蒙古襲来〈上〉 (日本語) 単行本 – 1988/4/5 山田智彦 (著)
蒙古襲来〈中〉 (日本語) 単行本 – 1988/3/1 山田智彦 (著)
蒙古襲来〈下〉 (日本語) 単行本 – 1988/3/1 山田智彦 (著)
<時>文永11年10月19日 22時
- 1273年
- 蒙古軍の先鋒高麗軍、博多湾岸に上陸し、麁原山(そはらやま)を占領
博多(はかた)
- 九州北部筑前国、現在の福岡県福岡市の地域。
- 博多湾に面する港町・港湾都市で、博多津などとも呼ばれた。
- 古代からの歴史を持ち、朝鮮や中国からの攻撃に対抗するための要所とされ、役所が多く建てられた。
- 中世には、大商人達による合議制で治められた日本史上初の自治都市として繁栄した。
- 江戸時代に黒田氏が入国し那珂川を挟んで城下町福岡を築き、二極都市の性格を持った。
- 明治には福岡市として市制施行されて現在に至り、博多の地名は博多区として残る。
麁原山(そはらやま)
- 現在の祖原山(そはらやま)
- 福岡市早良区祖原、昭代地区の住宅街の真ん中に座す小高い丘。
- 鎌倉時代の元寇(文永の役)の際には、ここ麁原山に元・高麗連合軍の本陣が敷かれ、博多、箱崎の日本軍と対峙。赤坂、鳥飼辺りで激戦を展開したと伝わる。
- 現在は公園として整備され、近隣住民の憩いの散策コースとなっている。
<時>翌未明
<場>赤坂山
- 博多から2.5㎞西の小高い丘
<人>少弐経資(しょうにつぐすけ)
少弐 経資(しょうに つねすけ)
- 鎌倉時代中期の武将・御家人。
- 少弐資能の子。
- 少弐氏3代当主。
- 経資の「経」字は、鎌倉幕府第4代執権・北条経時の偏諱と考えられ、経時に同字を与えた4代将軍・藤原頼経が出家する寛元3年(1245年)から、経時が亡くなる同4年(1246年)の間に元服を遂げたと推測されている
- 経資の生没年については、1229年~1292年説、1226年~1289年説などがあるが、元服は10代で行うのが通例であるから、前者が正しいとされる
- 父の存命中から共に北九州の統治に当たり、元寇に際しては異国警固体制を整え、元の使者への対応や九州御家人たちの指揮、石築地の築造工事の統括、蒙古合戦の勲功配分とその調査などを行った。史料上での初見はかなり遅く、40歳となる文永6年(1269年)9月付の文書である。
- 文永11年(1274年)の文永の役では、経資の弟・景資が日の大将として日本軍を指揮していたが、この時の経資の動向に関する史料は無く、詳細は不明。
- 45歳となる同11年8月までに大宰少弐に任官
- 文永12年(1275年)、父から家督と所領を譲り受ける。
- 弘安4年(1281年)の弘安の役における壱岐島の戦いでは、負傷しながらも元軍を相手に奮戦して勝利し、壱岐島から蒙古軍を駆逐した。しかしこの戦いで、子・資時を失う。その後も大友頼泰と共に鎮西奉行の一人として、九州の軍政にあたった。
- 弘安7年(1284年)、8代執権・北条時宗が死去したのを契機に出家し、浄恵と号した。
- 翌年の霜月騒動では平頼綱側に与して、安達泰盛側に与した弟の景資と泰盛の子・安達盛宗を討ち取った(岩門合戦)。
- この戦いの結果、北条得宗家の鎮西支配が強化されて、少弐氏の勢力は削られ、筑後・豊前・肥前・肥後の守護職を失った。
- 弘安9年(1286年)、鎮西談議所の奉行に大友頼泰、宇都宮通房、渋谷重郷と共に任じられる。正応5年(1292年)に死去。
- 長男・資時は弘安の役で戦死したため、家督は盛経が継いだ。また、盛経の弟・時経や盛氏は、その子孫がそれぞれ志賀氏、平井氏となる。
<場>息浜(おきのはま)
赤坂の戦い
- 早良郡から上陸した元軍は、早良郡の百道原より約3km東の赤坂を占領し陣を布いた
- 博多の西部に位置する赤坂は丘陵となっており、古代には大津城が築かれ、近世に至っては福岡城が築かれるなど博多攻防の戦略上の重要拠点であった
- 一方、日本軍は総大将・少弐景資の下、博多の息の浜に集結して、そこで元軍を迎撃しようと待ち受けていた
- 日本側が博多で元軍を迎え撃つ作戦を立てた理由は、元軍が陣を布く赤坂は馬の足場が悪く、騎射を基本戦法とする日本の戦法で戦うには不向きであるため、元軍が博多に攻めてくるのを待って、一斉に騎射を加えようという判断からであった
- ところが、肥後の御家人・菊池武房の軍勢が、赤坂の松林のなかに陣を布いた元軍を襲撃し、上陸地点の早良郡のうちにある麁原(そはら)へと元軍を敗走させた
- なお肥後の御家人・竹崎季長一党は元軍との会敵を求めて西へ移動中に、赤坂での戦闘で勝利した菊池武房勢100余騎と遭遇している
<場>筥崎八幡宮(はこざきはちまんぐう)
- 日本軍本陣
- 博多から北東へ2㎞
- 赤坂山が燃えるのが見える
筥崎八幡宮(はこざきはちまんぐう)
- 筥崎宮(はこざきぐう)
- 福岡県福岡市東区箱崎に在る神社
- 式内社(名神大社)、筑前国一宮
- 旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社
- 筥崎八幡宮(はこざきはちまんぐう)とも呼ばれる。
- 大分県宇佐市の宇佐神宮・京都府八幡市の石清水八幡宮と筥崎八幡宮を三大八幡宮と呼ぶ
- 「はこ」の字は円筒状の容器を意味する「筥」が正字であり「箱」ではない。ただし筥崎宮の所在地・駅名など地名「はこざき」は筥崎宮の「筥崎」では筥崎八幡神に対して畏れ多いとして「箱崎」と表記する。
<人>少弐景資(しょうにかげすけ)
- 日本軍本陣の筥崎八幡宮(はこざきはちまんぐう)大友家と陣取る
- 父の資能に兄に代わって、博多の大将軍を任せられる
少弐 景資(しょうに かげすけ)
- 鎌倉時代中期の武将・御家人。
- 少弐資能の三男
- 元寇に際し、大将軍として九州御家人達の指揮にあたり、父の資能や兄の経資と共に蒙古軍と戦った。
- 『八幡愚童訓』によると、文永11年(1274年)の文永の役で、景資は10月20日での博多湾沿岸での戦闘において「日の大将軍」であったと言い、景資ないし彼の郎党が蒙古軍の副司令官の一人(征東左副都元帥)であった劉復亨と思しい人物(流将公)を矢で射止める大功を挙げたと言われている。
- 弘安4年(1281年)の弘安の役にも参陣して奮戦した。
- 父の資能の死後、兄の経資との間で家督をめぐる争いが起り、弘安8年(1285年)に鎌倉で有力御家人の安達泰盛と内管領の平頼綱とが対立した霜月騒動が起きると、景資は泰盛側に与して泰盛の子で肥後国の守護代・安達盛宗と共に筑前国で挙兵したが、頼綱側に与した兄・経資の追討を受け、居城である岩門城で敗死した(岩門合戦)。享年40。
<人>少弐資能(しょうに すけよし)
- 三男少弐 景資(しょうに かげすけ)に筥崎八幡宮(はこざきはちまんぐう)で、博多の大将軍を任せ、自分は太宰府へ戻る
- 少弐 経資(しょうに つねすけ)と三男少弐景資(しょうにかげすけ)の父
- 兄弟の性格の違いを足して二で割れんものかとなやむ
少弐 資能(しょうに すけよし)
- 鎌倉時代前期から中期にかけての武将・御家人。
- 少弐氏2代当主
- 当時武藤氏は大宰府の責任者として大宰少弐の地位にあったため、資能の代から少弐姓を名乗るようになったという。
- 資能は北九州に大きな勢力を持ち、幕府の鎮西奉行として、文永5年(1268年)蒙古の使者の対応にも当たっている
- 文永の役直前に出家して覚恵と号し家督を長男の経資に譲ったが、老齢の身でありながら自身も対元の総司令官として参戦し、元軍の侵攻を阻止し撃退することに成功する。
- 弘安4年(1281年)の弘安の役にも老齢の身を押して出陣した。
- 壱岐島の戦いでは元軍を相手に奮戦し、壱岐島から元軍を駆逐した。しかし、この時の負傷がもとでまもなく死去したという。享年84。大応国師南浦紹明は、導師として太宰府横岳崇福寺において葬儀を執り行った。
- なお、仁治3年(1242年)に、円爾(聖一国師)が博多に承天寺 を開く際に、資能は寺地数万坪を寄進した。
太宰府市の観世音寺の北にある観世音寺四十九子院跡のひとつといわれる安養寺の跡地の一角には、武藤資頼墓と伝えられる五輪塔と少弐資能の供養塔(宝篋印塔)が並んで建っています。
<場>蓑島(みのしま)
- 菊地勢陣営
- 後ろに下げられたせいで、蒙古に一番近い位置・・・筥崎(はこざき)本陣は大友が布陣、博多息浜(おきのはま)は少弐が布陣
<人>菊地武房(きくちたけふさ)
<人>赤星有隆(あかぼし ありたか)
- 菊地武房(きくちたけふさ)の弟
- 兄とともに布陣
菊池 武房(きくち たけふさ)
- 鎌倉時代中期の武将。
- 菊池氏の第10代当主。第9代当主・菊池隆泰の次男。
- 蒙古襲来に際して一族を挙げて戦い、その活躍が『蒙古襲来絵詞』に描かれている。
- 文永11年(1274年)の文永の役では弟の赤星有隆とともに、上陸して赤坂まで進出してきた元軍を破り、元軍主力を麁原(そはら)へ、一部は別府(べふ)の塚原まで撃退する武功を挙げた。元軍を破った菊池勢100余騎は元兵の首を多数つけて帰陣した(赤坂の戦い)。
- 文永10年(1273年)5月に執権と連署を務めた北条政村が死去した際に、政村の甥で娘婿である北条実時に宛てて「お悔やみを申し上げたいが、異国の事により鎮西の地頭御家人は参向してはならないとの御教書ですので、参拝する事できず残念です。」との書状を送っている。
- 弘安4年(1281年)の弘安の役でも活躍して武功を挙げた。しかし朝廷から甲冑を賜っただけで幕府からの行賞がなく、武房は反幕府へ傾いていたという。
- 役の4年後の弘安8年(1285年)3月26日に41歳で死去し、後を孫の菊池時隆が継いだ。
- 大正4年(1915年)11月10日、従三位を贈られた
赤星 有隆(あかぼし ありたか)
- 鎌倉時代中期の武将。
- 肥後赤星氏初代当主。
- 文永11年(1274年)文永の役に兄の菊池武房と共に参陣し、赤坂まで攻め入った元軍を破り、撃退し武功を挙げた(赤坂の戦い)
- のち後醍醐天皇の命で、娘婿の菊池武時に従い、鎮西探題の赤橋英時を攻めるがこれに敗れ、戦死した
<時>元軍来寇2日目
- 最初に動いたのは、菊地勢百騎(300人)
<場>赤坂山
- 高麗人占拠
- 麁原山(そはらやま)を占拠した金方慶(キンホウケイ)を迎える準備
<人>朴福(ボクフク)
- 高麗人
朴福(ボクフク)
- ?
<人>西郷隆政(さいごうたかまさ)
- 菊地家一門
- 一番槍
<場>博多・息浜(おきのはま)
<人>竹崎季長(たけざきすえなが)
<人>白石通泰(しらいしみちやす)
<場>住吉神社前 通過
<ば>鳥飼汐干潟(とりがいしおひがた)
- 赤坂山の谷あいをこえると鳥飼汐干潟(とりがいしおひがた)
- 本の地図参照
- 菊地勢に赤坂山を追われた蒙古軍の、小の集団(干潟の外)を狙うが「てつはう」にやられる・・・「蒙古襲来絵詞」の有名シーン
竹崎 季長(たけさき/たけざき すえなが)
- 鎌倉時代中期の武士。
- 鎌倉幕府御家人。
- 元寇における自身の戦いを描かせた『蒙古襲来絵詞』で知られる。
-
菊池氏の一族 であるが、同族内の所領争いに敗れて没落した。このため季長が持っていた所領は相当少なかったか、もしくは所領を失った「無足の御家人」であったと言われている。
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文永11年(1274年)、大元大モンゴル国の第一次侵攻である文永の役(元寇)では、日本軍の総大将・少弐景資が陣を敷く息の浜に主従五騎のみで参陣した。即ち季長本人、姉婿の三井三郎資長、旗指の三郎二郎資安、郎従の藤源太すけみつ、中間一騎の計五騎である。
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総大将・景資は息の浜に陣を敷き、元軍が赤坂から博多に押し寄せてくれば、一斉に元軍に騎射を射かける計画であった。しかし、季長は景資に、元軍に対して先駆けを行うことを申し出て、景資もそれを許可した。
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季長は手勢五騎で元軍の方に向かった。途中の赤坂では既に肥後国御家人・菊池武房率いる武士団が元軍を破り(赤坂の戦い)、多くの元兵の首を打ち取っていた。季長は武房ら武士団が帰陣するところに遭遇する。
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季長は赤坂の戦いで敗走した元軍を追って、鳥飼潟まで進出した。麁原山に陣を敷く元軍も鳥飼潟に進出したため、季長は先駆けを行う。
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しかし、季長以下三騎が負傷し、危機的な状況に陥ったが、後続から肥前国御家人・白石通泰や同国御家人・福田兼重ら日本軍が到着して、元軍を破った(鳥飼潟の戦い)。
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破れた元軍は麁原山や百道原へと敗走した。戦闘は日が暮れたのを機に終結し、後日の戦闘続行を困難と判断した元軍はその夜に博多湾から撤退し、文永の役は終結する。
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季長の武功は負傷したのみであり、戦功とは認められなかったかあるいは事務的な手違いで報告されておらず、恩賞も与えられなかったと言われている。季長は「先駆の功を認めてほしい」と、建治元年(1275年)6月に馬などを処分して旅費を調達し、鎌倉へ赴いて幕府に直訴する。
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同年8月には恩賞奉行である安達泰盛との面会を果たし、恩賞地として肥後国海東郷(現熊本県宇城市海東地区)の地頭に任じられた。泰盛との対面がかなったのは、季長の烏帽子親である三井季成と幕府実力者との繋がりによるものと見られる。
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弘安4年(1281年)、第二次侵攻である弘安の役では、肥後国守護代・安達盛宗(泰盛の子)の指揮下において、志賀島の戦いや御厨海上合戦で敵の軍船に斬り込み、元兵の首を取る等の活躍をして軍功を挙げ、多大な恩賞を与えられた。戦後の永仁元年(1293年)には元寇における自らの武功や鎌倉へ赴く事情などを中心に『蒙古襲来絵詞』(竹崎季長絵詞)を描かせ、甲佐大明神へ奉納した。このとき季長に恩賞の便宜を取り計らった泰盛や景資らは、弘安8年(1285年)の霜月騒動で滅びており、恩義のある彼らへの鎮魂の意味があると考えられている。
永仁元年(1293年)、菩提寺・塔福寺を建立して出家し、法喜と号する。同年、所領の郷社に対して祭田・修理田・出挙などに関する7か条の置文を定め、正和3年(1314年)には更に18か条の置文を改めて制定した。元亨4年(1324年)3月4日、海東神社に対して修理費用として銭162貫文、米67石、田1町を寄進した記録が残っているが、以降の消息は不明[3]。
熊本県宇城市小川町東海東の塔福寺に葬られた。また、同市小川町北海東にも季長のものとされる墓があり、平原公園として整備されている。
大正時代、元寇において前線で命を張った指揮官にも栄誉を与えるべきではないかという議題が持ち上がり、大正3年(1914年)11月の大嘗会で、従三位という高位を追贈された[1]。したがって季長への敬称は「竹崎季長卿」である。
- 赤坂の戦いで敗走した元軍の大勢は、小高い丘である麁原山(そはらやま)がある麁原へと向かい、小勢は別府(べふ)の塚原に逃れた。
- 塚原に逃れた一部の元軍は、麁原の元軍本隊に合流しようと早良郡にある鳥飼潟(とりかいがた)を通って逃れようとしたが、肥後の御家人・竹崎季長ら日本軍がそれを追撃した。
- しかし、竹崎季長は馬が干潟に足を取られて転倒したため、元軍小勢を取り逃がしてしまったという
平賽鉄賽四三賽(ひょうさいかなさいしさんさい)
- 作品中、先駆け前に竹崎季長(たけざきすえなが)が言った言葉
- 後で竹崎季長(たけざきすえなが)が口にふくんで吹いた賽の目が四三になっていたというシーン
- 『梁塵秘抄』博打の好むもの、平賽子(ひょうさい)鉄賽子(かなさい)四三賽子(しそうさい)、それをば誰にうち得たる、文三刑三月々清次とか
- 右京の行政長官であった藤原明衡が11世紀半ばに記した『新猿楽記-雲州消息』より・・・大君(おほいきみ=長女の意)の夫は、高名の博打(ばくちうち)なり。筒(どう)の父(おや)、傍(あたり)に擢(ぬ)け、賽の目、意(こころ)に任す。語条、詞を尽し、謀計術を究む。五四(ぐし)の尚利目、四三(しそう)の小切目、錐徹(きりどほし)、一六の難(だ)の呉流(くれながし)、叩子(おおいこ)、平賽(ひやうさい)、鉄賽(かなさい)、要筒、金頭(かながしら)、定筒(じようどう)、入破(いれわり)、康居(たらすえ)、樋垂(えいひれ)、品態(ほうわざ)、賽論(さいろん)、猶、宴丸(えんくわん)、道弘(みちひろ)に勝れり。即ち四三、一六の豊藤太(ぶとうだ)、五四(ぐし)、衝四(しうし)の竹藤掾(ちくとうじよう)の子孫なり。字は尾藤太(びとうだ)、名は伝治(すけはる)、目細く鼻扁(ひら)にして、宛も物の核(さね)の如し。一心(しん)、二物(もつ)、三手(しゆ)、四勢(せい)、五力(りき)、六論(ろん)、七盗(とう)、八害(がい)、欠けたる所なきか。➡意味・・・伝治という名の長女の夫は、目が細く鼻が扁平で容貌の良くない男であるが、雙六賭博の名人である。それで、賽の目の四と三、一と六を自在に出すことの出来る豊藤太や五と四、四と四の目を望むままに出す竹藤掾という有名な博奕打の子孫と称して、字を尾藤太という。尾藤太も五と四、四と三、一と六などの目を自在にあやつり、宴丸や道弘のような博奕の上手より勝れているという。(一)心をゆったりと持ち、(二)賭物は十分に用意しておき、(三)技術的な修練を積み、(四)勢いのある打ち方をして、(五)力づくでも勝ち通そうとし、(六)言葉でも相手を言いくるめ、(七)相手の賭物を盗み取り、(八)相手を殺してでも賭物を奪い取る。勝つためには、これで不足は無いであろうか。
やがて他の日本軍も到着しはじめるが、散発的
蒙古軍も未だ小舟を使って、上陸部隊のピストン輸送中
<時>文永11年10月20日
- 1274年11月26日
- 鳥飼(とりかい)合戦になだれこむ
鳥飼潟の戦い
- 麁原一帯に陣を布いていた元軍は、銅鑼や太鼓を早鐘のように打ち鳴らしてひしめき合っていた。これを見て先駆けを行おうとする竹崎季長に対して、郎党・藤源太資光は「味方は続いて参りましょう。お待ちになって、戦功の証人を立ててから御合戦をなされよ」と諫言したものの、竹崎季長はそれを振り切り「弓箭の道は先駆けを以って賞とす。ただ駆けよ」と叫んで、元軍に先駆けを行った。元軍も麁原から鳥飼潟に向けて前進し、鳥飼潟の塩屋の松の下で竹崎季長主従と衝突した
- 竹崎季長主従は、元軍の矢を受けて竹崎季長、三井資長、若党以下三騎が負傷するなど危機的状況に陥ったが、後続の肥前の御家人・白石通泰率いる100余騎が到着し、元軍に突撃を敢行したため、元軍は麁原山の陣地へと引き退いた。
- 同じく鳥飼潟に駆け付けた肥前の御家人・福田兼重の文書によると、早良郡から元軍が上陸したことを受けて、早良郡に馳せ向かうよう武士らに下知が下り、早良郡へと馳せ向かった福田兼重ら日本軍は、鳥飼潟で元軍と遭遇して衝突した。豊後の御家人・都甲惟親(とごう これちか)は鳥飼潟の戦いにおいて奮戦。後にその功績により豊後守護・大友頼泰から書下を与えられた。これら武士団の奮戦により、元軍は鳥飼潟において日本軍に敗れ、同じく早良郡のうちにある百道原へと敗走した。
<場>対馬海峡
- 蒙古船
<時>数日前
<人>金侁(キンシン)
- 蒙古の将軍
- 帆の故障で出帆が遅れたため博多への到着を急ぐ
- 神経質
<人>帳明福(チヨウミンフク)
- 流人
- 宋人の博多商人
- 通訳兼水先案内人として蒙古船に乗船させられる
<人>朽井迅三郎(くちいじんざぶろう)
- 流人ながら対馬武士団をまとめ蒙古に対抗
- 敵船に潜伏して博多を目指している
<時>文永11年14日
<場>壱岐
- 壱岐を襲った蒙古軍は2日で島を制圧
- 大虐殺
<人>天草大夫(あまくさだゆう)大蔵太子(おおくらふとこ)
<人>蘆進義(ロシンギ)
- 歴戦の兵
朽井迅三郎(くちいじんざぶろう)、蒙古船で大立回りして、天草大夫(あまくさだゆう)大蔵太子(おおくらふとこ)の小舟に乗り移る
- 帳明福(チヨウミンフク)も一緒にうつった
- 天草大夫(あまくさだゆう)大蔵太子(おおくらふとこ)は、博多には連れていくが、流人は太宰府へ届けるといった
雑記帖
本書の地図参照
てつはう