問題からラーゲリの縮小は進められることとなる。まず未成年者および高齢者および多数の成人収容者が解放され、1956年のスターリン批判以降は劇的に収容者数を減らすこととなり、収容所の環境改善も進められた。
- 中継ラーゲリ 末端のラーゲリへ移動する囚人を一時的に留め置くラーゲリ。シベリアから極東の鉄道主要駅近隣に置かれた。通年の収容施設であるが、冬期間に僻地のラーゲリへの交通手段が無くなると収容者が激増し、劣悪な収容環境が過酷になることで知られた。本来のラーゲリへの移管を待たずして命を落とす者も多く、ウラジオストクの中継ラーゲリでは、詩人のオシップ・マンデリシュタームが死亡している。
午前5時起床。
- 極寒の地。
- 窓ガラスに氷が凍てつき、天井と壁の隙間には氷柱。
- バラックの中も極寒。
当番が天秤で糞桶を担ぎ出す。
- 8ヴェトロ(約100ℓ)の糞桶。
- 不具者のする、楽な仕事ということになっている。
<人>シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)
- 第104班
- 決して寝過ごさず、5時の起床の鐘と同時に起きる。(作業に出る前の1時間半を自分の時間としてつかうため。内職かせぎをする。)
- 今朝は体調不良で起きられなかった。(寒気、節々の痛み。)
- Ш,(シチャー)、854番(黒ジャケッツの肩に当たっている白い布に記されている。)
ベッド
強制収容所の内職稼ぎ
- 他の奴のために古い裏地で手袋のカバーを縫う。
- 金持ちの仲間に、はだしで靴のまわりをうろつかないよう、直接ベッドのところまで乾いたフェルトの長靴を持っていく。
- 倉庫で、そのへんを掃除するとか、物を運ぶとか。
- 食堂で飯皿を机の上から集め、洗い場へ運ぶ仕事。(飯にありつけるが、志願者が多い。)・・・飯皿に何か残っていると、我慢しきれずに皿を嘗め回してしまう。
<人>クジョーミン班長
- シューホフの最初の班長。
- 1943年、その時すでに12年もラーゲルで暮らしていた古狼。
1943年
- 昭和18年。
最初の班長クジョーミンの忠告
強制収容所ラーゲル本部でくたばっていく奴
- 他人の飯皿をなめる奴。
- 医務室をあてにする奴。
- 仲間を密告しにいく奴。
第75班乾燥台から長靴の束を取り出す。
- 今日はシューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)の第104班も長靴を乾かす番。
<人>第104班 班長
- 起床して長靴を履いている。
- 朝、本部の生産計画部(ペー・ペー・チエー)へ出かけ命令受領にいく。
- 今日は、新しい苛酷な《社生団》(社会主義生活団地の略)の現場へ第104班を移されないように、話をつけにいく。(ベーコン半キロを賄賂に作業主任にもっていく、それでもだめなら1キロ。)
産計画部(ペー・ペー・チエー)へ出かけ命令受領。
今日は運命が決せられる日。
- 風をさえぎる一本の木もない、雪に覆われた崖っぷち。
- 仕事をする前に、まず第一に穴を掘り、杭をうち、シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)たちの第104班が逃亡しないように、有刺鉄線を張らないといけない。建築はそのあと。
- 小屋もない。
- 焚き火もおこせない。
- 苛酷な現場。
<人>第104班 副班長
- 起床して長靴を履いている。
- 朝、今からパンを受け取りに行く。
<人>イワン
- 今日の看守。
- 1.5人力。
- 痩せでのっぽ黒目の軍曹。
- おっかないが、看守の中で一番話がわかる奴。(営巣にぶちこまない、監督官のところにひきたてないから。)
<人>アリョーシュカ
- バプテスト信者。
- シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)の上段のベッドの隣人。
- お祈りを呟く。
<人>ブイノフスキイ
- 元海軍中佐。
- シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)の下段のベッド。
<人>糞桶を2つ担ぎ出す年寄りの当番たち
- 湯を獲りに行く番をめぐってけんかがはじまる。
<人>第20班の電気溶接工
- 長靴を投げて、喧嘩を仲裁。
<人>隣の班の副班長
- ワシーリ・フョードリッチに食糧受領の時ごまかされてると話す。(900gのパンが4本だったのに3本になった。)
赤軍水兵
外気温
- 絶対零下30度
<人>タターリン
- 痩せてる。
- シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)を無理やり起こした人。
- シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)に三昼夜の労働営倉を申し付けた。(労働営倉とは、昼間は一般囚人と同様、作業に出、夜は営倉に監禁されるもの。)・・・起床の鐘で起きなかったから。
- 隊長。
- 青い襟章のついた古めかしい毛皮外套を着こんでいる。
労働営倉とは、昼間は一般囚人と同様、作業に出、夜は営倉に監禁されるもの。
- 準営倉。
- 温かい食事も貰えるし、本当の営倉と違い働かされる。
<場>外
- 酷寒(マローズ)
- 大型探照燈が2台、遠い隅の望楼の上から、ラーゲルの構外を十文字に照らしていた。
- 構外にも構内にもいたるところに灯火。
- シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)とタターリン隊長は監獄(プール)をかこむ高い木柵に沿って歩く。
- 囚人たちの襲撃からパン焼場を護っている有刺鉄線。
- ラーゲル本部を通り過ぎたとこに、1本のレールが太い針金で棒杭につるしてあり、もう一つの棒杭にはあまり低温を記録しないように、風除けをつけた温度計が氷柱に覆われてぶらさがっている。(今朝は零下40度にんっていない。)
酷寒(マローズ)
- マロースは「寒波」を意味する。
- мороз
- 本書では、酷寒と訳されている。
監獄(プール)
- ラーゲル内の石像監獄
もう一つの棒杭にはあまり低温を記録しないように、風除けをつけた温度計が氷柱に覆われてぶらさがっている。
- 零下41度を示していれば、作業に追い立てられずにすむことになっている。
<場>本部の建物 看守室
- 営倉免除のかわりに、看守室の床掃除。
- 看守室の床掃除は、構外作業に出ない特別囚の仕事。(本部勤務の当番のする仕事。)・・・楽な方の仕事ということ。
- 看守室にはペーチカがあり、二人の看守がシャーシカをしてる。
シャーシカ
- チェッカーのこと
チェッカー
- ボードゲームのチェッカー(英: checkers)
- 相手の駒を飛び越えて取り合うゲーム。
- 世界的にはドラフツ(draughts)の名で呼ばれており、日本語では西洋碁とも呼ばれる。
- 世界各国に存在し、ボードの大きさは国によって異なる。
- 著名なものは、国際ドラフツとイギリス式ドラフツである。なお、「チェッカー」と言った場合は通常イギリス式ドラフツのことを指す。色違いの丸い駒を使用する。駒の色は特に決まっていないが、通常は「黒、赤、白」の3色の中から2色が使われる。
<場>看守室の外 井戸端へ
<人>班長の中で若手の一人
- 元ソビエト連邦英雄。
- 棒によじ登り、温度計を見ていた。
<場>看守室
- 看守タターリン隊長はいなくなっていた。
- 4人の看守が集まって、1月のキビの配給がどれくらいあるかについて話し合っていた。
4人の看守が集まって、1月のキビの配給がどれくらいあるかについて話し合っていた。
- 部落の食糧事情は悪かった。
- 看守たちは、配給券を使い果たしていたが、部落のものとは別に、食糧を割り引いて貰っていた。
<人>シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)
- 第104班
- 決して寝過ごさず、5時の起床の鐘と同時に起きる。(作業に出る前の1時間半を自分の時間としてつかうため。内職かせぎをする。)
- 今朝は体調不良で起きられなかった。(寒気、節々の痛み。)
- Ш,(シチャー)、854番(黒ジャケッツの肩に当たっている白い布に記されている。)
- 8年間のラーゲル暮らし。
- まばらな歯。・・・1943年に死に損ない、歯はその時ウスチ=イジマ(バレンツ海に注ぐベチョーラ河畔)の収容所で抜けてしまった。(病気のせいで)
- 歯抜けのせいで、舌たらずの発音。
- 1941年に女房と別れたきり。
履物事情
- 朝のうちからフェルトの長靴をしめらすのはなんとしてもさけたかった。・・・裸足で床掃除。
- バラックに取って返しても、履き替える靴はない。
- 一冬、全くフェルトの長靴なしで歩きまわる経験をしたことがある。
- 皮の編上靴が全く無く、やくざなサンダルや Ч・T・З(チエー・テー・ゼー)と称する自動車の古タイヤから作ったゴム靴しかないこともあった。
- シューホフは10月にゆったりした上靴をもらった。
- 12月にも運よくフェルトの長靴が手に入ったが、経理の悪魔に取り上げられた。(8年間のラーゲル生活の中で、一番残念なこと。)
- 長靴の胴にはさんでおく、スプーン。(肌身離さず、持っている。)
編上靴
Ч・T・З(チエー・テー・ゼー)
- チェリャビンクス・トラクター工場の略。
チェリャビンクス
- チェリャビンスクまたはチェリャービンスク(ロシア語: Челябинск チリャービンスク;ラテン文字転写:Chelyabinsk)
- ロシア連邦の都市で人口は113万人。
- ウラル山脈東麓、ミアス川沿いに位置する。
- チェリャビンスク州の中心都市で、重工業が盛ん。
- チェリャビンスク駅はシベリア鉄道の正式な起点。
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1736年にチェリャバ要塞が現在のチェリャビンスクの場所に建設された。この地名は、ウラル地方に住むテュルク系民族の言葉であるチェリャビ(高貴な)からきている。この要塞は行政の中心であると同時にテュルク系民族に対する軍事拠点でもあり、エメリヤン・プガチョフの反乱軍との戦闘の舞台にもなった。1781年には市の地位を得た。
ヨーロッパとアジアの境界となるウラル山脈の東にあり、かつてはロシアの辺境の地と見られていたが、1891年にシベリア鉄道の建設が始まり、シベリアの開発が進むのに合わせて大きく発展した。1913年1月1日の人口は45,000人ほどだった。
1930年代のソビエト連邦の重工業建設により「チェリャビンスク・トラクター工場」や「チェリャビンスク冶金工場」などの大工場が建ち、人口も急速に増加した。いまだ地方の小都市の域を出なかったチェリャビンスクにとっては、第二次世界大戦も拡大の機会となった。1941年に独ソ戦が始まると、ドイツ軍の攻撃にさらされたヨーロッパ・ロシア西部にあったいくつもの大工場がウラル以東へ疎開し、チェリャビンスクにもレニングラードにあったS.M.キーロフ第185工場(1962年にオムスクへ再移転)をはじめとする大きな工場や労働者多数が移転し、T-34戦車やカチューシャ多連装ロケットランチャーなどが製造されるようになった。こうしてチェリャビンスクは「戦車町」(タンコグラード、Танкоград)と呼ばれるようになった。大戦中はグラグ(強制収容所)があり15,000人以上が鉱山労働や道路建設、住宅建設などに従事し、戦後はドイツ軍捕虜の収容所も建設されている。
1957年にチェリャビンスクから150キロメートル北西にあるオジョルスク市(秘密閉鎖都市のため、当時はチェリャビンスク-65と呼ばれた)のマヤーク核兵器工場で事故が発生し、3万人を越える住民が被曝した。同市には現在[いつ?]もその後遺症が残っている。
2007年8月には上海協力機構の合同軍事演習コード名「ピースミッション2007」が行われた。
2013年2月15日、チェリャビンスク州に隕石が落下し、この衝撃波により市内だけでも3300棟の建物が被害を受け、被害総額は10億ルーブル(約31億円)を上回る見込み
<場>食堂
- 看守の目が触れないように。(隊列を離れて一人でいるものは、ただちに営倉へいれることと、ラーゲル所長の厳しい命令があるから。)
- 今日は珍しく、珍しく行列も群衆もいない。
- 席の取り合い。
- 小骨は机の上に吐き出す。小骨が机にたまると、新しい班が来る前に誰かが掃きのけ床へ落とす。(床にじか吐きするのは行儀が悪いことになっている。)
- 帽子をかぶったまま食事をしない。
<食>朝食
- 野菜汁(パランター)
- マガーラの粥(カーシャ) 味も素っ気もない、腹も一杯にならない代物。キビみたいに見える、黄色い草の葉っぱ。穀物の代わりにこれを配給することを思いついたのは中国人。
- 黒くなったキャベツ、腐った小魚。
- 野菜汁(パランター)の実は来る日も来る日もかわらなかった。(冬の間にどんな野菜が蓄えられたかにより偏る。)
- 小魚は殆ど骨ばかり。煮崩れてる。
- パンなし バラックに寄らなかったので、食糧配給を受け取らなかったから。
<人>フェチュコーフ
- シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)と同班。
- シューホフの朝食の番をしてくれていた。
- フェチュコーフはシューホフより最下等の班員の一人。
肌身離さず、持っているスプーン
- シェーホフと一緒に北方のラーゲルを転々としたもの。
- このスプーンは、シェーホフが自分で砂の鋳型を作り、アルミ線をとかして造ったもので、《ウスチ=イジマ1944》と刻まれていた。
ラーゲルの囚人たちが自分のために生きている時間
- 朝飯の10分
- 昼飯の5分
- 晩飯の5分
ラーゲルの囚人たちが一番お腹を減らす時期
- 6月 野菜が全て底をつくから。
- 一番ひどいのは7月 鍋の中にイラクサをきざみこむ始末。
- イラクサ(刺草・蕁麻、英名:Nettle、学名:Urtica thunbergiana)
- イラクサ科イラクサ属の多年生植物の一種、または総称。多年生植物で30~50cmの高さになり、茎は四角く、葉と茎に刺毛(トゲ)がある。6月から9月にかけて葉腋から円錐形に緑色の花をつける。
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「イラクサ」は Urtica thunbergiana の標準和名である。ヨーロッパや北米の近縁種セイヨウイラクサ (Urtica dioica)(英名:Stinging nettle)も「イラクサ」と訳されることが多いが、日本に野生するイラクサとは別種である。
植物全体にある刺毛が特徴で、イラクサ科を意味するUrtica(ウルティカ)とはラテン語でチクチクするという意味である。
また、若芽が山菜として利用されるミヤマイラクサも、時として「イラクサ」と称されることがあるが、ミヤマイラクサはムカゴイラクサ属 (Laportea) であり、イラクサとは別属である。
日本でもイラクサの方言は多く、アイコ(アエコ)、イラナ(イラ)、アエダケ(アイダケ・エダケ)など、地域によって呼び名が変わる。イタイタグサともイラグサとも呼ばれる。
- セイヨウイラクサは、アンデルセン「野の白鳥」(グリム童話「六羽の白鳥」と似た話)に呪いを解く鍵として出て来る。
空はあいかわらずくらかったし、・・・
- 朝だけど暗い。
<人>フラモイ(びっこ)の助手
- 第六不具者バラックへ朝飯を知らせにいった。
<人>フラモイ(びっこ)
- 食堂当番
第六不具者バラック
- ここの連中は、作業へは出ない。
- 文化教育室の方へ髭を生やした年寄りの絵描きが、「番号」を書くために絵具と筆を取りに行く。
看守にであったら、五分前から帽子を脱ぎ、二歩行き過ぎてから帽子をかぶること。
- 先ごろバラックに出た命令
- 看守によって言いがかりをつける者とそんな命令を全然意に返さない者がいる。
- いいがかりをつけて楽しむ看守。(営巣に送られた者もいる。)
<場>医務室
- もうすぐ医務室の所で、第七バラックの、のっぽのラトビア人との約束を思い出す。(今朝作業前に、自家製のタバコをコップに2杯買いにいくと約束した。)残念。
- 医務室の廊下はきれい。壁も白いエナメル。調度もみんな白。
- 診察室のドアはしまっていた。(医者はまだ寝てる。)
- 当直室に若い見習い医師のニコライ・ヴドヴーシキンがいた。
- 朝は休診。夜に診察する。作業免除者の名簿はすでに生産計画部に提出したあと。
- 時計はない。(囚人には時計を見せない決まり。)
- シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)は今朝作業前に、自家製のタバコをコップに2杯買いにいくと約束した相手。
- 昨晩、差し入れの小包をうけとったから。この機をのがすと、新しい小包が届くまで、一か月も待たないといけない。
- 質のいタバコが届く。
<人>ニコライ・ヴドヴーシキン (コーリャ(ニコライの愛称))
- 若い見習い医師
- 当直室で内職の仕事(長詩の清書。)をしていた。
- 毎朝2名の人間しか作業免除する権限しかもっていない。すでに2名免除したあと。
- ステパン・グリゴーリッチのすすめで、ラーゲルへ。
- 文学部の学生で、実は2年生の時逮捕された偽の見習い医師。
- ステパン・グリゴーリッチはコーリャに自由の身では書くことのできないことを書かせようとしていた。
<人>シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)
- 第104班
- 決して寝過ごさず、5時の起床の鐘と同時に起きる。(作業に出る前の1時間半を自分の時間としてつかうため。内職かせぎをする。)
- 今朝は体調不良で起きられなかった。(寒気、節々の痛み。)
- Ш,(シチャー)、854番(黒ジャケッツの肩に当たっている白い布に記されている。)
- 8年間のラーゲル暮らし。
- まばらな歯。・・・1943年に死に損ない、歯はその時ウスチ=イジマ(バレンツ海に注ぐベチョーラ河畔)の収容所で抜けてしまった。(病気のせいで)
- 歯抜けのせいで、舌たらずの発音。
- 1941年に女房と別れたきり。
- 髭が伸び放題。10日前に風呂にはいったきり。あと3日もすれば風呂があるだろう。
- ロワチ湖畔の野戦病院の思い出。(顎を負傷。)
- 体温は37度。
<人>ステパン・グリゴーリッチ
- 新顔の医者。
- 入院しても休んでいられない規則。(独特の規則をひっさげて乗り込んできた。)
- 病気には仕事をするのが一番の薬。というのが持論。
<場>第九バラック
- 第104班
- シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)、医務室に残れなくて駆け込む。
<人>パウロ
- 第104班 副班長
- 起床して長靴を履いている。
- 朝、今からパンを受け取りに行く。
- 何か計算していた。
- 西部ウクライナ出身。(しっかりと相手を父称呼びし、丁寧な「あなた」言葉を使う。)➡イワン・デニーソヴィチと呼ぶ。
- 配給のパンと小さな砂糖をシューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)に渡してくれる。(パンの分量)
<人>アリョーシュカ
- バプテスト信者。
- シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)の上段のベッドの隣人。
- お祈りを呟く。
- 上段ベッドでシューホフと隣同士。
- いつもこざっぱりと身ぎれい。
- 福音書の半分が書き写されている手帳。
<人>シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)
- 第104班
- 決して寝過ごさず、5時の起床の鐘と同時に起きる。(作業に出る前の1時間半を自分の時間としてつかうため。内職かせぎをする。)
- 今朝は体調不良で起きられなかった。(寒気、節々の痛み。)
- Ш,(シチャー)、854番(黒ジャケッツの肩に当たっている白い布に記されている。)
- 8年間のラーゲル暮らし。
- まばらな歯。・・・1943年に死に損ない、歯はその時ウスチ=イジマ(バレンツ海に注ぐベチョーラ河畔)の収容所で抜けてしまった。(病気のせいで)
- 歯抜けのせいで、舌たらずの発音。
- 1941年に女房と別れたきり。
- 髭が伸び放題。10日前に風呂にはいったきり。あと3日もすれば風呂があるだろう。
- ロワチ湖畔の野戦病院の思い出。(顎を負傷。)
- 体温は37度。
- パウロ副班長に配ってもらったパンの半分をベッドのマットレスの小穴を大きくして、つめているノコ屑の中に隠す。隠していた糸と針で縫う。(当番の連中にぬすまれるから。)
- バンドは取り上げられてしまったので、防寒服のうえにジャケッツをまとい縄で縛る。(特殊ラーゲルでは、皮バンドは禁止されていた。)
西部ウクライナ
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現在のウクライナ南西部を中心とした地域である。18世紀末からポーランド最南部も含まれることもある。住民は主にウクライナ人で、西部にはポーランド人も住んでいる。紅ルーシとも呼ばれた。現代では、東欧に跨る地域となっている。
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「ガリツィア」という名称は、ラテン語化されたウクライナ語の「ハルィチナー」という名前に由来する。「ハルィチナー」は「ハールィチの国」または「ハールィチの土地」といった意味で、西ウクライナにあるハールィチという町名を起源としている。
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キエフ大公国時代
981年に、ヴラジーミル聖公によってキエフ大公国に編入された。1087年には、ハールィチ公国が置かれた。1200年には、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国(ハールィチ・ヴォロドィームィル公国)領となった。11世紀には、ポーランド王国の影響力が及ぶようになった。
キエフ大公国の崩壊後、ルーシの地にはリューリク朝の血縁関係による多くの公国が乱立し、覇権を争った。そうした中、ハールィチ・ヴォルィーニ公国はドニエストル川沿いの都市ハールィチを中心に繁栄した。その領土となった一帯を指す「ガリツィア」という地名は、ハンガリー王エンドレ2世によって使用され始めたラテン名であるといわれる。13世紀当時、ハールィチ・ヴォルィーニ公国はハンガリーの影響下にあった。その後、中心都市はヘルム、リヴィウへと移っていき、ハールィチは廃れていった。
ポーランド・リトアニア時代
ハールィチ・ヴォルィーニ公国は最盛期にはルテニア・ウクライナ随一の勢力を誇ったが、ヴラジーミル大公国やリトアニア大公国など他国との競合に敗れ滅亡した。1349年のハールィチ・ヴォルィーニ戦争では、カジミェシュ3世率いるポーランド王国にガリツィアとハールィチは共に編入され、リトアニアがヴォルィーニを獲得した。
その後、ポーランド・リトアニア共和国に領有されるようになった。これによりこの地域は政治情勢が安定、300年以上にわたる繁栄の時代を迎えた。
17世紀半ばに入ると、(主に気候変動による不作と推定される原因で)この地域の経済状態が悪化、農地の寡占化が進み、大地主と小地主の間に大規模な土地争いが始まる。1648年と1655年には、リヴィウがウクライナ・コサックのヘーチマン、ボフダン・フメリニツキーによって攻撃を受けた。その後、ポーランド・リトアニア連合の勢力は目に見えて衰え始めた。
オーストリア帝国時代
1772年には第1回ポーランド分割が行われ、ガリツィアはオーストリア帝国領ガリツィア・ロドメリア王国になった。1848年5月2日には、ガリツィアにおける最初のウクライナの政治組織ルーシ・ラーダが置かれた。1867年には、オーストリアはハンガリーと連合し、オーストリア・ハンガリー帝国となった。これ以降、かつてハンガリーの支配下に置かれた経緯のあるガリツィアに対し、ハンガリーは一定の影響力を行使するようになった。
第一次世界大戦
1914年、第一次世界大戦が勃発すると、当初ロシア軍が侵攻してレンベルクなどを占領したが(ロシアの東ガリツィア占領 (1914年–1915年))、その後独墺軍が奪回した。1916年のブルシーロフ攻勢で再度ロシア軍が占領したが同盟側の攻勢で奪回、ロシアではロシア革命が勃発し、1918年のブレスト=リトフスク条約により東部戦線は終結した。
現代へ
第一次世界大戦後の1918年に西部は独立したポーランド共和国の領土とされた(タルノプジェク共和国)。一方、東部ではウクライナ人勢力により西ウクライナ人民共和国の独立が宣言された。ポーランドは同国に侵攻し、軍事力のもとに屈服させた。その後、赤軍勢力によるガリツィア・ソビエト社会主義共和国が建国されたが、赤軍はポーランド・ソビエト戦争に敗れ、1923年までにガリツィア全域がポーランド領となった。これにより、ポーランドはかつてのような大きな国土を領有するようになった。
第二次世界大戦前、ポーランドは分割され西ウクライナはハンガリー、ルーマニア、そしてソ連によって支配を受けるようになった。戦後は西ウクライナは一括してソ連領となり、ガリツィアもウクライナ・ソビエト社会主義共和国に編入された。ソ連の崩壊後は、独立したウクライナの領土となって今に至っている。
<人>チューリン
- 第104班 班長
- 起床して長靴を履いている。
- 朝、本部の生産計画部(ペー・ペー・チエー)へ出かけ命令受領にいく。
- 今日は、新しい苛酷な《社生団》(社会主義生活団地の略)の現場へ第104班を移されないように、話をつけにいく。(ベーコン半キロを賄賂に作業主任にもっていく、それでもだめなら1キロ。)
- ラーゲル生活19年の男。
<人>第20班の班長
- 第104班 班長を見習って号令をかける。
<場>外へ
- 辺りはまだ暗い。東の空が幾分緑がかってあかるもだしてきた。
- 朝の作業へ。
- 零下27℃
- 身体検査をうける。
- 画(え)かきに服の番号を看守に見えるように書き直してもらう。
<人>作業副主任
- 第104班 班長チューリンは、この男を怖れていた。
- ベーコン1㎏は届いているようで、今日も第104班はいつもの作業隊にいれたれた。
<人>パンテレーエフ
- 第104班
- 今朝は病欠。
- 保安部の奴から残された。また誰かを密告する気。
<人>白ひげをはやしたじいさん 画(え)かき
- お偉方のために画をただで描いてやっている。
- 囚人たちが作業へ出動する前、番号書きをする。
<人>ツェーザリ・マルコヴィッチ
- 第104班
- 煙草をすっている。(パイプでなく巻たばこ)
- ありとあらゆる民族の血が混じっていた。
- 映画監督だった。
- 第一作も取り終えずにぶちこまれた。
- 黒いこいひげ。(そり落とさないのは身分証明書がそうなっているから。)
- ネルシャツ・・・身体検査で見つかる。
<人>山犬のフェチュコーフ
- ツェーザリのタバコを狙ってる。(吸いさし。)
<人>ヴォルコヴォイ中尉
- 本部の監督官
- シャツのボタンまではずして身体検査させる。
- ラーゲル所長も怖れている。
- ヴォルコヴォイ・・・ロシア語でウォルク(狼)の形容詞。
- 浅黒い面長な顔、眉をひそめて目にもとまらぬ早さで歩き回る狼のよう。
- 最初の頃は鞭を持っていたが、最近は持っていない。
- 囚人はソビエト人ではない。
<人>ラーゲル所長
<人>ブイノフスキイ
- 元海軍中佐。
- シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)の下段のベッド。
- チョッキか胸あて・・・身体検査で見つかる。
- ラーゲルに来てまだ3か月。
- 十昼夜の重営倉を命じられる。(監獄へ。)
刑法第九条違反
- 囚人はソビエト人ではないから、違反していない。
君たち(ヴォルコヴォイ中尉たち)はコムニストでない
コムニスト
- 旧ソ連共産党中央委員会の理論・政治雑誌。1923年11月19日の全連邦共産党(ボリシェビキ)中央委員会組織局の決定に基づいて、24年4月5日に第1号を『ボリシェビク』の名で発刊、52年11月に『コムニスト』と改称した。マルクス・レーニン主義の宣伝とその創造的発展、共産主義建設を目ざす党の路線の実現のための啓発活動を編集方針とした。年18回刊。発行部数は最盛時100万を超えたが、91年8月の共産党解体後に廃刊された。
<場>暖発電(テツツ)
- 暖房発電所
- 現場
- 両手を背中にくまされて、現場まで歩かされる。
囚人たちの護送兵
軍犬
囚人は五列縦隊
- 縦隊をみだすと逃亡とみなして発砲される。
<場>木工所
- 囚人部隊が建てた。
<場>住宅街
- 囚人部隊が建てた。
- 住んでいるのは民間人。
<場>荒野
<人>シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)
- 第104班
- 決して寝過ごさず、5時の起床の鐘と同時に起きる。(作業に出る前の1時間半を自分の時間としてつかうため。内職かせぎをする。)
- 今朝は体調不良で起きられなかった。(寒気、節々の痛み。)
- Ш,(シチャー)、854番(黒ジャケッツの肩に当たっている白い布に記されている。)
- 8年間のラーゲル暮らし。
- まばらな歯。・・・1943年に死に損ない、歯はその時ウスチ=イジマ(バレンツ海に注ぐベチョーラ河畔)の収容所で抜けてしまった。(病気のせいで)
- 歯抜けのせいで、舌たらずの発音。
- 1941年に女房と別れたきり。
- 髭が伸び放題。10日前に風呂にはいったきり。あと3日もすれば風呂があるだろう。
- ロワチ湖畔の野戦病院の思い出。(顎を負傷。)
- 体温は37度。
- パウロ副班長に配ってもらったパンの半分をベッドのマットレスの小穴を大きくして、つめているノコ屑の中に隠す。隠していた糸と針で縫う。(当番の連中にぬすまれるから。)
- バンドは取り上げられてしまったので、防寒服のうえにジャケッツをまとい縄で縛る。(特殊ラーゲルでは、皮バンドは禁止されていた。)
- 年があけて1951年、シューホフは年2通の手紙を書く権利をもらった。(ウスチ=イジマのランゲールでは別規則で、手紙を出したい奴はいつでもだせる。)
- 1941年6月23日シューホフは家(テムゲニョヴォ村)を出た。
- 家の者も年に2回手紙をよこす。
- あと2年は収容予定。
- 40年の星霜をへて。・・・40歳。
- 賄賂をやったりとったりしたことがない。(ランゲールでもしったことがない。)
- 市民権はく奪の身。
- 腕に覚えがある職人だった。
<場>ウスチ=イジマのランゲール
- バレンツ海に注ぐベチョーラ河畔の収容所
- 1943年にシューホフがいた収容所。
<場>テムゲニョヴォ村
- 1941年ポロムニャの教会へ朝のお祈りに行ってきた連中が、ポロムニャの郵便局がラジオのニュースを聞いて、「戦争がはじまったよ」と教えてくれた。
- 戦争になるまでシェーホフの村、テムゲニョヴォ村にはラジオが」なかった。
- 今はどの家にも有線ラジオがついている。
- 大工仕事で名の売れている地方。
- 最近はコルホーズも出稼ぎもせず、絨毯染めが主流の職業。
- 男性はひと月だけコルホーズを手伝うだけ。コルホーズは女性が切り盛りしている。
<人>アンドレイ・プロコーフィエヴィッチ・チューリン
- 第104班 班長
- 起床して長靴を履いている。
- 朝、本部の生産計画部(ペー・ペー・チエー)へ出かけ命令受領にいく。
- 今日は、新しい苛酷な《社生団》(社会主義生活団地の略)の現場へ第104班を移されないように、話をつけにいく。(ベーコン半キロを賄賂に作業主任にもっていく、それでもだめなら1キロ。)
- ラーゲル生活19年の男。
<人>キルガス
- ラトビア人
-
全て国有だったソフホーズと違い、半官半民で協同組合に近い。ロシア語の «коллективное хозяйство»コレクティーヴノエ・ハジャイストヴァ の略で「共同経営」「集団農場」といった意味である。農業に限らず、漁業コルホーズ、林業コルホーズなどもある。
-
国有地を無料で使用して耕作を行った。主な農機具・家畜等は共有。労働者は組合員としてコルホーズで農作業を行い賃金を得る。生産物は政府に売却する。組合組織による経営であった。各個人の住宅に付属した小規模農地で野菜の栽培、家畜の飼育が可能で、個人で生産した生産物は自由な販売を認められていた。
<人>ザハール・ワシーリッチ
<人>チホーン
- 84歳になるコルホーズの男の働き手。(シェーホフの村、テムゲニョヴォ村)
- 大工
<人>シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)の妻
- 1941年に別れたきり。
- 亭主のイワンが帰ってきたら染め職人になってほしいと思っている。(割のいい商売だから。)
- 貧乏暮らしをしている。
- 子供たちを実業学校へいかせたい。
星霜をへて
- 《星は1年に天を1周し、霜は毎年降るところから。古くは「せいぞう」》としつき。歳月。「星霜ここに幾十年」「幾星霜を経る」
<場>作業現場
- すべての望楼に護送兵が立哨。
- 詰所には民間人の守衛が、板切れやセメントの持ち出しを見張るため一晩中つめていた。
- 有刺鉄線の向こうに作業現場。そのはるかかなたに鉄条網。
<人>アリョーシュカ
- バプテスト信者。
- シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)の上段のベッドの隣人。
- お祈りを呟く。
- 上段ベッドでシューホフと隣同士。
- いつもこざっぱりと身ぎれい。
- 福音書の半分が書き写されている手帳。
- 鉄条網の向こうの朝日を見てほほえむ。
- 日曜日になると、バプテスト信者はみんな集まって、お互いにおしゃべりしている。
<人>アンドレイ・プロコーフィエヴィッチ・チューリン
- 第104班 班長
- 起床して長靴を履いている。
- 朝、本部の生産計画部(ペー・ペー・チエー)へ出かけ命令受領にいく。
- 今日は、新しい苛酷な《社生団》(社会主義生活団地の略)の現場へ第104班を移されないように、話をつけにいく。(ベーコン半キロを賄賂に作業主任にもっていく、それでもだめなら1キロ。)
- ラーゲル生活19年の男。
- 肩幅ががっちりとした体格で大柄。
- 冗談を言って班員を笑わせたりはしないが、食事の面倒はよく見てくれる。
- 二度目の刑期で、中央ラーゲル局出身なので、ラーゲルのことなら何でも知っている。
- シェーホフは同じ班ではなかったが、彼のことをウスチ=イジマにいる頃から知っていた。
- 刑法第五十二条組が、一般ラーゲルのウスチ=イジマからここ徒刑ラーゲルへ追い払われた時、シェーホフはアンドレイ・プロコーフィエヴィッチ・チューリンに拾われ、様々なことから守ってくれた。
- 天然痘のため大きなあばただらけ。
<人>シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)
- 第104班
- 決して寝過ごさず、5時の起床の鐘と同時に起きる。(作業に出る前の1時間半を自分の時間としてつかうため。内職かせぎをする。)
- 今朝は体調不良で起きられなかった。(寒気、節々の痛み。)
- Ш,(シチャー)、854番(黒ジャケッツの肩に当たっている白い布に記されている。)
- 8年間のラーゲル暮らし。
- まばらな歯。・・・1943年に死に損ない、歯はその時ウスチ=イジマ(バレンツ海に注ぐベチョーラ河畔)の収容所で抜けてしまった。(病気のせいで)
- 歯抜けのせいで、舌たらずの発音。
- 1941年に女房と別れたきり。
- 髭が伸び放題。10日前に風呂にはいったきり。あと3日もすれば風呂があるだろう。
- ロワチ湖畔の野戦病院の思い出。(顎を負傷。)
- 体温は37度。
- パウロ副班長に配ってもらったパンの半分をベッドのマットレスの小穴を大きくして、つめているノコ屑の中に隠す。隠していた糸と針で縫う。(当番の連中にぬすまれるから。)
- バンドは取り上げられてしまったので、防寒服のうえにジャケッツをまとい縄で縛る。(特殊ラーゲルでは、皮バンドは禁止されていた。)
- 年があけて1951年、シューホフは年2通の手紙を書く権利をもらった。(ウスチ=イジマのランゲールでは別規則で、手紙を出したい奴はいつでもだせる。)
- 1941年6月23日シューホフは家(テムゲニョヴォ村)を出た。
- 家の者も年に2回手紙をよこす。
- あと2年は収容予定。
- 40年の星霜をへて。・・・40歳。
- 賄賂をやったりとったりしたことがない。(ランゲールでもしったことがない。)
- 市民権はく奪の身。
- 腕に覚えがある職人だった。
- 同じ班ではなかったが、アンドレイ・プロコーフィエヴィッチ・チューリン班長をウスチ=イジマにいる頃から知っていた。
- 刑法第五十二条組が、一般ラーゲルのウスチ=イジマからここ徒刑ラーゲルへ追い払われた時、シェーホフはアンドレイ・プロコーフィエヴィッチ・チューリンに拾われ、様々なことから守ってくれた。(信頼している。)
<場>ウスチ=イジマのランゲール
- バレンツ海に注ぐベチョーラ河畔の収容所
- 1943年にシューホフがいた収容所。
- 一般ラーゲル。
<場>徒刑ラーゲル
- 刑法第五十二条組が、一般ラーゲルのウスチ=イジマからここ徒刑ラーゲルへ追い払われた時、シェーホフはアンドレイ・プロコーフィエヴィッチ・チューリンに拾われた。
<人>護送隊長
<人>点検係
<人>現場監督
<人>班長たち
- 囚人。
<人>職長(デール)
- 同じ囚人くせに、仲間の者たちを犬より酷くこき使う卑劣漢。
<時>朝8時5分
- 移動発電所の汽笛がなったから。
<人>パウロ
- 第104班 副班長
- 起床して長靴を履いている。
- 朝、今からパンを受け取りに行く。
- 何か計算していた。
- 西部ウクライナ出身。(しっかりと相手を父称呼びし、丁寧な「あなた」言葉を使う。)➡イワン・デニーソヴィチと呼ぶ。
- 配給のパンと小さな砂糖をシューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)に渡してくれる。(パンの分量)
- アンドレイ・プロコーフィエヴィッチ・チューリン班長に言われて一緒に事務所へ。
<人>ツェーザリ・マルコヴィッチ
- 第104班
- 煙草をすっている。(パイプでなく巻たばこ)
- ありとあらゆる民族の血が混じっていた。
- 映画監督だった。
- 第一作も取り終えずにぶちこまれた。
- 黒いこいひげ。(そり落とさないのは身分証明書がそうなっているから。)
- ネルシャツ・・・身体検査で見つかる。
- 金持ちで、月に二度差し入れの小包を受け取り、しかるべきところへ袖の下をつかっていた。だからノルマ計算係の助手として事務所の中で働くことができた。
<場>作業現場 構内
- 組み立て住宅のパネル材が雪をかぶり
- 建てかけの石造倉庫の基礎工事のあたりに、ハンドルの折れた土堀機械
- あちこちに鉄桶や屑鉄の山
- 掘りかけの溝や壕(ほり)
- いたるところに穴があいていた。
- 自動車修理工場の屋根には支え棒
- 小高いところに二階ができかけてる暖発電の建物
- 望楼には6人の見張り兵
- 事務所の辺りに人が群がっていた。(囚人の束の間の自由のひととき。)
<人>エストニア人・・・ふたり
- そっくり
- いつも一緒にいる。
- 一人は沿岸地方の猟師、もう一人はソビエト政権ができたとき、まだ小さな子供で両親に連れられてスエーデンへ行ったのだというが、成人してから自分の意志で帰国し、エストニアの大学を卒業した。
- シューホフの会ったかぎりではエストニア人に悪いやつはいない。
<人>山犬のフェチュコーフ
- ツェーザリのタバコを狙ってる。(吸いさし。)
- 自由の身であった時分には、3人の子持ちだったが、収容されてからは子供達が離れていき奥さんも再婚してしまった。・・・だからどこからも差し入れがない。
- 煙草の吸殻を拾い集めてきてほぐし、1枚の紙に集めていた。(ブイノフスキイに梅毒がうつると注意される。)
<人>ブイノフスキイ
- 元海軍中佐。
- シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)の下段のベッド。
- チョッキか胸あて・・・身体検査で見つかる。
- ラーゲルに来てまだ3か月。
- 十昼夜の重営倉を命じられる。(監獄へ。)
- 差し入れの小包が届かない。
- もと艦長級なので、命令口調。
<人>センカ・クレフシン
- おとなしい哀れな男。
- 少し耳がとおい。・・・片耳を41年(独ソ開戦の年)にやられていた。
- ドイツに捕虜になったが脱走し、また捕まって、ブッフェンワルド(ナチの強制収容所)へ放り込まれた。
- ブッフェンワルド(ナチの強制収容所)では奇跡的に命拾いした。
- カッとなってはおしまい、といのが口癖。
- 狭いタラップの手すりを取った人。
41年(独ソ開戦の年)
-
独ソ戦(どくソせん、獨蘇戰、英語: German-Soviet War)、または東部戦線(ドイツ語: die Ostfront)
-
第二次世界大戦中の1941年から1945年にかけて、ナチス・ドイツを中心とする枢軸国とソビエト連邦との間で戦われた戦争を指す。
-
大戦の当初はポーランドを共に占領していたナチス・ドイツとソビエト連邦であったが、1941年6月22日に突如ドイツ国防軍がソ連に侵入し、戦争状態となった。
-
当時のソ連は国民を鼓舞するため、ナポレオン・ボナパルトに勝利した祖国戦争に擬えて大祖国戦争(ロシア語: Великая Отечественная война)と呼称。一方、ドイツ側では主に東部戦線と表現される。
<人>アリョーシュカ
- バプテスト信者。
- シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)の上段のベッドの隣人。
- お祈りを呟く。
- 上段ベッドでシューホフと隣同士。
- いつもこざっぱりと身ぎれい。
- 福音書の半分が書き写されている手帳。
- 鉄条網の向こうの朝日を見てほほえむ。
- 日曜日になると、バプテスト信者はみんな集まって、お互いにおしゃべりしている。
- 作業現場でもお祈りをしている。
<人>キルガス
大吹雪(プラーン)
- この地方に特有の大吹雪(プラーン)
- 粉雪。
- 作業中止になる。
- バラックの外へ一歩出るのも危険になる。
- バラックから食堂へいくのも縄伝いでないと遭難する。
- バラックの錠が閉ざされてしまい、石炭もなく寒さに震える。
- ラーゲルへの粉の輸送が止まり、パンがなくなる。
- 大吹雪(プラーン)の吹く期間は休暇扱いになり、その後日曜もなく労働させられる。
- だが囚人たちは大吹雪(プラーン)を待ちこがれている。
近くから大型の撹拌槽(かくはんそう)を暖発電へ運ぶ仕事。
- 二人のエストニア人
- センカ・クレフシン
- ゴプチック
<人>ゴプチック
- 子豚のようにバラ色の肌をしたまだ16歳の小僧。
暖発電現場
- 今日の作業
- 昨年の秋、建てかけて中断したもの。
雪原で機械室の窓を塞ぐ仕事。
- シューホフ
- キルガス
- 二人とも職人。(大工と石工)
<人>ヨハン・キルガス
- ラトビア人
- 赤ら顔の肥ったラトビア人
- 大吹雪(プラーン)がこないと溜息。
- キルガスは大工職人。
- シューホフのことをワーニャ(イワンの愛称)で呼ぶ。お互い相手のことを職人として尊敬していた。
- ラトビア人だが、ロシア語は母国語と同様に話す。・・・村の隣にロシア正教の非改革派の部落があったので、小さいころから覚えた。
- 屋根ぶき用の厚紙を一巻隠していた。
- ラーゲル暮らしはまだ2年だが、よく心得ていた。
- 冗談なしで話をしたことがないので、班の誰からも好かれていた。
- ランゲールじゅうのラトビア人からとても頼りにされていた。
- 差し入れの小包は、月に二度。ランゲールの住人とも思えぬ色艶をしていた。
- キルガスの欠点は煙草を吸わないことだとシューホフは思っている。(小包に煙草がないから。)
<人>シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)
- 第104班
- 決して寝過ごさず、5時の起床の鐘と同時に起きる。(作業に出る前の1時間半を自分の時間としてつかうため。内職かせぎをする。)
- 今朝は体調不良で起きられなかった。(寒気、節々の痛み。)
- Ш,(シチャー)、854番(黒ジャケッツの肩に当たっている白い布に記されている。)
- 8年間のラーゲル暮らし。
- まばらな歯。・・・1943年に死に損ない、歯はその時ウスチ=イジマ(バレンツ海に注ぐベチョーラ河畔)の収容所で抜けてしまった。(病気のせいで)
- 歯抜けのせいで、舌たらずの発音。
- 1941年に女房と別れたきり。
- 髭が伸び放題。10日前に風呂にはいったきり。あと3日もすれば風呂があるだろう。
- ロワチ湖畔の野戦病院の思い出。(顎を負傷。)
- 体温は37度。
- パウロ副班長に配ってもらったパンの半分をベッドのマットレスの小穴を大きくして、つめているノコ屑の中に隠す。隠していた糸と針で縫う。(当番の連中にぬすまれるから。)
- バンドは取り上げられてしまったので、防寒服のうえにジャケッツをまとい縄で縛る。(特殊ラーゲルでは、皮バンドは禁止されていた。)
- 年があけて1951年、シューホフは年2通の手紙を書く権利をもらった。(ウスチ=イジマのランゲールでは別規則で、手紙を出したい奴はいつでもだせる。)
- 1941年6月23日シューホフは家(テムゲニョヴォ村)を出た。
- 家の者も年に2回手紙をよこす。
- あと2年は収容予定。
- 40年の星霜をへて。・・・40歳。
- 賄賂をやったりとったりしたことがない。(ランゲールでもしったことがない。)
- 市民権はく奪の身。
- 腕に覚えがある職人だった。
- 同じ班ではなかったが、アンドレイ・プロコーフィエヴィッチ・チューリン班長をウスチ=イジマにいる頃から知っていた。
- 刑法第五十二条組が、一般ラーゲルのウスチ=イジマからここ徒刑ラーゲルへ追い払われた時、シェーホフはアンドレイ・プロコーフィエヴィッチ・チューリンに拾われ、様々なことから守ってくれた。(信頼している。)
- シューホフは石工職人。
- キルガスの名前もヨハン(ロシア語のイワン)だったので、シューホフもキルガスのことをワーニャと愛称で呼んだ。お互い相手の職人として尊敬していた。
- イワン・デニーソヴィッチはコプチックのことを可愛がっていた。(自分の息子は小さい時に死んでしまい、今家には大きな娘が2人いる。)
ラトビア人
-
ラトビア人(latvieši; Latvians, Letts)
-
現在の総人口は凡そ150万人程である。
-
9世紀のころから民族形成の過程は始まるが、12世紀~13世紀のドイツ人(東方植民)の侵入によってその過程は遅らされ、15世紀~16世紀になってようやく終結した。
- ラトビア共和国(ラトビアきょうわこく、ラトビア語: Latvijas Republika)、通称ラトビアは、北ヨーロッパのバルト海沿岸に位置する共和制国家。
- 1990年にソビエト連邦から独立した。EU、NATO、OECDの加盟国。通貨はユーロ、人口は201.5万人、首都はリガである。
<人>シューホフの顔見知りのビヤトカ(ウラルの一地方)人
- 第82班
- 酷寒(マローズ)でカチカチに凍ってつるはしで歯が立たない氷に穴掘りをさせられている。途方にくれているのでシューホフがアドバイスする。
<人>シクロパテンコ
- 職長(デール)
- 同じ囚人くせに、仲間の者たちを犬より酷くこき使う卑劣漢。
- のっぽ。
- もとはただの囚人だが、今じゃ組立住宅が荒らされないように監視する役目。
<人>山犬のフェチュコーフ
- ツェーザリのタバコを狙ってる。(吸いさし。)
- 自由の身であった時分には、3人の子持ちだったが、収容されてからは子供達が離れていき奥さんも再婚してしまった。・・・だからどこからも差し入れがない。
- 煙草の吸殻を拾い集めてきてほぐし、1枚の紙に集めていた。(ブイノフスキイに梅毒がうつると注意される。)
- 昔はどこかの役所で大したエラ物だったらしい。車を乗り回していた。
- ブイノフスキイ元海軍中佐が来た頃は公然と敵意をむき出していたが、中佐に思い知らされてからはおとなしくなった。
<人>ゴプチック
- 子豚のようにバラ色の肌をしたまだ16歳の小僧。
- 電線用の新品のアルミ線をどこからかかっぱらってきて、イワンにスプーンの作り方を教えてくれとせがんだ。
- イワン・デニーソヴィッチはコプチックのことを可愛がっていた。
- 森の中に隠れていたベンデル派の連中(ウクライナの民族主義グループ)へ牛乳を運んだかどで収容所におくられた。
- 刑期も大人なみ。
- 仔牛のように可愛くて誰にでも人懐こいが抜け目ないところは一人前。
- 差し入れの小包がくると、自分一人じめにして、時には真夜中に食べている。
ゴプチックが見つけていたアルミの電線
- スプーンにする分だけ切断して隅っこにかくした。
- ペーチカの煙突をつるために探し出した。針金がわり。
ペーチカをシェーホフが修理
撹拌槽(かくはんそう)をヨハン・キルガスが修理
<人>パウロ
- 第104班 副班長
- 起床して長靴を履いている。
- 朝、今からパンを受け取りに行く。
- 何か計算していた。
- 西部ウクライナ出身。(しっかりと相手を父称呼びし、丁寧な「あなた」言葉を使う。)➡イワン・デニーソヴィチと呼ぶ。
- 配給のパンと小さな砂糖をシューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)に渡してくれる。(パンの分量)
- アンドレイ・プロコーフィエヴィッチ・チューリン班長に言われて一緒に事務所へ。
- ペーチカのそばでみんながさぼらないよう見張ってる。
<人>アリョーシュカ
- バプテスト信者。
- シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)の上段のベッドの隣人。
- お祈りを呟く。
- 上段ベッドでシューホフと隣同士。
- いつもこざっぱりと身ぎれい。
- 福音書の半分が書き写されている手帳。
- 鉄条網の向こうの朝日を見てほほえむ。
- 日曜日になると、バプテスト信者はみんな集まって、お互いにおしゃべりしている。
- 作業現場でもお祈りをしている。
- ペーチカ用の石炭を運んできた。
・・・「でもな、お布令がでてからは、太陽が一番高くなるのは一時なのさ」
- ソ連では1930年から一年中夏時間を採用している。
ロシア時間
- ロシアは世界で最も多くの標準時を持つ国で、UTC+2からUTC+12の時間帯に11の標準時を持っている。
-
ソ連時代
ソ連時代の大半、現在のロシアにあたる地域には、モスクワ時間(MSK)からアナディリ時間 (MSK+10)までの11の標準時があった(全ソ連でも同じ数になるが)。アナディリ時間は、1982年以降の最東端であるカムチャツカ時間(MSK+9)よりさらに1時間早い。
1930年6月21日、全土の標準時を1時間進める「Декретное время」(政令時間)が実行された。たとえばモスクワ時間は、UTC+2からUTC+3となった。
1981年4月1日、夏時間が(1917年のみ不完全に導入されて以来再度)導入され、同時に「Декретное время」(政令時間)も継続適用された。たとえばモスクワ時間は、通年UTC+3から、冬季はUTC+3・夏季はUTC+4となった。
1982年4月1日、アナディリ時間(MSK+10)がカムチャツカ時間(MSK+9)に統合され、標準時は10になった。
1989年3月26日、サマラ時間(MSK+1)がモスクワ時間(MSK)に統合された。また、カリーニングラード州はモスクワ時間から分かれカリーニングラード時間(MSK-1)となった。
<人>ヨハン・キルガス
- ラトビア人
- 赤ら顔の肥ったラトビア人
- 大吹雪(プラーン)がこないと溜息。
- キルガスは大工職人。
- シューホフのことをワーニャ(イワンの愛称)で呼ぶ。お互い相手のことを職人として尊敬していた。
- ラトビア人だが、ロシア語は母国語と同様に話す。・・・村の隣にロシア正教の非改革派の部落があったので、小さいころから覚えた。
- 屋根ぶき用の厚紙を一巻隠していた。
- ラーゲル暮らしはまだ2年だが、よく心得ていた。
- 冗談なしで話をしたことがないので、班の誰からも好かれていた。
- ランゲールじゅうのラトビア人からとても頼りにされていた。
- 差し入れの小包は、月に二度。ランゲールの住人とも思えぬ色艶をしていた。
- キルガスの欠点は煙草を吸わないことだとシューホフは思っている。(小包に煙草がないから。)
- 25年の刑期。
流刑
- シベリア、中央アジア地方に移住制限されること。
<人>シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)
- 第104班
- 決して寝過ごさず、5時の起床の鐘と同時に起きる。(作業に出る前の1時間半を自分の時間としてつかうため。内職かせぎをする。)
- 今朝は体調不良で起きられなかった。(寒気、節々の痛み。)
- Ш,(シチャー)、854番(黒ジャケッツの肩に当たっている白い布に記されている。)
- 8年間のラーゲル暮らし。
- まばらな歯。・・・1943年に死に損ない、歯はその時ウスチ=イジマ(バレンツ海に注ぐベチョーラ河畔)の収容所で抜けてしまった。(病気のせいで)
- 歯抜けのせいで、舌たらずの発音。
- 1941年に女房と別れたきり。
- 髭が伸び放題。10日前に風呂にはいったきり。あと3日もすれば風呂があるだろう。
- ロワチ湖畔の野戦病院の思い出。(顎を負傷。)
- 体温は37度。
- パウロ副班長に配ってもらったパンの半分をベッドのマットレスの小穴を大きくして、つめているノコ屑の中に隠す。隠していた糸と針で縫う。(当番の連中にぬすまれるから。)
- バンドは取り上げられてしまったので、防寒服のうえにジャケッツをまとい縄で縛る。(特殊ラーゲルでは、皮バンドは禁止されていた。)
- 年があけて1951年、シューホフは年2通の手紙を書く権利をもらった。(ウスチ=イジマのランゲールでは別規則で、手紙を出したい奴はいつでもだせる。)
- 1941年6月23日シューホフは家(テムゲニョヴォ村)を出た。
- 家の者も年に2回手紙をよこす。
- あと2年は収容予定。
- 40年の星霜をへて。・・・40歳。
- 賄賂をやったりとったりしたことがない。(ランゲールでもしったことがない。)
- 市民権はく奪の身。
- 腕に覚えがある職人だった。
- 同じ班ではなかったが、アンドレイ・プロコーフィエヴィッチ・チューリン班長をウスチ=イジマにいる頃から知っていた。
- 刑法第五十二条組が、一般ラーゲルのウスチ=イジマからここ徒刑ラーゲルへ追い払われた時、シェーホフはアンドレイ・プロコーフィエヴィッチ・チューリンに拾われ、様々なことから守ってくれた。(信頼している。)
- シューホフは石工職人。
- キルガスの名前もヨハン(ロシア語のイワン)だったので、シューホフもキルガスのことをワーニャと愛称で呼んだ。お互い相手の職人として尊敬していた。
- イワン・デニーソヴィッチはコプチックのことを可愛がっていた。(自分の息子は小さい時に死んでしまい、今家には大きな娘が2人いる。)
- 書類によると、シューホフの罪は祖国への裏切りということになっている。(そう自白してしまった。)・・・自分は祖国を裏切るために、捕虜となり、ドイツ諜報部の任務を遂行して帰還を許された者である、と。
- ラーゲル暮らし8年のうち、北方のラーゲルで過ごした7年。
<人>センカ・クレフシン
- おとなしい哀れな男。
- 少し耳がとおい。・・・片耳を41年(独ソ開戦の年)にやられていた。
- ドイツに捕虜になったが脱走し、また捕まって、ブッフェンワルド(ナチの強制収容所)へ放り込まれた。
- ブッフェンワルド(ナチの強制収容所)では奇跡的に命拾いした。
- カッとなってはおしまい、といのが口癖。
- 狭いタラップの手すりを取った人。
- 我慢強いたちで、いつも口数が少ない。人の話も聞かなければ、自分からもめったに話の仲間いりしない。だから、彼の経歴も殆ど知られていない。
- ブッフェンワルド(ナチの強制収容所)に放りこまれて、そこの地下組織のメンバーとなり、暴動をおこすために武器を持ち込んだ。その時ドイツ兵に後手にして吊るされ、棍棒でなぐられた。
・・・「殺られたのは人間じゃなくて、密告者(犬)じゃねぇか!」
ラーゲル内部での何か新しい動きが始まろうとしていた。
- 二人の札付きの密告者が起床時に、ベッドの上で斬殺された。
- その後、さらにもう一人、罪もない囚人がやられたが、寝場所を間違えたらしい。
- 密告者の一人は、自分からおエラ方へ申し出て監獄(プール)へ逃げ込み、独房の中でかくまってもらう始末だった。
(時)正午
- 移動発電所の汽笛が鳴り渡った。
- 昼休み。
- もうとうの昔に食堂へいって、行列していなければいけない時間。
- 作業現場には11の班が来てるが、食堂へは一度に二班以上入れない。
<時>今は1月
<場>作業原場の食堂
- 班長が姿を見せないなで、パウロ副班長とシューホフとゴプチックで向かう。
- ちっぽけな堀立小屋
- ただのペーチカのまわりに板をかこい、隙間風を防ぐために、錆びついたブリキ板を打ち付けた代物。
- コックと衛生指導員の二人で管理していた。
<人>作業原場の食堂のコック
- コックは作業原場全体の1プード(約16.4㎏)より少し欠ける量の穀物袋を自分でかつがず、3㎞の道のりを自分のやとった当番(囚人)にかつがせてくる。
- 自分の肩を痛めずに、囚人の分け前をピンはねして、自分で当番を雇った方いいから。
- 水や薪を運んだり、ペーチカをたいたりするのも、コックが自分でするわけでない。(一般囚人が一食分余計にもらえれば喜んでする。)
- 料理するだけ。
食事の時は食堂の外へ出てはいけない決まり。
- 飯皿もラーゲルから持参する。(作業現場に置いておくと、夜中に民間人が持っていってしまうから。)
- 全部で50枚以下をその場で洗って廻す。(飯皿の運搬者にも、一食分おまけがつく。)
- 飯皿を食堂から持ち出されぬように、さらにもう一人、当番が入口で見張っているが、飯皿は持ち出されてしまうので、見廻りをして汚れた皿を集め、炊事場に返却する役目が必要。彼らにも一食分おまけがつく。
<人>作業現場の食堂の衛生指導員
- これっぽちも用がない。
- 粥(カーシャ)ができると、まず第一に衛生指導員へ運んでいく。あとは食べ放題。次にコックが食べ放題。最後に当番班長(一日交替)が、囚人たちに食わせても大丈夫か吟味するといったふうに試食する。この当番班長には二食分ふるまわれる。そのあと汽笛がなり、班長たちが順番に窓口へやってきて、コックから飯皿をうけとる。
<食>昼食
- 燕麦の粥(カーシャ)
- とびきり上等。
- そうめったにない。
- シューホフはコックから粥を多くかすめとった
<人>ツェーザリ・マルコヴィッチ
- 第104班
- 煙草をすっている。(パイプでなく巻たばこ)
- ありとあらゆる民族の血が混じっていた。
- 映画監督だった。
- 第一作も取り終えずにぶちこまれた。
- 黒いこいひげ。(そり落とさないのは身分証明書がそうなっているから。)
- ネルシャツ・・・身体検査で見つかる。
- 金持ちで、月に二度差し入れの小包を受け取り、しかるべきところへ袖の下をつかっていた。だからノルマ計算係の助手として事務所の中で働くことができた。
- 事務所にいるツェーザリは、気位が高くて、作業原場でもラーゲルでも、自分のほうから決して食堂へいかなかった。
<人>ブイノフスキイ
- 元海軍中佐。
- シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)の下段のベッド。
- チョッキか胸あて・・・身体検査で見つかる。
- ラーゲルに来てまだ3か月。
- 十昼夜の重営倉を命じられる。(監獄へ。)
- 差し入れの小包が届かない。
- もと艦長級なので、命令口調。
- 食堂では、尊大なな口をきく海軍士官から尻の思い小心な一囚人に早変わりするのだ。尻の重さだけが、この先25年の監獄暮らしに耐え抜く力をつけてくれる。
- まだラーゲル暮らしが間もないので、生きるすべを学べていない。
- パブロ副班長にかすめとった粥をもらった。
<事務所>
- シューホフは事務所にいるツェーザリ・マルコヴィッチに粥をもっていく。
- 丸太小屋。
- 暖炉に薪を惜しみなく使っている。
- 火の番は伝令の役もつとめている老人の当番。
- ツェーザリ・マルコヴィッチはペーチカのそばで煙草をふかしていた。
- 事務所は二階。
- 奥が現場監督の部屋。
- 現場監督のところで会議。
<人>火の番は伝令の役もつとめている老人の当番
<人>シクロパテンコ
- Б(べー)219番・・・囚人出身
- 長身
- 組立住宅の資材がごまかされないように事務所の窓から見張っている。
<人>会計係が二人
- 囚人出身
- 事務所のペーチカの上でパンを焼いている。
<人>20年組の一人
- X(ハー)123番
- すじばった老人。
『イワン雷帝』
イワン雷帝
-
『イワン雷帝』(イワンらいてい 原題:Иван Грозный)
-
“イワン雷帝”ことイヴァン4世の生涯を描いた作品。全3部構成で制作される予定であったが、第1部は時の権力者ヨシフ・スターリンから高く評価されたものの、第2部はスターリンを暗に批判した内容であったため上映禁止となり、第3部は完成されなかった。第2部のラスト数分がカラー映像になっている。
- あらすじ 第1部(1944年)16世紀半ば、帝位に就いたイワンはロシアを強力な統一国家にすべく邁進するが、それを快く思わない伯母のエフロシニアは、彼の愛する妃アナスタシアを毒殺してしまう。悲嘆にくれたイワンは退位して田舎に引きこもるが、民衆の熱い要請を受けて、再び帝位に返り咲く。第2部(1946年)民衆の熱い要請を受けて再び帝位に返り咲いたイワンであったが、宮廷内では依然としてエフロシニアを中心とする反イワン派の抵抗を受けていた。イワンはこの状況を打開すべく大粛清を決行する。
- エイゼンシュテインは1928年にモスクワで行なわれた2代目市川左團次の歌舞伎初の海外公演を観劇し、大いに感銘を受けた。その影響から、第1部ではクローズアップ・ショットで主人公に見得を切らせるという、歌舞伎的な様式の演出を用いている。
<人>ツェーザリ・マルコヴィッチ
- 第104班
- 煙草をすっている。(パイプでなく巻たばこ)
- ありとあらゆる民族の血が混じっていた。
- 映画監督だった。
- 第一作も取り終えずにぶちこまれた。
- 黒いこいひげ。(そり落とさないのは身分証明書がそうなっているから。)
- ネルシャツ・・・身体検査で見つかる。
- 金持ちで、月に二度差し入れの小包を受け取り、しかるべきところへ袖の下をつかっていた。だからノルマ計算係の助手として事務所の中で働くことができた。
- 事務所にいるツェーザリは、気位が高くて、作業原場でもラーゲルでも、自分のほうから決して食堂へいかなかった。
- 事務所で『イワン雷帝』の映画の話をしていた。
ロシア・インテリゲンツィア
インテリゲンツィア
- 19世紀ロシアでの青年知識人層
- 19世紀のロシアで、ツァーリズムに対する批判が強まる中、貴族や豊かな階層の出身者の「知識人」で、西欧社会の進歩思想や、社会主義思想に共鳴し、ロシアの後進性を克服し、社会改革を行う必要を説く人々が現れた。1830年のゲルツェンやベリンスキーなどが先駆的な人物である。ツルゲーネフの『父と子』などの作品はインテリゲンツィアの苦悩を描いている。
- 19世紀後半になると、彼らはツァーリ政府の弾圧を受けて政治活動の限界を感じるようになり、アナーキズムの影響も受けて、人民の中にはいって運動を進めるべきであるというナロードニキの主張を持つようになる。しかし、ミールというロシアの伝統的農村共同体は強固な保守思想を持ち、彼らを受容しなかったため、次第に行き詰まる。『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』などでよく知られるようになるドストエフスキーは一時その運動に加わり、流刑となっている。
- ロシア語で知識人階級を意味した言葉
歴史的には特に,1860年代からロシア社会の後進性の克服をめざして,政府の弾圧にもかかわらず言論活動を展開した知識人階級をさして用いる。後進性克服の思想と方法をめぐり,西欧派とスラヴ派,さらにナロードニキ・アナーキスト・ニヒリスト・マルクス主義派などに分かれた。
・・・班長のパーセンテージがうまくいったのさ。
- 『うまくいったのさ。』とは、この先5日間、配給が割増しになるという意味。
- ラーゲルでは5日に一度おエラ方がピンはねをすため、正味は5日ではなく4日間。
<人>アンドレイ・プロコーフィエヴィッチ・チューリン
- 第104班 班長
- 起床して長靴を履いている。
- 朝、本部の生産計画部(ペー・ペー・チエー)へ出かけ命令受領にいく。
- 今日は、新しい苛酷な《社生団》(社会主義生活団地の略)の現場へ第104班を移されないように、話をつけにいく。(ベーコン半キロを賄賂に作業主任にもっていく、それでもだめなら1キロ。)
- ラーゲル生活19年の男。
- 肩幅ががっちりとした体格で大柄。
- 冗談を言って班員を笑わせたりはしないが、食事の面倒はよく見てくれる。
- 二度目の刑期で、中央ラーゲル局出身なので、ラーゲルのことなら何でも知っている。
- シェーホフは同じ班ではなかったが、彼のことをウスチ=イジマにいる頃から知っていた。
- 刑法第五十二条組が、一般ラーゲルのウスチ=イジマからここ徒刑ラーゲルへ追い払われた時、シェーホフはアンドレイ・プロコーフィエヴィッチ・チューリンに拾われ、様々なことから守ってくれた。
- 天然痘のため大きなあばただらけ。
- 無駄口をたたかない人。
- 帽子をぬいで食事するタイプ。
- 白髪まじりの頭。
- 父親はカーメニの富農(クラーク)。逃げ出して赤軍兵になったが連隊長に追い出された。(22歳で家出して2年め頃。)
- 1938年(前年1937年とともに大粛清のあった年。)にコトラス(北方アルハンゲリスク州の町)のラーゲルで昔の小隊長(10年刑期)に会い、彼を追い出した連隊長も政治委員(コミサール)も、1937年銃殺されたと聞いた。
- 赤軍を追い出された後、レニングラードの女学生が隠してくれてウラジオストック~モスクワ間の汽車でノヴォシビルスク(西部シベリアの都市)まで無賃乗車した話が面白い。その後6人いた娘の一人に、ペチョーラ河(北方アルハンゲリスク州の河)のそばで恩返しした。(1935年のキーロフ事件の大量検挙でやられて、重労働ですっかりやつれていたのを裁縫工場へまわしてあげた。)・・・夜家に帰えったがその晩すぐ小さい弟を一人連れて暖かい地方のフルイゼ(中央アジアの都市)へ着き、弟を浮浪人に売った。
赤軍兵
-
ソビエト連邦軍の前身に当たる。
-
1917年より勃発したロシア内戦の最中に労働者・農民赤軍(ろうどうしゃ・のうみんせきぐん、Рабоче-крестьянская Красная армия ラボーチェ・クリスチヤーンスカヤ・クラースナヤ・アールミヤ、略称:労農赤軍、РККА エールカーカーアー)として設立され、1937年にソ連海軍が赤軍から独立した後は、ソ連地上軍(陸軍)を指す呼称となった。
- 第二次世界大戦の独ソ戦(大祖国戦争)開戦時、赤軍は約570万人であったが、祖国防衛のために、ソ連共産党一党独裁政治の下でヨシフ・スターリン率いるソ連政府は大動員を実施し、第二次世界大戦中は後方の部隊も合わせると1500万から2000万人という空前絶後の大兵力に膨れ上がっている。その内、700万から1000万人が死亡した。第二次世界大戦後は、約500万人に減少し、冷戦の終結時には、300万人になっていた。
労働者・農民赤軍 Красная армия |
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赤軍の軍旗
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創設 | 1918年1月28日 - 1946年2月25日 |
大粛清
- 大粛清(だいしゅくせい、露: Большой террор)
- ソビエト連邦(ソ連)の最高指導者ヨシフ・スターリンが1930年代にソビエト連邦および衛星国のモンゴル人民共和国等で実行した大規模な政治弾圧を指す。
-
ソビエト連邦共産党内における幹部政治家の粛清に留まらず、一般党員や民衆にまで及んだ大規模な政治的抑圧として世界でも悪名高い出来事である。
ロシア連邦国立文書館にある統計資料によれば、最盛期であった1937年から1938年までに、134万4,923人が即決裁判で有罪に処され、半数強の68万1,692人が死刑判決を受け、63万4,820人が強制収容所や刑務所へ送られた。
ただし、この人数は反革命罪で裁かれた者に限る。ソ連共産党は大きな打撃を受け、旧指導層はごく一部を除いて絶滅させられた。特に地方の地区委員会、州委員会、共和国委員会が丸ごと消滅したケースもある。
1934年の第17回党大会の1,966人の代議員中、1,108人が逮捕され、その大半が銃殺刑となった。1934年の中央委員会メンバー(候補含む)139人のうち、110人が処刑されるか、あるいは自殺に追い込まれた。1940年にトロツキーがメキシコで殺害された後は、レーニン時代の高級指導部で生存しているのは、スターリンを除けばカリーニンだけだった。また、大粛清以前の最後の党大会(1934年)の代議員中、次の大会(1939年)にも出席できた者はわずか3%に過ぎなかった。1939年の党の正式メンバーのうち、70 %は1929年以降の入党――つまりスターリン期の入党――であり、1917年以前からの党員は3%に過ぎなかった。党の討論機関たる大会と中央委員会は――終には政治局さえも――1939年以後、スターリンが1953年3月5日に死去するまでめったに開会されなくなった。
党指導者を目指してスターリンに対抗していた者は全て公開裁判(モスクワ裁判)で嘲笑の対象にされ、死刑の宣告を受けた。ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン、トムスキー、ルイコフ、ピャタコフ、ラデックは非共産圏のイギリス、ドイツ、フランス、アメリカ、ポーランド、日本のスパイもしくは反政府主義者、あるいは破壊活動家という理由で、さらし者にされた上で殺された。
赤軍も5人の元帥の内3人、国防担当の人民委員代理11人全員、最高軍事会議のメンバー80人の内75人、軍管区司令官全員、陸軍司令官15人の内13人、軍団司令官85人の内57人、師団司令官195人の内110人、准将クラスの将校の半数、全将校の四分の一ないし二分の一が「粛清」され、大佐クラス以上の将校に対する「粛清」は十中八九が銃殺である。
ソビエト国内にいた外国人の共産党員も被害者であった。1939年冬には600人のドイツ人が内務人民委員部(NKVD)の手でゲシュタポに引き渡された。1919年のハンガリー革命の主導者クン・ベーラおよび1919年の革命政府人民委員12人が逮捕され処刑された。イタリア人共産党員200人、ユーゴスラヴィア人100人あまり、ポーランド共産党の指導者全員、そしてソビエトに逃亡していた5万人ほどのポーランド人の内、わずかな例外を除く全員が銃殺された。コミンテルンは1942年に正式に解体された。しかし、そのスタッフと幹部は、ロシア人であるかによらず、ほぼ全員が1939年の夏までに粛清された。
なお、モスクワ裁判などのような政界、軍部の大物を除いては、処刑されたという事実さえ犠牲者の家族には伝えられなかったことが多く、家族には「通信の権利のない10年の懲役刑」「獄中で病死」などの虚偽の通達がなされることが多かった。中には、死亡時の詳細が現在も明らかになっていないものも多い。
犠牲者の遺体はいずれも集団墓地へ投げ込まれた上に木を植えて証拠隠滅されており、ソ連崩壊前後に機密解除によりコムナルカ射撃場やブトヴォ射撃場などが特定された(en:Mass graves from Soviet mass executionsを参照)。現在ではこれらの集団墓地はロシア正教会の管理下に置かれ、慰霊碑が建立されている。ホロコーストとは異なり、犠牲者の処刑記録の多くにはこれら「埋葬場所」も記録されていた。
ロシア アルハンゲリスク州
- アルハンゲリスク州(アルハンゲリスクしゅう、Архангельская область)
- ロシア連邦北西部の北西連邦管区に属する州(オーブラスチ)。
- 州都はアルハンゲリスク。ネネツ自治管区、ならびにノヴァヤゼムリャとゼムリャフランツァヨシファを含む。
<人>エストニア人・・・ふたり
- そっくり
- いつも一緒にいる。
- 一人は沿岸地方の猟師、もう一人はソビエト政権ができたとき、まだ小さな子供で両親に連れられてスエーデンへ行ったのだというが、成人してから自分の意志で帰国し、エストニアの大学を卒業した。
- シューホフの会ったかぎりではエストニア人に悪いやつはいない。
<人>エイノ
<人>もう一人のエストニア人
キーロフ事件
ラーゲルの班
<人>ヨハン・キルガス
- ラトビア人
- 赤ら顔の肥ったラトビア人
- 大吹雪(プラーン)がこないと溜息。
- キルガスは大工職人。
- シューホフのことをワーニャ(イワンの愛称)で呼ぶ。お互い相手のことを職人として尊敬していた。
- ラトビア人だが、ロシア語は母国語と同様に話す。・・・村の隣にロシア正教の非改革派の部落があったので、小さいころから覚えた。
- 屋根ぶき用の厚紙を一巻隠していた。
- ラーゲル暮らしはまだ2年だが、よく心得ていた。
- 冗談なしで話をしたことがないので、班の誰からも好かれていた。
- ランゲールじゅうのラトビア人からとても頼りにされていた。
- 差し入れの小包は、月に二度。ランゲールの住人とも思えぬ色艶をしていた。
- キルガスの欠点は煙草を吸わないことだとシューホフは思っている。(小包に煙草がないから。)
- 25年の刑期。
- 禿げ頭
- 差し入れの小包で暮らしている。(裕福なので、配給のことなど気にしない。)
<人>パウロ
- 第104班 副班長
- 起床して長靴を履いている。
- 朝、今からパンを受け取りに行く。
- 何か計算していた。
- 西部ウクライナ出身。(しっかりと相手を父称呼びし、丁寧な「あなた」言葉を使う。)➡イワン・デニーソヴィチと呼ぶ。
- 配給のパンと小さな砂糖をシューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)に渡してくれる。(パンの分量)
- アンドレイ・プロコーフィエヴィッチ・チューリン班長に言われて一緒に事務所へ。
- ペーチカのそばでみんながさぼらないよう見張ってる。
- 若々しい元気一杯の若者で、まだラーゲルの色にも染まらず、ウクライナのガルーシキ(団子の一種)で丸々太った好青年。
- 森に隠れて狙撃をしたり、敵地区に夜襲をかけたこともある人。
ガルーシキ(団子の一種)
- 写真を見たところ団子というよりラビオリや餃子ににているかも。
・・・一番でかいシャベルはどれだい?」・・・
- ショベルでもスコップでもなくシャベルと訳されているので、訳者の木村浩さんは関西方面の生まれだと思ったけれど、東京生まれとと本の表紙カバーの折り返しに紹介されていました。
シャベル、スコップ
- シャベル(英語: shovel, 英語発音: /ˈʃʌvəl/)またはショベル
- 土砂、石炭、砂利、雪などの粗い粉状の素材を持ち上げて移動させるための道具であり、柄と柄の先端に取り付けられたスプーン状の幅広の刃からなる。
- 漢字では円匙と書き、「えんし」または「えんぴ(本来は誤読だが旧日本軍・自衛隊を中心に呼称される)」と読む。
- 方言でシャボロと呼ぶ地方もある。
- スコップ(オランダ語: schop, [ˈsxoːp] スホープ)は本来同義語であるが、使い分けている場合が多い。
- 同様の目的を持つ大型の土木機械(油圧ショベル)もシャベルと呼ばれる。
-
日本のJISでは足をかける部分があるものをショベル(シャベルではなくショベルと定義されている)、無い物をスコップと記されている。西日本地域では、足をかける部分があるものをシャベル、無い小型の物をスコップと呼び、このJISに概ね沿った呼び名で広く使われている。しかし、東日本地域では、人力で掘るために足をかける部分のあるものをスコップと言い、JISや西日本地域の呼び方と入れ替わっている。それらの代表的なものが剣先スコップ・角スコップである。
また、大型の物をショベル、小型の物をスコップと区別する場合もある。一般には大きさによってシャベルとスコップを使い分けており、西日本では大型のものをシャベル、小型のものをスコップと呼ぶ。逆に、おもに東日本では大型のものをスコップ、小型のものをシャベルと呼ぶ人が多い。
モルタルが凍る
<人>センカ・クレフシン
- おとなしい哀れな男。
- 少し耳がとおい。・・・片耳を41年(独ソ開戦の年)にやられていた。
- ドイツに捕虜になったが脱走し、また捕まって、ブッフェンワルド(ナチの強制収容所)へ放り込まれた。
- ブッフェンワルド(ナチの強制収容所)では奇跡的に命拾いした。
- カッとなってはおしまい、といのが口癖。
- 狭いタラップの手すりを取った人。
- 我慢強いたちで、いつも口数が少ない。人の話も聞かなければ、自分からもめったに話の仲間いりしない。だから、彼の経歴も殆ど知られていない。
- ブッフェンワルド(ナチの強制収容所)に放りこまれて、そこの地下組織のメンバーとなり、暴動をおこすために武器を持ち込んだ。その時ドイツ兵に後手にして吊るされ、棍棒でなぐられた。
- 足のサイズが46もある大足なので、官給品のフェルトの長靴ではどれでもきついので、体や足が仕事で温まってきても一人両足をバタバタ打ち合わせている。
モルタル運び
<人>ブイノフスキイ
- 元海軍中佐。
- シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)の下段のベッド。
- チョッキか胸あて・・・身体検査で見つかる。
- ラーゲルに来てまだ3か月。
- 十昼夜の重営倉を命じられる。(監獄へ。)
- 差し入れの小包が届かない。
- もと艦長級なので、命令口調。
- 食堂では、尊大なな口をきく海軍士官から尻の思い小心な一囚人に早変わりするのだ。尻の重さだけが、この先25年の監獄暮らしに耐え抜く力をつけてくれる。
- まだラーゲル暮らしが間もないので、生きるすべを学べていない。
- パブロ副班長にかすめとった粥をもらった。
- 中佐はモルタルを運んでくるたび機敏になった。
- 40歳になるかならぬかの歳。
<人>山犬のフェチュコーフ
- ツェーザリのタバコを狙ってる。(吸いさし。)
- 自由の身であった時分には、3人の子持ちだったが、収容されてからは子供達が離れていき奥さんも再婚してしまった。・・・だからどこからも差し入れがない。
- 煙草の吸殻を拾い集めてきてほぐし、1枚の紙に集めていた。(ブイノフスキイに梅毒がうつると注意される。)
- 昔はどこかの役所で大したエラ物だったらしい。車を乗り回していた。
- ブイノフスキイ元海軍中佐が来た頃は公然と敵意をむき出していたが、中佐に思い知らされてからはおとなしくなった。
- ブイノフスキイ中佐とは逆に、モルタル運びがのろのろさぼりはじめ、軽くしようとモッコをかしげて、モルタルをこぼしていく。・・・班長に配置がえされる。
<人>アリョーシュカ
- バプテスト信者。
- シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)の上段のベッドの隣人。
- お祈りを呟く。
- 上段ベッドでシューホフと隣同士。
- いつもこざっぱりと身ぎれい。
- 福音書の半分が書き写されている手帳。
- 鉄条網の向こうの朝日を見てほほえむ。
- 日曜日になると、バプテスト信者はみんな集まって、お互いにおしゃべりしている。
- 作業現場でもお祈りをしている。
- ペーチカ用の石炭を運んできた。
- おとなしいので相手は誰でも命令口調になる。
- 班長に配置替えされた山犬のフェチュコーフの代わりに、ブイノフスキイ中佐と組んでモルタルをシューホフのもとへ運ぶ。
- おとなしく働く人間は班の宝。
- なにを頼んでも、嫌と言ったためしがない。
昇降機の修理
- 修理工と電気工事係と現場監督がやってきた。
- 修理は無理といって帰っていった。
<人>デール
- 建設係
- おエラ方の一人。
- モスクワっ子。
- ある省に勤めていたという話。
- 石工の後ろに立って監督するつもり。
- 技師きどりだが、技術がない。(シューホフもキルガスも嫌っている。)
- 一度つまずきながらタラップを上ってきてチューリン班長を呼んでいる。
- ラーゲルのジャケッツを着ているが新品でこざっぱりしていた。帽子は皮製のすばらしい品だが、一般囚人と同様に番号がついていた。
- Б(べー)731番
- 窓にはった屋根紙のことをチューリン班長に怒っていたが、チューリン班長と班の仲間に反対に脅され、傲慢さをうしない窓の壁紙のことは不問に付す様子。
シューホフのデムゲニョヴォ村の思い出
- 石造の家はなく、農家は木造ばかり。
- 小学校も、保護林から切り出した6サージェン(約12.5m)もある丸太で建てられたもの。
- ラーゲルで石工が必要になったので、シューホフも石工になったにすぎない。
<人>アンドレイ・プロコーフィエヴィッチ・チューリン
- 第104班 班長
- 起床して長靴を履いている。
- 朝、本部の生産計画部(ペー・ペー・チエー)へ出かけ命令受領にいく。
- 今日は、新しい苛酷な《社生団》(社会主義生活団地の略)の現場へ第104班を移されないように、話をつけにいく。(ベーコン半キロを賄賂に作業主任にもっていく、それでもだめなら1キロ。)
- ラーゲル生活19年の男。
- 肩幅ががっちりとした体格で大柄。
- 冗談を言って班員を笑わせたりはしないが、食事の面倒はよく見てくれる。
- 二度目の刑期で、中央ラーゲル局出身なので、ラーゲルのことなら何でも知っている。
- シェーホフは同じ班ではなかったが、彼のことをウスチ=イジマにいる頃から知っていた。
- 刑法第五十二条組が、一般ラーゲルのウスチ=イジマからここ徒刑ラーゲルへ追い払われた時、シェーホフはアンドレイ・プロコーフィエヴィッチ・チューリンに拾われ、様々なことから守ってくれた。
- 天然痘のため大きなあばただらけ。
- 無駄口をたたかない人。
- 帽子をぬいで食事するタイプ。
- 白髪まじりの頭。
- 父親はカーメニの富農(クラーク)。逃げ出して赤軍兵になったが連隊長に追い出された。(22歳で家出して2年め頃。)
- 1938年(前年1937年とともに大粛清のあった年。)にコトラス(北方アルハンゲリスク州の町)のラーゲルで昔の小隊長(10年刑期)に会い、彼を追い出した連隊長も政治委員(コミサール)も、1937年銃殺されたと聞いた。
- 赤軍を追い出された後、レニングラードの女学生が隠してくれてウラジオストック~モスクワ間の汽車でノヴォシビルスク(西部シベリアの都市)まで無賃乗車した話が面白い。その後6人いた娘の一人に、ペチョーラ河(北方アルハンゲリスク州の河)のそばで恩返しした。(1935年のキーロフ事件の大量検挙でやられて、重労働ですっかりやつれていたのを裁縫工場へまわしてあげた。)・・・夜家に帰えったがその晩すぐ小さい弟を一人連れて暖かい地方のフルイゼ(中央アジアの都市)へ着き、弟を浮浪人に売った。
- 暖発電現場の窓にシューホフとキルガスが機転をきかせてはった屋根紙のことを建設係のデールに刑事犯だから刑期延長ものだと怒鳴られる。
- 北方のラーゲルで刑期を延長されている。(2度)
- 建設係のデールに脅す。(班の仲間たちも応戦。)
・・・いや、森の精(レーシィ)そっくりの、頑丈な体つきだ。←センカのこと。
森の精(レーシィ)
-
スラヴ神話に伝えられる、世界各地の森に住んでいる精霊の一種である。 人間にとって有害なものから、ささいなイタズラをするだけの者など様々である。
-
真っ白な頭髪と長い髭を持ち、足まで届く頭髪と髭で体が隠れている。 森の中では樹木と同じように大きくなり、森の外では木の葉に隠れられるほど小さくなるともいわれる。
-
深く生い茂った森の中を歩いているとき、誰かの視線を感じたり後をつけられている感じがすれば、それがレーシーである可能性がある。 姿を見ようとして振り向いても彼らの方が素早いので姿を見ることはできない。
-
森に入って来た旅人の方向感覚を狂わせ森の奥へ誘い込もうとすることがあるが、靴を左右逆に履いて服も後ろ前に着ればレーシーは混乱し、彼らの魔法は簡単に解けてしまう。
- スラヴ神話(スラヴしんわ、Slavic mythology)
- 9世紀頃までにスラヴ民族の間で伝えられた神話のことである
-
スラヴ民族は文字を持たなかったため、伝えられた神話を民族独自に記録した資料は存在しない。スラヴ神話が存在した事を記す資料として、9世紀から12世紀の間に行われたキリスト教改宗弾圧の際の「キリスト教」の立場から記された断片的な異教信仰を示す内容の記述が残るのみである。
スラヴ神話は地方により様々なバリエーションがあったことが近年の研究により明らかになっている。
残業
<場>詰所
- ひとだかりができてきた。
- 護送兵の点呼がはじまる。(門を出ていくときは、二度勘定することになっている。)門をしめたまま一度、開けた門を出ていくところを勘定する。少しでも変と思えば、門を出たところでもう一度勘定する仕組み。
<人>シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)
- 第104班
- 決して寝過ごさず、5時の起床の鐘と同時に起きる。(作業に出る前の1時間半を自分の時間としてつかうため。内職かせぎをする。)
- 今朝は体調不良で起きられなかった。(寒気、節々の痛み。)
- Ш,(シチャー)、854番(黒ジャケッツの肩に当たっている白い布に記されている。)
- 8年間のラーゲル暮らし。
- まばらな歯。・・・1943年に死に損ない、歯はその時ウスチ=イジマ(バレンツ海に注ぐベチョーラ河畔)の収容所で抜けてしまった。(病気のせいで)
- 歯抜けのせいで、舌たらずの発音。
- 1941年に女房と別れたきり。
- 髭が伸び放題。10日前に風呂にはいったきり。あと3日もすれば風呂があるだろう。
- ロワチ湖畔の野戦病院の思い出。(顎を負傷。)
- 体温は37度。
- パウロ副班長に配ってもらったパンの半分をベッドのマットレスの小穴を大きくして、つめているノコ屑の中に隠す。隠していた糸と針で縫う。(当番の連中にぬすまれるから。)
- バンドは取り上げられてしまったので、防寒服のうえにジャケッツをまとい縄で縛る。(特殊ラーゲルでは、皮バンドは禁止されていた。)
- 年があけて1951年、シューホフは年2通の手紙を書く権利をもらった。(ウスチ=イジマのランゲールでは別規則で、手紙を出したい奴はいつでもだせる。)
- 1941年6月23日シューホフは家(テムゲニョヴォ村)を出た。
- 家の者も年に2回手紙をよこす。
- あと2年は収容予定。
- 40年の星霜をへて。・・・40歳。
- 賄賂をやったりとったりしたことがない。(ランゲールでもしったことがない。)
- 市民権はく奪の身。
- 腕に覚えがある職人だった。
- 同じ班ではなかったが、アンドレイ・プロコーフィエヴィッチ・チューリン班長をウスチ=イジマにいる頃から知っていた。
- 刑法第五十二条組が、一般ラーゲルのウスチ=イジマからここ徒刑ラーゲルへ追い払われた時、シェーホフはアンドレイ・プロコーフィエヴィッチ・チューリンに拾われ、様々なことから守ってくれた。(信頼している。)
- シューホフは石工職人。
- キルガスの名前もヨハン(ロシア語のイワン)だったので、シューホフもキルガスのことをワーニャと愛称で呼んだ。お互い相手の職人として尊敬していた。
- イワン・デニーソヴィッチはコプチックのことを可愛がっていた。(自分の息子は小さい時に死んでしまい、今家には大きな娘が2人いる。)
- 書類によると、シューホフの罪は祖国への裏切りということになっている。(そう自白してしまった。)・・・自分は祖国を裏切るために、捕虜となり、ドイツ諜報部の任務を遂行して帰還を許された者である、と。
- ラーゲル暮らし8年のうち、北方のラーゲルで過ごした7年。
- 馬鹿正直な性格。8年のラーゲル暮らしでもこの性格はなおならなかった。モルタルとブロック積を最後まで丁寧にする。護送兵に犬をけしかけられても仕事の出来栄えを一目眺めずにはいられなかった。
- ブロック積みが終わったあと、センカ・クレフシンはすぐに飛び出したが、シューホフは心配するセンカに手をふって、自分はモルタル室に取って返しコテを隠しにいく。・・・センカは待っていてくれた。
- 話し方が舌足らず。
- 詰所で護送兵の点呼を待っている間に、赤味を帯びた月がかけているのを見たシューホフが、古くなった月はどこへいくかとブイノフスキイ中佐に聞くのが面白い。
<人>センカ・クレフシン
- おとなしい哀れな男。
- 少し耳がとおい。・・・片耳を41年(独ソ開戦の年)にやられていた。
- ドイツに捕虜になったが脱走し、また捕まって、ブッフェンワルド(ナチの強制収容所)へ放り込まれた。
- ブッフェンワルド(ナチの強制収容所)では奇跡的に命拾いした。
- カッとなってはおしまい、といのが口癖。
- 狭いタラップの手すりを取った人。
- 我慢強いたちで、いつも口数が少ない。人の話も聞かなければ、自分からもめったに話の仲間いりしない。だから、彼の経歴も殆ど知られていない。
- ブッフェンワルド(ナチの強制収容所)に放りこまれて、そこの地下組織のメンバーとなり、暴動をおこすために武器を持ち込んだ。その時ドイツ兵に後手にして吊るされ、棍棒でなぐられた。
- 足のサイズが46もある大足なので、官給品のフェルトの長靴ではどれでもきついので、体や足が仕事で温まってきても一人両足をバタバタ打ち合わせている。
- 森の精(レーシィ)そっくりの、頑丈な体つき。
- 残業後、護送兵の点呼ぎりぎりなのにシューホフのことを待っていてくれた。
- 大男。頭一つ半だけシューホフより大きい。頭も大きい。
- 点呼に遅刻してきたことへの一般の連中の罵声がすごかったので、いつも黙りこくっているのに物凄い大声で怒鳴りかえしたセンカにみんな黙ってしまった。
<場>詰所
- ひとだかりができてきた。
- 護送兵の点呼がはじまる。(門を出ていくときは、二度勘定することになっている。)門をしめたまま一度、開けた門を出ていくところを勘定する。少しでも変と思えば、門を出たところでもう一度勘定する仕組み。
- 人数が足りない。462/463人。五列縦隊で勘定していく。
- 班ごとに整列させられる。空手のものが多かった。
現場から帰る時の薪運び
- 作業終了前に囚人たちは木っ端や棒切れや屑板などを拾い集めて、ボロ切れや荒縄でしばり、持ち帰ろうとする。
- 第一に関所は、詰所のそばに現場監督か職長の誰かが立っているかどうか。立っていれば、みんな捨てていけと命令される。
- たとえ各班がほんの小さな棒切れでも持って帰れば、バラックはぐっと暖かくなる。(バラック一つに当たりに1日5㎏の屑炭しか配給されない。)みんな隠して小さな屑を持って帰る。現場監督もそれくらいなら見逃してしまうから。
- 護送兵の方は、作業現場にいる限り、決して薪を棄てろとは命令しない。護送兵も薪は欲しいが自分でははこんでいけない。これは軍服の手前というよりか、いつでも囚人を撃てるように両手で自動小銃を構えているから。
- ラーゲルの近くへきてから、護送兵は、「この列からこの列まで薪を置け」と命令し、ちゃんとラーゲルの看守の分も、囚人の分も残す。
<人>ツェーザリ・マルコヴィッチ
- 第104班
- 煙草をすっている。(パイプでなく巻たばこ)
- ありとあらゆる民族の血が混じっていた。
- 映画監督だった。
- 第一作も取り終えずにぶちこまれた。
- 黒いこいひげ。(そり落とさないのは身分証明書がそうなっているから。)
- ネルシャツ・・・身体検査で見つかる。
- 金持ちで、月に二度差し入れの小包を受け取り、しかるべきところへ袖の下をつかっていた。だからノルマ計算係の助手として事務所の中で働くことができた。
- 事務所にいるツェーザリは、気位が高くて、作業原場でもラーゲルでも、自分のほうから決して食堂へいかなかった。
- 事務所で『イワン雷帝』の映画の話をしていた。
- ぬくぬく暖まって、パイプを吸いながら事務所から出てくる。
- ブイノフスキイ中佐としかつきあっていない。あとの誰とも腹を割って話さない。
<場>詰所
- ひとだかりができてきた。
- 護送兵の点呼がはじまる。(門を出ていくときは、二度勘定することになっている。)門をしめたまま一度、開けた門を出ていくところを勘定する。少しでも変と思えば、門を出たところでもう一度勘定する仕組み。
- 人数が足りない。462/463人。五列縦隊で勘定していく。
- 班ごとに整列させられる。空手のものが多かった。
- 104班は全員いた。
- 一名足りないのは、32班。(自動車修理工場へ探しにいく。)
- いないのは色の黒い小柄なモルダビア人。
モルダビア
-
モルダヴィア、モルダビア(Moldavia、ウクライナ語: Молдавія、ロシア語: Молдавия)もしくはモルドヴァ、モルドバ(ルーマニア語: Moldova、モルダヴィア語: Молдова)、モルダウ(ドイツ語: Moldau)
-
東ヨーロッパの一角を占める地域の名称である。ルーマニアの東北部、すなわちカルパティア山脈の東、プルート川の西で両者に挟まれた地域にあたり、時にはルーマニア領を越えてプルート川の東にあるドニエプル川を西限とするベッサラビア地方を含めた、さらに広い地域を指す。
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中世に建国されて現ルーマニア領モルダヴィアとベッサラビアを支配したルーマニア人の国家であるモルダヴィア公国の領有した地域であり、21世紀においてはルーマニア領、モルドバ共和国領、ウクライナ領の3か国に分割されている。
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モルドバ(モルドヴァ)共和国の国名となっている「モルドヴァ」とは、「モルダヴィア」のルーマニア語・モルドバ語における呼称である。モルドバ共和国がソビエト連邦(以下「ソ連」)の構成共和国であった時代は、ロシア語に基づく「モルダビア・ソビエト社会主義共和国」を正式国名としていた。
-
スラヴ人、ハンガリー人、タタール人など様々な民族の支配を経て、ルーマニア人がこの地域にモルダヴィア公国(羅:Boğdan Prensliği、露:Молдавское княжество)を成立したのは14世紀の中頃であった。一般には、ルーマニア人の公(ヴォエヴォド)ボグダン1世がハンガリー軍を破った1359年がモルダヴィア公国の建国年と考えられている。
歴代のモルダヴィア公は有力な貴族の間の抗争に悩まされながらも15世紀の間に勢力を拡大し、北上してきたオスマン帝国の勢力と戦ったが、16世紀初頭にその宗主権を認めてオスマン帝国の従属国になった。オスマン帝国の支配下でモルダヴィア公国は自治を認められ、大貴族によって選挙された公がオスマン政府の公認のもとで統治を行い、ルーマニア人貴族の勢力は残された。
18世紀に入ると、オスマン帝国と戦端を開く実力を蓄えたロシア帝国は、同じ正教徒の国であるモルダヴィアに対して正教徒の保護を名目に領有権を主張し始め、ピョートル1世は1711年にオスマン帝国に宣戦布告してモルダヴィアを一時占領した(この時オスマン帝国は、大北方戦争に参戦していた)。このときモルダヴィア公ディミトリエ・カンテミールがロシアに抵抗せず降伏したことに脅威を感じたオスマン帝国は、1711年プルート川においてロシア軍を撃退し(プルート川の戦い)、モルダヴィアを奪い返した(プルト条約)。これ以降モルダヴィア公をオスマン中央政府に仕えるギリシャ人官僚(ファナリオティス)から選んで任命するようになり、1822年までファナリオティス支配が続く。その後も続くオスマン帝国の衰退の結果、モルダヴィア公国北部のブコヴィナ地方はオーストリア帝国に、北東部のベッサラビア地方は1812年ロシアに割譲された。
ベッサラビアの帰属は変転が多く、1918年にモルダヴィア民主共和国として一度独立した後、当時の周辺強国の影響や脅威を免れる意味合いも兼ね、ルーマニア王国と統合されたが1940年にソビエト連邦に占領され、翌1941年にルーマニアによって回復された。1944年にはソ連に再占領され、ソ連の一部としてモルダビア・ソビエト社会主義共和国となった。1980年代後半に起きたペレストロイカの影響からソ連の統制力が徐々に緩められて行き、そこからソ連内の構成国家が独立して行ったことを機に、同国は1991年に独立を宣言してモルドバ共和国となる。
1774年にロシアとオスマン帝国の間で結ばれたキュチュク・カイナルジャ条約の結果、モルダヴィアに対する宗主国オスマン帝国の支配力は弱まり、ロシアが影響力を強めた。19世紀前半には実質的なロシアの保護下のもとで、モルダヴィアは同じくロシア保護下に入ったルーマニア人の国ワラキアと緊密な関係を結ぶこととなり、共通のルーマニア人民族意識を高めた両国は1859年に共同の公を選出して統合を果たした(ルーマニア公国の成立)。
東モルダヴィア(モルダヴィア民主共和国)とルーマニアの統一は1920年のパリ条約によるものだが、ソ連はこれを承認しなかった。第二次世界大戦後、東モルダヴィアはソ連を構成する国家の一つのモルダビア・ソビエト社会主義共和国となり、南部(ブジャク)と北部(北ブコヴィナ)はウクライナ領となった。1991年、モルダビア・ソビエト社会主義共和国は独立を宣言した後にモルドバと改称した。
<人>色の黒い小柄なモルダビア人
- 32班
- 自動車修理工場が現場
- ルーマニアのスパイといっていたモルダビア人。(本物のスパイ)
- 点呼の時、いなかったので32班の副班長ともうひとりの若者が探しに行く。
- 500人もの人間を30分以上も待たしたので、全員に罵声をあびせられる。
- К(カー)460番
- 壁塗りの足場に這いずりあがって、副班長の目を隠れて、ぬくぬくとあたたまりながら寝込んでしまった。
- 副班長と同じ32班のハンガリー人に殴られ蹴られて、護送兵のカービン銃から月吐き放され撃たれずにすむ。
スパイ
- スパイ名の付く者は各班に5人はいた。
- たいていはでっちあげの偽もの。書類上だけのスパイでただの捕虜。
- シューホフもそうしたスパイの一人。
ツェーザリ・マルコヴィッチとブイノフスキイ中佐の二人は、待っている間映画談義をしている。
- 会話はエイゼンシュテインの映画「戦艦ポチョームキン」について。
- ウジ虫のわいた肉は戦艦ポチョームキンの暴動において直接原因となった。
- ・・・あの階段のところの乳母車 下へどんどん転がっていく。・・・
「戦艦ポチョームキン」 エイゼンシュテイン
-
『戦艦ポチョムキン』(せんかんポチョムキン、ロシア語: Броненосец «Потёмкин»ブラニノースィツ・パチョームキン、英語:Battleship Potemkin)
-
1925年に製作・公開されたソビエト連邦のサイレント映画。セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の長編第2作で、「第1次ロシア革命20周年記念」として製作された。
-
1905年に起きた戦艦ポチョムキンの反乱を描いたもので、「オデッサの階段」と呼ばれるオデッサの市民を虐殺する場面は映画史上有名なシーンの一つであり、様々なオマージュやパロディを生んでいる。しかし、「オデッサの階段」の場面や終盤の黒海艦隊の多くの艦が反乱に同調する(実際は数隻のみ)場面など史実とは大きく異なる部分も多い。当時のソ連の映画人が提唱したモンタージュ理論を確立した作品として知られ、エイゼンシュテインが唱える「アトラクションのモンタージュ」などといった独創的なモンタージュ理論を実践しており、世界各地で大きな反響を受けるとともに、後の映画人にも多大な影響を与えた。現在に至るまで映画史的に非常に重要な作品として評価されており、『國民の創生』、『市民ケーン』とともに映画芸術に革命をもたらした画期的作品とされる。
-
共産主義的プロパガンダ映画のために、海外で公開される際は検閲を受け、多くの場面がカットされるなど公開に難航した。日本でも終戦から22年が経った1967年にようやく一般公開された。
戦艦ポチョムキン | |
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Броненосец «Потёмкин» | |
ソ連での公開時のポスター
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あの階段のところの乳母車 下へどんどん転がっていく
- オデッサの階段
- この映画で最も印象的とされるのは「オデッサの階段」といわれる約6分間の場面で、「映画史上最も有名な6分間」といわれる。特に撃たれた母親の手を離れた乳母車が階段を落ちていくシーンは、ブライアン・デ・パルマ監督の『アンタッチャブル』などの映画でも引用されている。だが史実によると「オデッサの階段での虐殺事件」というものは存在しない。
<場>詰所
- ひとだかりができてきた。
- 護送兵の点呼がはじまる。(門を出ていくときは、二度勘定することになっている。)門をしめたまま一度、開けた門を出ていくところを勘定する。少しでも変と思えば、門を出たところでもう一度勘定する仕組み。
- 人数が足りない。462/463人。五列縦隊で勘定していく。
- 班ごとに整列させられる。空手のものが多かった。
- 104班は全員いた。
- 一名足りないのは、32班。(自動車修理工場へ探しにいく。)
- いないのは色の黒い小柄なモルダビア人。
- モルダビア人が発見されたので、勘定のやり直し。・・・煙草をせびりに隊列を離れた山犬のフェチュコーフが護送副隊長に首をぶたれる。
<人>今日の護送隊長
- 詰所で点呼して門の外に囚人を出した後にもう一度勘定する。
- これで勘定があったら、見張りを望楼から下ろす。(遠い望楼からここまでは大変な道のり。)しんがりの囚人が現場から出て勘定があうと、その時はじめて電話で各望楼に下りる命令を出す石頭タイプ。
- 囚人に対して兵士の数が足りないことを怖れて、見張りが戻るのを待っている。
一晩ふいになったのだ!
- 囚人たちは、まる一時間、酷寒(マローズ)の中凍えながら突っ立っていたことより、一晩ふいになった怒りの方が大きい。
- 「歩度を上げろ」と命令されても囚人たちは、一晩ふいになり、失うものがなくなって急ぐ気がない。
<人>ブイノフスキイ
- 元海軍中佐。
- シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)の下段のベッド。
- チョッキか胸あて・・・身体検査で見つかる。
- ラーゲルに来てまだ3か月。
- 十昼夜の重営倉を命じられる。(監獄へ。)
- 差し入れの小包が届かない。
- もと艦長級なので、命令口調。
- 食堂では、尊大なな口をきく海軍士官から尻の思い小心な一囚人に早変わりするのだ。尻の重さだけが、この先25年の監獄暮らしに耐え抜く力をつけてくれる。
- まだラーゲル暮らしが間もないので、生きるすべを学べていない。
- パブロ副班長にかすめとった粥をもらった。
- 中佐はモルタルを運んでくるたび機敏になった。
- 40歳になるかならぬかの歳。
- 英国海軍に詳しいわけ・・・まる一か月英国巡洋艦に乗り込んでいた。自分の個室(キャビン)も持つ護衛艦隊に派遣され、連絡将校だった。戦後になって英国の提督から感謝のしるしに記念品が贈られてきて、十把一絡げにベンデル派何ぞと一緒にぶちこまれた。
- Щ(シチャー)311番
ベンデル派
<人>シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)
- 第104班
- 決して寝過ごさず、5時の起床の鐘と同時に起きる。(作業に出る前の1時間半を自分の時間としてつかうため。内職かせぎをする。)
- 今朝は体調不良で起きられなかった。(寒気、節々の痛み。)
- Ш,(シチャー)、854番(黒ジャケッツの肩に当たっている白い布に記されている。)
- 8年間のラーゲル暮らし。
- まばらな歯。・・・1943年に死に損ない、歯はその時ウスチ=イジマ(バレンツ海に注ぐベチョーラ河畔)の収容所で抜けてしまった。(病気のせいで)
- 歯抜けのせいで、舌たらずの発音。
- 1941年に女房と別れたきり。
- 髭が伸び放題。10日前に風呂にはいったきり。あと3日もすれば風呂があるだろう。
- ロワチ湖畔の野戦病院の思い出。(顎を負傷。)
- 体温は37度。
- パウロ副班長に配ってもらったパンの半分をベッドのマットレスの小穴を大きくして、つめているノコ屑の中に隠す。隠していた糸と針で縫う。(当番の連中にぬすまれるから。)
- バンドは取り上げられてしまったので、防寒服のうえにジャケッツをまとい縄で縛る。(特殊ラーゲルでは、皮バンドは禁止されていた。)
- 年があけて1951年、シューホフは年2通の手紙を書く権利をもらった。(ウスチ=イジマのランゲールでは別規則で、手紙を出したい奴はいつでもだせる。)
- 1941年6月23日シューホフは家(テムゲニョヴォ村)を出た。
- 家の者も年に2回手紙をよこす。
- あと2年は収容予定。
- 40年の星霜をへて。・・・40歳。
- 賄賂をやったりとったりしたことがない。(ランゲールでもしったことがない。)
- 市民権はく奪の身。
- 腕に覚えがある職人だった。
- 同じ班ではなかったが、アンドレイ・プロコーフィエヴィッチ・チューリン班長をウスチ=イジマにいる頃から知っていた。
- 刑法第五十二条組が、一般ラーゲルのウスチ=イジマからここ徒刑ラーゲルへ追い払われた時、シェーホフはアンドレイ・プロコーフィエヴィッチ・チューリンに拾われ、様々なことから守ってくれた。(信頼している。)
- シューホフは石工職人。
- キルガスの名前もヨハン(ロシア語のイワン)だったので、シューホフもキルガスのことをワーニャと愛称で呼んだ。お互い相手の職人として尊敬していた。
- イワン・デニーソヴィッチはコプチックのことを可愛がっていた。(自分の息子は小さい時に死んでしまい、今家には大きな娘が2人いる。)
- 書類によると、シューホフの罪は祖国への裏切りということになっている。(そう自白してしまった。)・・・自分は祖国を裏切るために、捕虜となり、ドイツ諜報部の任務を遂行して帰還を許された者である、と。
- ラーゲル暮らし8年のうち、北方のラーゲルで過ごした7年。
- 馬鹿正直な性格。8年のラーゲル暮らしでもこの性格はなおならなかった。モルタルとブロック積を最後まで丁寧にする。護送兵に犬をけしかけられても仕事の出来栄えを一目眺めずにはいられなかった。
- ブロック積みが終わったあと、センカ・クレフシンはすぐに飛び出したが、シューホフは心配するセンカに手をふって、自分はモルタル室に取って返しコテを隠しにいく。・・・センカは待っていてくれた。
- 話し方が舌足らず。
- 詰所で護送兵の点呼を待っている間に、赤味を帯びた月がかけているのを見たシューホフが、古くなった月はどこへいくかとブイノフスキイ中佐に聞くのが面白い。
- 仕事に夢中になって、医療室のことをけろりと忘れていた。
突然、囚人部隊の様子がかわる。
- 列が乱れ、歩調がくずれると、いきなり喚声をあげて走りだした。
- 遥か右前方の荒野に、もう一つの作業隊が黒々と見えたから。向こうも足を速めている。(機械工場の連中、全部で300人あまり。)
- ラーゲルまで競争になる。
- 機械工場の連中を追いこさなければならない理由・・・ラーゲルの詰所で、いつも長々と身体検査をされるから。(ラーゲルで例の密告者(犬)殺しがあってから、ナイフは機械工場で作られ、そこからラーゲルに持ち込まれた物だとおエラ方はにらんでいるから。)
機械工場の連中の特別念入りな身体検査
- 大地が凍てつきはじめた晩秋にも、怒鳴られ靴をぬがされ靴を両手に持つ。はだしのままで身体検査をうける。
- 最近でも酷寒(マローズ)なんかおかまいなしに、物品検査をされる。靴もぬがされる。
シューホフのまたぎき
- 機械工場の連中は夏の頃に、バレーボールの柱を2本ラーゲルに持ち込み、その柱の中に全部のナイフを隠しておいたのだという。
- 1本の柱に長い刃のナイフを10本ずつ。今でもそれらのナイフはラーゲルのそこここで見つかる。
シューホフはツェーザリ・マルコヴィッチに、この詰所の身体検査が終わったら、小包受領書へとんで番をとると話しかける。
- ツェーザリ・マルコヴィッチは小包はこないかもという。
- たとえツェーザリ・マルコヴィッチが来なくても、誰か他の者に順番を売ればいいと考えていた。
- 一目でツェーザリ・マルコヴィッチが小包を待ちくたびれているのが分かった。
<場>ラーゲルの詰所の身体検査
- シューホフはズボンの膝ポケットに、今日作業現場で拾った折れた手鋸(てのこ)の刃があったのを忘れていた。
- ラーゲルへ持ち帰ろうとは思っていなかった。身体検査まであと2列。
- こんなのこぎりの破片でも、刃物と認められれば、十昼夜の営倉になりかねない。だが靴修理のナイフになったら、もうけもので飯の種になるので、シューホフは綿入れ手袋に押し込んだ。
- 歳よりの看守に身体検査されるとき、シューホフは神に祈った。
<人>プリャハ
- ヴォルコヴォイ中尉の副官
- 護送隊長からの申し送りで、モルダビア人は逃亡を企てたみなされ監獄(プール)にぶちこまれるのだ。
ラーゲルの門をくぐった夕べの点呼
- 囚人は、一日のうちで飢え、凍え、よわりはてている。
- ただ熱いばかりでろくな実も入っていない野菜汁(パランダー)の一杯が、旱天(かんてん)の慈雨にも等しい。
かんてんじう【旱天慈雨】
- 非常に困ったときに、もたらされる救いの手のたとえ。長い間待ち望んでいた物事が実現することのたとえ。
<食>夕食
- ただ熱いばかりでろくな実も入っていない野菜汁(パランダー)
- 一気に平らげてしまう。
- 野菜汁(パランダー)の一杯こそ、今の彼(シューホフ)には自由そのものよりも、これまでの生涯よりも、いやこれからの人生よりも、はるかに貴重。
- せめて冷えてない熱い野菜汁(パランダー)をすすりたいものだ。冷えてしまった汁は、熱いやつの半分の値打ちもないからだ。
囚人たちの自由な時間
- 朝6時半に作業出勤の鐘が鳴って以降、最後の点呼をして中間地帯の小さな門を通り、整列場沿いの二つの柱の間を抜ければ、もうどこへ行こうと自由。
- だが、各班長連は作業割当係に呼び止められ、生産計画部(ペー・ペー・チエー)へ集合。
<場>小包受領所
- 身体検査の後、シューホフは一目散にむかった。
- チェーザリは自己の品位を落とさず、ゆっくりと反対の方へ歩いて行った。
- ひとだかり。
- ベニア板が打ち付けられ、その表面にボール・ペンで今日の小包受領者の名前が書きだされてる。(ラーゲルでは紙の上にものを書くことは少なく、大抵はベニア板を使う。翌日削ってまた使う。)
- 内職稼ぎ・・・小包が届いた者の名前をベニア板で見て、整列場所で本人を待ち伏せ、すぐにその番号を教えてやる。大した稼ぎなはならなくても巻タバコ1本ぐらいにはなる。
- シューホフは受領書沿いの行列に並ぶ。前に15人ばかり並んでいるから、後1時間以上かかる。(就寝時間すれすれ)
- シューホフ自身はこのラーゲルへきて、自分への小包を受け取ったことはない。
看守たちの小包の点検
- 小包の箱を手斧(ちょうな)でこじ開けて、ひっぱりだして点検する。
- 物によっては切ったり、折ったり、さわったり、まいたりする。
- びん詰や罐詰になっている液体類のときは、蓋を開けて、相手の素手であろうと、タオル袋であろうと、中身だけ注ぐ。・・・ビン、罐とかは渡してくれない。
- まんじゅうや珍しい菓子やソーセージや魚の燻製の場合は、まず看守が味見する。(文句でも言おうものなら、禁制品と言って渡すことができないと言われる。)
- 中身の検査が終わっても、小包の箱はやっぱり渡してもらえない。中身だけなんであろうと持参の袋かジャケッツの裾の中へ移しかえなければいけない。
- 忘れもをしてももどらない。
- シューホフは送ってくるだけ無駄になるから家族で小包分を食べた方がいいので、復活祭(バースハ)でも送ってよこすなと手紙を書いている。
復活祭(バースハ)
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正教会において最も重要な祭日。
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イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)の復活を記憶する祭りであり、西方教会における復活祭に相当する。西方教会と同様、復活大祭の日付は年によって異なる。
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正教会において復活大祭は、旧約聖書における過越の成就であり、新しい約束の時代(新約の時代)の新たな過ぎ越しであると位置づけられるため、「過ぎ越し」を意味するヘブライ語に由来する「パスハ」と呼ばれる。正教会は西方教会と異なり、「イースター」とはあまり呼ばない。
今週はまた日曜がつぶれるという。
- 月に日曜が5回あれば、3回は休日で、2回は作業と相場が決まっている。
<人>理髪師と簿記係と文化教育部係(カー・ヴェー・チェー)の3人
- 小包受領所の列に割り込んできた3人
- この連中は、一般囚人とは違って、構外作業にも出ない、れっきとしたランゲール側の畜生。
<人>ピョートル・ミハイロヴィッチ
- 小包受領所に入ってきたツェーザリ・マルコヴィッチと話し出した人。
- 行列中ずっと新聞(『夕刊モスクワ』)ばかり読んでいた一風変わった眼鏡の男。
- ツェーザリ・マルコヴィッチに新聞に掲載されていたザヴァツキイ(モスソビエト劇場の演出家)の初日について話していた。
- ツェーザリ・マルコヴィッチと同じモスクワっ子。・・・早口になるとロシア語の単語がめったに出てこないので、まるでラトビア人かルーマニア人が喋っているという感じ。
早口になるとロシア語の単語がめったに出てこない
ロシア語
- ロシア語(ロシアご、русский язык、[ˈruskʲɪj jɪˈzɨk] ( 音声ファイル))
- インド・ヨーロッパ語族のスラヴ語派東スラヴ語群に属する言語。露語とも略される。ロシア連邦の公用語。ロシア連邦の国語表記には、キリル文字を使用する。近縁の言語にウクライナ語とベラルーシ語がある。
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スラヴ祖語
詳細は「スラヴ祖語」を参照聖キュリロス(キリル)と聖メトディオス
古ロシア語
詳細は「古ロシア語」を参照ロシア語の起源については諸説あるが、東スラヴ人が使っていた古東スラヴ語(10世紀 - 15世紀)から発展したという説が最もよく知られている。13世紀にキエフ大公国が崩壊した後、ルーシの地はモンゴル帝国に支配(タタールのくびき)されており、現代ロシア語にも財政や金融に関わる単語を中心に、タタール語などのテュルク諸語やモンゴル語の影響が残っている。その後、北東ルーシの辺境(現在のヨーロッパ・ロシア)でモスクワ大公国が成立し、この国の公用語がロシア語として独自に発展していった。
ロシア帝国の時代には、1708年にピョートル1世によってアルファベットが単純化されたのを皮切りに、ロシア語の改革が盛んとなった。18世紀後半にはミハイル・ロモノーソフが初めてロシア語の文法書を著し、標準語の形成に大きく寄与した。19世紀初頭にはアレクサンドル・プーシキンによって近代的な文語が確立した。また、宮廷は西欧諸国を模範として近代化を進めたことから、大量の専門語彙がオランダ語、フランス語、ドイツ語などから取り入れられた。その一方で、当時の上流階級はフランス語を日常的に使用しており、19世紀の小説(レフ・トルストイの『戦争と平和』など)はフランス語を交えて書かれた作品が多い。
ソ連時代
ソビエト連邦ではロシア語が事実上の公用語であり、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国を除くソビエト連邦構成共和国において共通語として機能していたが、公式には公用語は存在しなかった。レーニンがオーストロ・マルキシズムやカウツキーの影響のもと、1914年の論文『強制的な国家語は必要か?』において国家語の制定を批判した。また、自身も少数民族グルジア人の出自を持つスターリンも民族問題の専門家として民族語奨励政策を採用した結果、ソ連は、ロシア語をその崩壊にいたるまで正式な公用語の地位につけることはついになかった(ちなみに、オットー・バウアーから借用した「形式は民族的、内容は社会主義的な文化の建設」というスターリンのテーゼはまず言語問題にまつわる1925年の演説『母語による教育』において現れた)。それゆえ、ロシア語が公的に国家語化したのはロシア連邦成立後である。
1918年には、アレクセイ・シャフマトフが準備していたアルファベット改革案がボリシェヴィキによって実行に移され、現在のロシア語の正書法が成立した。ただし、Ёはこの時点でまだ正式なアルファベットとして認められておらず、正式に組み入れられたのは1942年のことである。なお、1964年にもソ連科学アカデミーによって正書法の改革案が作られたが、こちらは実施されなかった。
ソ連崩壊後
1991年末のソビエト連邦の崩壊で、ソ連を構成していた各共和国はそれぞれ独立し、それまでロシア語との併用という形を採っていたそれぞれの民族語が第一の公用語へと昇格したが、その後の言語状況に関しては様々である。
バルト三国と呼ばれるエストニア・ラトビア・リトアニアでは、ソ連からの独立以降急速に各民族語(エストニア語・ラトビア語・リトアニア語)が使用される機会が増えている。もちろんソ連崩壊後30年程しか経過しておらず、またロシア系住民が多い地域などではロシア語が今でも使われるが、ソ連時代と比べるとロシア語はそれほど使われなくなっていると言える。特にこの3カ国が2004年にEUに加盟してからは、英語やドイツ語がより広く学ばれるようになっている。ただし、ソ連時代後期にロシア語人口がラトビア語人口を逆転するのではないかと言われたラトビアでは、独立回復後に制定した国籍法で国籍取得要件にラトビア語の習得を義務付けたという経緯がある。これによって多くのロシア系住民をロシアへ移住させる事に成功したが、国籍を与えられない残留ロシア人の権利が阻害されているとするロシア政府からの抗議を受け、さらに欧州委員会からもこの言語規定が市民の平等を定める欧州憲法に違反しているという指摘を受けた。2018年4月には、教育法が改正され、ロシア系住民が通う学校であっても、小学校は50%以上、中学校は80%、高校は100%の科目をラトビア語で教育することが義務付けられた。
モルドバにおいては、ロシア語が国内共通語と法定されてきたが、2018年6月に失効が確認された。
また、ロシア影響圏からの離脱を模索するウクライナやジョージアでも、ロシア語ではなくウクライナ語やグルジア語がより広範に使われている。ウクライナでは、西部を中心に従来よりほとんどウクライナ語のみが使用されている地域がある一方で、ウクライナ語とロシア語両方が使われている地域もあり、また東部やクリミア半島ではロシア語の使用者が大勢である地域もあり、地域によっては将来的にもロシア語は当分使われ続けると推定されている。一方で、都市部を中心に伝統的にウクライナ語とロシア語の混交が起こっていたが、ソ連の崩壊以降、それまでロシア語が優勢であった地域を中心にウクライナ語にロシア語の要素が混じった「スールジク(混血)」と呼ばれる混交言語が広まりを見せている。現在でも、ウクライナ西部を除く広範囲でロシア語は使用、理解されており、ロシア語をウクライナ語に次ぐ第二公用語に加える動きもあるなど、今までのロシア語排除の動きから転換点を迎えようとしている。
ジョージアもまた長年ロシア語による支配を受けてきた国であった。ジョージア政府はロシア語教育を廃止し、ロシア語読みに基づいた国名である日本語の「グルジア」を英語読みの「ジョージア」に変更することを要請しており(グルジア語名では「サカルトヴェロ」)、日本政府も承諾している。また、ロシアに多くのジョージア人が住んでいることなどからロシア語は今でもよく使われている。
それ以外の地域に関しては、今でもロシア語が幅広く使われ続けている。ベラルーシやカザフスタン・キルギス・ウズベキスタン・トルクメニスタンなどでは非ロシア人でもロシア語しか喋れない人も多く、また多民族が入り混じって生活する中央アジア諸国では、ロシア語が民族を超えた共通語として使われている。カフカース地域、及びモルドバでも、現地人同士の日常会話には現地語が用いられることが増えてきたものの、ロシア語で会話する人々は少なくない。なお、ロシアとの統合に積極的なアレクサンドル・ルカシェンコ大統領の独裁体制が続くベラルーシでは、ベラルーシ語とロシア語が公用語に指定されているが、隣国ウクライナとは逆にロシア語使用が奨励され、本来の民族語であるベラルーシ語が軽視される傾向にある。
ポーランドやブルガリアなど旧共産圏諸国では、共産主義体制ではロシア語が広く学習されていたが、民主化後は英語やドイツ語(歴史的にはチェコやハンガリーなど、オーストリア帝国の支配下にあった国も少なくない)など西欧の言語に押されて、ロシア語学習は下火になった。またバルト三国や東側諸国はハンガリー動乱やプラハの春などでソ連軍による民主化弾圧などがあったために、かつて第一外国語だったロシア語を使う事も拒んでいる者もいる。
一方、ウラジーミル・プーチン政権で経済の立て直しに成功したロシアがBRICsと呼ばれる経済成長地域の一つに加わり、天然資源を核にした諸外国との経済関係が再び拡大すると共に、ロシア語の需要は再び高まりつつある。バルト三国などでもロシア語に対するマイナスイメージもソ連時代を経験していない若い世代を中心に徐々に薄れてきており、ロシア語は英語やドイツ語などと共に、ビジネスなどで必要な言語ととらえる人も増えてきている。また、宇宙開発においては国際宇宙ステーションの公用語になるなど、英語と並んで必要不可欠な言語の1つとなっている。
ロシア国内では急速な資本主義化や新技術の導入に伴い、今まで存在しなかった概念や用語が大量に導入された。これにロシア語の造語能力が追いつかず、特に英語を中心とした外来語がそのままロシア語に導入される例が多くなっている。
<場>食堂の階段
<人>フラモイ
- 食堂当番にかじりついていた。
- びっこをたてに不具者の資格を得ているが、実は頑丈。
- 白樺の杖を持っていて、自分の指図に従わずに食堂に入り込む者を階段から其の杖でこづく。(ちゃんと相手を選んでいる。つまり弱いものいじめ。)
- コックと仲がいいので、大名暮らし。
<人>食堂主任
- まるまる肥ったまむし野郎。
- 1アルシン(約71㎝)もある肩幅の上に、かぼちゃのような頭をのせていた。
- バネ仕掛けのようにピョンピョン歩く。
- 番号の書いていない、白いふわふわした帽子をかぶっている。
- アストラハンのチョッキを着ていて、胸のところに切手大の大きさの小さな番号をつけていた。(ヴォルコヴォイ中尉への申請のため)
- 背中には小さな番号すらなかった。
- 食堂主任は誰にも頭を下げなかったし、逆に囚人たちは彼を怖れていた。
<人>センカ・クレフシン
- おとなしい哀れな男。
- 少し耳がとおい。・・・片耳を41年(独ソ開戦の年)にやられていた。
- ドイツに捕虜になったが脱走し、また捕まって、ブッフェンワルド(ナチの強制収容所)へ放り込まれた。
- ブッフェンワルド(ナチの強制収容所)では奇跡的に命拾いした。
- カッとなってはおしまい、といのが口癖。
- 狭いタラップの手すりを取った人。
- 我慢強いたちで、いつも口数が少ない。人の話も聞かなければ、自分からもめったに話の仲間いりしない。だから、彼の経歴も殆ど知られていない。
- ブッフェンワルド(ナチの強制収容所)に放りこまれて、そこの地下組織のメンバーとなり、暴動をおこすために武器を持ち込んだ。その時ドイツ兵に後手にして吊るされ、棍棒でなぐられた。
- 足のサイズが46もある大足なので、官給品のフェルトの長靴ではどれでもきついので、体や足が仕事で温まってきても一人両足をバタバタ打ち合わせている。
- 森の精(レーシィ)そっくりの、頑丈な体つき。
- 残業後、護送兵の点呼ぎりぎりなのにシューホフのことを待っていてくれた。
- 大男。頭一つ半だけシューホフより大きい。頭も大きい。
- 点呼に遅刻してきたことへの一般の連中の罵声がすごかったので、いつも黙りこくっているのに物凄い大声で怒鳴りかえしたセンカにみんな黙ってしまった。
<人>パウロ
- 第104班 副班長
- 起床して長靴を履いている。
- 朝、今からパンを受け取りに行く。
- 何か計算していた。
- 西部ウクライナ出身。(しっかりと相手を父称呼びし、丁寧な「あなた」言葉を使う。)➡イワン・デニーソヴィチと呼ぶ。
- 配給のパンと小さな砂糖をシューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)に渡してくれる。(パンの分量)
- アンドレイ・プロコーフィエヴィッチ・チューリン班長に言われて一緒に事務所へ。
- ペーチカのそばでみんながさぼらないよう見張ってる。
- 若々しい元気一杯の若者で、まだラーゲルの色にも染まらず、ウクライナのガルーシキ(団子の一種)で丸々太った好青年。
- 森に隠れて狙撃をしたり、敵地区に夜襲をかけたこともある人。
<人>ゴプチック
- 子豚のようにバラ色の肌をしたまだ16歳の小僧。
- 電線用の新品のアルミ線をどこからかかっぱらってきて、イワンにスプーンの作り方を教えてくれとせがんだ。
- イワン・デニーソヴィッチはコプチックのことを可愛がっていた。
- 森の中に隠れていたベンデル派の連中(ウクライナの民族主義グループ)へ牛乳を運んだかどで収容所におくられた。
- 刑期も大人なみ。
- 仔牛のように可愛くて誰にでも人懐こいが抜け目ないところは一人前。
- 差し入れの小包がくると、自分一人じめにして、時には真夜中に食べている。
<人>エルモラーエフ
- シベリア生まれの偉丈夫。
- 捕虜で10年。
104班
- 24人
<人>パンテレーエフ
- 第104班
- 今朝は病欠。
- 保安部の奴から残された。また誰かを密告する気。
- 食堂に現れた。
<人>ヨハン・キルガス
- ラトビア人
- 赤ら顔の肥ったラトビア人
- 大吹雪(プラーン)がこないと溜息。
- キルガスは大工職人。
- シューホフのことをワーニャ(イワンの愛称)で呼ぶ。お互い相手のことを職人として尊敬していた。
- ラトビア人だが、ロシア語は母国語と同様に話す。・・・村の隣にロシア正教の非改革派の部落があったので、小さいころから覚えた。
- 屋根ぶき用の厚紙を一巻隠していた。
- ラーゲル暮らしはまだ2年だが、よく心得ていた。
- 冗談なしで話をしたことがないので、班の誰からも好かれていた。
- ランゲールじゅうのラトビア人からとても頼りにされていた。
- 差し入れの小包は、月に二度。ランゲールの住人とも思えぬ色艶をしていた。
- キルガスの欠点は煙草を吸わないことだとシューホフは思っている。(小包に煙草がないから。)
- 25年の刑期。
- 禿げ頭
- 差し入れの小包で暮らしている。(裕福なので、配給のことなど気にしない。)
- 夕食のパンを運ぶ。
<人>山犬のフェチュコーフ
- ツェーザリのタバコを狙ってる。(吸いさし。)
- 自由の身であった時分には、3人の子持ちだったが、収容されてからは子供達が離れていき奥さんも再婚してしまった。・・・だからどこからも差し入れがない。
- 煙草の吸殻を拾い集めてきてほぐし、1枚の紙に集めていた。(ブイノフスキイに梅毒がうつると注意される。)
- 昔はどこかの役所で大したエラ物だったらしい。車を乗り回していた。
- ブイノフスキイ元海軍中佐が来た頃は公然と敵意をむき出していたが、中佐に思い知らされてからはおとなしくなった。
- ブイノフスキイ中佐とは逆に、モルタル運びがのろのろさぼりはじめ、軽くしようとモッコをかしげて、モルタルをこぼしていく。・・・班長に配置がえされる。
- 夕食の皿をもらうとすぐ立ち去った。
<人>シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)
- 第104班
- 決して寝過ごさず、5時の起床の鐘と同時に起きる。(作業に出る前の1時間半を自分の時間としてつかうため。内職かせぎをする。)
- 今朝は体調不良で起きられなかった。(寒気、節々の痛み。)
- Ш,(シチャー)、854番(黒ジャケッツの肩に当たっている白い布に記されている。)
- 8年間のラーゲル暮らし。
- まばらな歯。・・・1943年に死に損ない、歯はその時ウスチ=イジマ(バレンツ海に注ぐベチョーラ河畔)の収容所で抜けてしまった。(病気のせいで)
- 歯抜けのせいで、舌たらずの発音。
- 1941年に女房と別れたきり。
- 髭が伸び放題。10日前に風呂にはいったきり。あと3日もすれば風呂があるだろう。
- ロワチ湖畔の野戦病院の思い出。(顎を負傷。)
- 体温は37度。
- パウロ副班長に配ってもらったパンの半分をベッドのマットレスの小穴を大きくして、つめているノコ屑の中に隠す。隠していた糸と針で縫う。(当番の連中にぬすまれるから。)
- バンドは取り上げられてしまったので、防寒服のうえにジャケッツをまとい縄で縛る。(特殊ラーゲルでは、皮バンドは禁止されていた。)
- 年があけて1951年、シューホフは年2通の手紙を書く権利をもらった。(ウスチ=イジマのランゲールでは別規則で、手紙を出したい奴はいつでもだせる。)
- 1941年6月23日シューホフは家(テムゲニョヴォ村)を出た。
- 家の者も年に2回手紙をよこす。
- あと2年は収容予定。
- 40年の星霜をへて。・・・40歳。
- 賄賂をやったりとったりしたことがない。(ランゲールでもしったことがない。)
- 市民権はく奪の身。
- 腕に覚えがある職人だった。
- 同じ班ではなかったが、アンドレイ・プロコーフィエヴィッチ・チューリン班長をウスチ=イジマにいる頃から知っていた。
- 刑法第五十二条組が、一般ラーゲルのウスチ=イジマからここ徒刑ラーゲルへ追い払われた時、シェーホフはアンドレイ・プロコーフィエヴィッチ・チューリンに拾われ、様々なことから守ってくれた。(信頼している。)
- シューホフは石工職人。
- キルガスの名前もヨハン(ロシア語のイワン)だったので、シューホフもキルガスのことをワーニャと愛称で呼んだ。お互い相手の職人として尊敬していた。
- イワン・デニーソヴィッチはコプチックのことを可愛がっていた。(自分の息子は小さい時に死んでしまい、今家には大きな娘が2人いる。)
- 書類によると、シューホフの罪は祖国への裏切りということになっている。(そう自白してしまった。)・・・自分は祖国を裏切るために、捕虜となり、ドイツ諜報部の任務を遂行して帰還を許された者である、と。
- ラーゲル暮らし8年のうち、北方のラーゲルで過ごした7年。
- 馬鹿正直な性格。8年のラーゲル暮らしでもこの性格はなおならなかった。モルタルとブロック積を最後まで丁寧にする。護送兵に犬をけしかけられても仕事の出来栄えを一目眺めずにはいられなかった。
- ブロック積みが終わったあと、センカ・クレフシンはすぐに飛び出したが、シューホフは心配するセンカに手をふって、自分はモルタル室に取って返しコテを隠しにいく。・・・センカは待っていてくれた。
- 話し方が舌足らず。
- 詰所で護送兵の点呼を待っている間に、赤味を帯びた月がかけているのを見たシューホフが、古くなった月はどこへいくかとブイノフスキイ中佐に聞くのが面白い。
- 仕事に夢中になって、医療室のことをけろりと忘れていた。
- シューホフは、食堂で要領よく盆を捜し野菜汁(パランダー)を運ぶ。実の多いスープは自分と班長分にとっておく。・・・内職のおかげでツェーザリ・マルコヴィッチ分の野菜汁(パランダー)も自分のもの。
<人>背の高い老人
- Ю(ユー)81番
- 68班
- 食堂でシューホフの前に座った。
- 68班は今日、シューホフたち104班の代わりに《社生団》へまわされ、一日じゅう火の気のないところで有刺鉄線を張っていた。
- 老人はこれまでラーゲルや牢獄にもう数えきれぬくらいぶちこまれてきたが、一度も恩赦になったことがなく、10年の刑期がきれると、またすぐ新しい刑期を申し渡されてきた。
- 背筋がぴんとのびている。
- 頭はつるりと禿げていて、かなり前から髪の毛を刈る必要はなくなっている。
- 食堂内で起こっていることなど一瞥もせず、シューホフのあたまごしに虚空の一角をにらんでいる。
- 先のかけた木のスプーンで、実のない野菜汁(パランダー)を、みながやるように顔を皿に突っ込むことなく、スプーンを高く持って口元まで運んでいる。
- 歯は上下ともすっかり欠け落ちている。
- その顔は消耗の色が濃かったが、敗残者のような弱々しさではなかった。
- ひび割れた手を見れば、彼が長いラーゲル生活でも、殆ど軽労働の機会に恵まれなかったことがわかるが、それにもかかわらず、彼は一切の妥協を排してきたのだ。今も彼は300gのパンを、みんなのように汚く散らかっているテーブルの上でなく、ちゃんと洗濯のきいた布切れの上に置いて食事していた。
高潔そうな老人で、その振る舞いから貴族っぽい育ちのよささが伺えるが、これ以上は触れられていなかった。興味深いが、まだあとからもでてくるだろうか?
シューホフは自分とツェーザリのパンを持って、食堂の外へ出た。
出口の階段は別。
- 二人の当番が立っている。
<場>第七バラック
- シューホフは、前にも買ったことのあるコップ1ルーブルの自家製タバコを買うつもりだった。
- 同じものが娑婆では、3ルーブルもしていた。品によってはもっと高かった。
- 徒刑ラーゲルではあらゆる物の値段が独特。ここでは金を貯めることができないし、持っている者も少額なので、値打がでる。
- このラーゲルでは労働に対してビタ一文も払わない(ウスチ=イジマではシューホフも月30ルーブル貰っていた。)
- 肉親からお金が郵送されても、そのお金は本人には渡らず、個人預金へ入れられていまう。
- 個人預金では、月に一回売店で、化粧石鹸とかカビくさい菓子パンとか巻タバコの『プリマ』が買えるだけ。品物が気に入らなくても申請した分は買わなければいけなかった。買わなくても金はもどらない。貯金から引かれてしまう。
- シューホフは内職でお金を稼ぐ。
巻タバコの『プリマ』
- ベッドの下段に横たわり、隣の男とラトビア語ではなしていた。
- 部屋のみんなが聞き耳をたてているのでみんなが自分の話にかえるまでよもやま話をしてみせる。
- みなは、朝鮮戦争をめぐって議論してる。中国が介入したからには、世界大戦になるならないで言い争っていた。
- タバコをラトビア人に見せてもらう。
- このラトビア人はけちんぼ。
- シューホフはコップ2杯分のタバコを買う。2ルーブル紙幣を防寒服の隠し穴にかくしてある。
・・・「ひげの親爺(スターリンのあだ名。現在でも一般に広く使われている。)がお前らをあわれんでくれるだと!あいつはな、血を分けた兄弟でも信じようとはしなかった奴だぞ。お前みたいな、どこの馬の骨ともわからねえ野郎を、あわれんでたまるかい!」・・・
- 徒刑ラーゲルのいいところは、言論の自由があるところ。(密告する者がいないから。)
- ウスチ=イジマでは、娑婆じゃマッチがないと小声で言っただけでも営倉にぶちこまれ、新たに10年の刑期が延長された。
ひげの親爺 スターリン
- ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(ロシア語: Ио́сиф Виссарио́нович Ста́лин, 1878年12月18日(ユリウス暦では12月6日) – 1953年3月5日)
- ソビエト連邦の政治家、軍人(職業軍人ではない)。
- ウラジーミル・レーニンの死後29年間に渡って最高指導者の地位にあった。
- 一般に広く知られている「スターリン」という姓は「鋼鉄の(人)」を意味する筆名であり、本姓はジュガシヴィリ(ロシア語: Джугашви́ли、グルジア語: ჯუღაშვილი)である。
<場>第九バラック
- シューホフはタバコを自分のタバコ入れに移し替えて、急いで自分のバラックに駆け出す。ツェーザリが小包を抱えて戻ってくるところを逃したくなおから。
- ツェーザリはすでに戻って、下段ベッドにもぐりこみほくそえんでた。
- シューホフは身をかがめて、中佐とツェーザリのベッドの間にすべりこみ、晩飯のパンを突き出しツェーザリに話しかける。番を取っておいたから小包の分け前を貰う権利があると主張するため。(卑しい山犬のように直接的に言わなかったということ。)
- ツェーザリが持ってきたパンを断ったので、1杯の野菜汁とパン(夜食分)がシューホフのものになった。シューホフの要求できる分け前にもかなっていたので、シューホフはツェーザリの小包の分を御馳走にあやかろうという気持ちを断ち切った。
シューホフのパン
<人>山犬のフェチュコーフ
- ツェーザリのタバコを狙ってる。(吸いさし。)
- 自由の身であった時分には、3人の子持ちだったが、収容されてからは子供達が離れていき奥さんも再婚してしまった。・・・だからどこからも差し入れがない。
- 煙草の吸殻を拾い集めてきてほぐし、1枚の紙に集めていた。(ブイノフスキイに梅毒がうつると注意される。)
- 昔はどこかの役所で大したエラ物だったらしい。車を乗り回していた。
- ブイノフスキイ元海軍中佐が来た頃は公然と敵意をむき出していたが、中佐に思い知らされてからはおとなしくなった。
- ブイノフスキイ中佐とは逆に、モルタル運びがのろのろさぼりはじめ、軽くしようとモッコをかしげて、モルタルをこぼしていく。・・・班長に配置がえされる。
- 夕食の皿をもらうとすぐ立ち去った。
- バラックへすすり泣きながらもどる。口のまわりにはべっとり血がついている。また飯皿がもとで袋叩きにあったらしい。
『営倉十昼夜』
- デニーソビッチが隠している折りたたみ式の小さなナイフのこと。
- 営倉いきを覚悟して持っている。
- ツェーザリにかす。
シューホフは昼間かりた同じ量のタバコをつまんで、エストニア人へ返した。
<食>チェーザリの小包
- 棒パン(バトン)
- バター
- ソーセージ
- 魚の燻製
- お茶
<人>クルノセンキイ(ししばな)
- 血色のいい小柄な若者。
- 看守。
- 中佐の始末書の催促と禁制品を私物保管庫へ持っていくことを班長に忠告しにきた
- Щ(シチャー)311番ブイノフスキイ中佐を十昼夜独房へ連れていこうとした。
監獄
- 104班が建てた。
- 壁は石、床はセメント張り、ひとつの小窓もない。
- ペーチカを焚いても、壁の氷を融かして床に水たまりをつくるだけ。
- 寝床はむきだしの板切れ。
- 一日300gのパン。野菜汁(バランダー)が貰えるのは3日目、6日目、9日目の三日間だけ。
- ジャケッツは禁止。
- 重営倉で最後までぶちこまれていれば、もう死ぬまで健康は回復しないという。結核になる。
- もし十五昼夜、重営倉でぶちこまれていれば、死ぬだけ。
<人>バラック長
- 点呼・・・外で点呼をとる
- 古狸の悪党。
- 他の者を看守に売ることもすれば、相手も殴る。
- けんかで指一本取られているので、不具者ということになっている。
- お尋ね者のような面構え。
- 刑事犯。
- どういうわけか刑法第58条14項が適用され、ラーゲルへほうりこまれた。
<人>ツェーザリ・マルコヴィッチ
- 第104班
- 煙草をすっている。(パイプでなく巻たばこ)
- ありとあらゆる民族の血が混じっていた。
- 映画監督だった。
- 第一作も取り終えずにぶちこまれた。
- 黒いこいひげ。(そり落とさないのは身分証明書がそうなっているから。)
- ネルシャツ・・・身体検査で見つかる。
- 金持ちで、月に二度差し入れの小包を受け取り、しかるべきところへ袖の下をつかっていた。だからノルマ計算係の助手として事務所の中で働くことができた。
- 事務所にいるツェーザリは、気位が高くて、作業原場でもラーゲルでも、自分のほうから決して食堂へいかなかった。
- 事務所で『イワン雷帝』の映画の話をしていた。
- ぬくぬく暖まって、パイプを吸いながら事務所から出てくる。
- ブイノフスキイ中佐としかつきあっていない。あとの誰とも腹を割って話さない。
- 小包を並べて悦にいっていたまま、点呼前に保管所へはこばなければならなかったのにちらかしたまま隠してもいなかったのであわてていた。(要領の悪いツェーザリを気の毒に思って知恵をかすシューホフ。)
《狼のお天道さん》
- シューホフの田舎では月のことを冗談でこう呼ぶ。
陳情箱
- ラーゲル本部の前には、封印された陳情箱が4つ置いてある。
- 月に一度、中身は保安部の将校によって空にされる。
- 返事を待っても、返事はない。あっても《却下》だ。
<人>アリョーシュカ
- バプテスト信者。
- シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)の上段のベッドの隣人。
- お祈りを呟く。
- 上段ベッドでシューホフと隣同士。
- いつもこざっぱりと身ぎれい。
- 福音書の半分が書き写されている手帳。
- 鉄条網の向こうの朝日を見てほほえむ。
- 日曜日になると、バプテスト信者はみんな集まって、お互いにおしゃべりしている。
- 作業現場でもお祈りをしている。
- ペーチカ用の石炭を運んできた。
- おとなしいので相手は誰でも命令口調になる。
- 班長に配置替えされた山犬のフェチュコーフの代わりに、ブイノフスキイ中佐と組んでモルタルをシューホフのもとへ運ぶ。
- おとなしく働く人間は班の宝。
- なにを頼んでも、嫌と言ったためしがない。
- シューホフの声に出してたたえたお祈りを聞きつけて、勧誘に来る。
シューホフのポロムニャ村の教会の坊主の話
- ポロムニャの教区では、坊主が一番金持ち。
- 3つの村に女が3人いて、それぞれに養育費を払っている。自分は4人目の女と世帯を持っていた。
- 州の主教もどうしようもなかった。
- 正教教会は福音書の教えに背いていると、アリョーシュカ。
バプテスト
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バプテスト(英: Baptist、漢:浸礼教会、しんれいきょうかい)
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バプテスマ(浸礼での洗礼)を行う者の意味に由来しており、イングランド国教会の分離派思想から発生したキリスト教プロテスタントの一教派。個人の良心の自由を大事にする。
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バプテストは17世紀頃にイングランド(イギリス)で始まり、現在ではアメリカ合衆国に多く分布している。アメリカ合衆国の宗教人口はプロテスタントが最も多いが、その中で最も多いのがバプテストである。アメリカの保守派に属するバプテスト派、殊に南部バプテスト連盟は、アメリカ合衆国の非カトリック教派団体である。
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バプテスト派は、アルミニウスの流れを汲む普遍救済主義を支持するジェネラル・バプテストと、ジャン・カルヴァン(カルヴィン)の流れを汲む予定説を支持するパティキュラー・バプテストとに分かれる。現在はパティキュラー・バプテストが数において優勢である。アメリカのジェネラル・バプテストは存続を保っているが、イギリスのジェネラル・バプテストはパティキュラー・バプテストに吸収されつつある。アメリカのパティキュラー・バプテストは奴隷制度に関する意見の対立以降、米国バプテスト同盟(旧称:北部バプテスト同盟;アメリカン・バプテスト)と南部バプテスト連盟とに分裂している。
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日本には主に19世紀末にアメリカからパティキュラー・バプテストが伝わっているが、ジェネラル・バプテストによる宣教もなされている。その他に、アフリカや東欧・ロシア等への宣教もなされている。
ランドマーク・バプテストはプロテスタントを自称しない。
2回目の点呼
- ツェーザリ・マルコヴィッチが、ビスケットを2枚、砂糖を2かけら、ソーセージを1切れ、差し入れてくれた。
- ツェーザリの食糧袋を上段のシューホフのベッドのマットレスの下に隠してあげる。
- 2回目の点呼は室内。
シューホフはアリョーシュカにツェーザリからもらったビスケットを1枚あげる。
- お人好しで、みんなを喜ばしているだけで、自分では内職稼ぎもできないから。
- 自分はソーセージを口にほりこんで味わう。
今日一日シューホフはとても幸運だった。
シューホフの刑期まで3653日。
口ではキリストを否定しつつも、シューホフは祈ったり、仲間を見返りなしでいたわったりしているので、その実、信仰心をどこかで持っているような気がする。
解説
自伝
- 1970年度ノーベル文学賞が決定した時、本人がスウェーデン・アカデミーに送付した短い自伝。
- 本国ソビエトでの否定的評価のゆえに、作家アレクサンドル・イサエヴィッチ・ソルジェニーツィンの伝記的事実はあまり詳しく公表されていない。
1950年 当時あらたに創設された政治犯だけの特別収容所へ送られた。
シーモノフ
- コンスタンチン・ミハイロヴィッチ・シーモノフ (ロシア語: Константин Михайлович Симонов, ラテン文字転写: Konstantin Mikhailovich Simonov, 1915年11月28日(ユリウス暦11月15日) - 1979年8月28日)
- ソ連の作家。
- 『ユーゴスラヴィアの手帖』、(黒田辰男訳、時事通信社、1946年)
- 『プラーグの栗並木の下で』、(土方敬太訳、昭森社、1946年)
- 『ロシヤの人々』、(八住利雄訳、協同出版社、1946年)
- 『ロシヤ問題 』、(土方与志訳、早川書房、1953年)
- 『昼となく夜となく』、(小野俊一訳、酣灯社、1951年、角川文庫、1953年)
- 『社会主義リアリズムの道』、(アレクサンドル・ファジェーエフ共著、鹿島保夫共訳、江川卓共訳、未来社、1954年)
バクラーノフ
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『静かなドン』 ミハイル・ショーロホフ