Corona Borealis

*読書*

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本棚 ゴールデンカムイ 21 (ヤングジャンプコミックス) (日本語) コミック – 2020/3/19 野田 サトル

 

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I found a book that I want to read.

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ゴールデンカムイ 21 (ヤングジャンプコミックス) (日本語) コミック – 2020/3/19 野田 サトル

 

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本と作家のリスト
 

f:id:coronaborealis:20170710085409g:plainアイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」 (集英社新書) (日本語) 新書 – 2019/3/15
中川 裕 (著), 野田 サトル (イラスト)

 

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映像リスト

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memo

<場>樺太

樺太(からふと)

  • 樺太島(からふととう、ロシア語: Сахалин、中国語: 庫頁島(クーイェーダオ))、サハリン、サハリン島
  • ユーラシア大陸の東方、オホーツク海の南西部にある島。広義の日本列島に含む場合もある
  • 南北約948km、東西の幅最大約160kmで南北に細長い。面積76,400km2は世界第22位で21位の北海道(78,073km2)より若干小さい
  • 1945年(昭和20年)までは北緯50度線を境にして、日露戦争後のポーツマス条約により国際法の下日本領に復帰した南半分(南樺太)を「樺太(カラフト)」として大日本帝国が、北半分(北樺太、北サハリン)を「サハリン(ロシア語: Сахалин)」としてソビエト連邦が領有していた
  • 日本領有下においては、南樺太およびその付属島嶼を指す行政区画名として「樺太庁」が使用された
  • 第二次世界大戦末期、沖縄県における沖縄戦に続いて、日本本土(内地)最後の戦いが行われた地である(樺太の戦い)
  • 戦後はロシア連邦北樺太の領有に加え、南樺太をも実効支配している。人口約50万人で最大都市はサハリン州の州都でもあるユジノサハリンスク(人口約18万人。日本名: 豊原)。現在、サハリンプロジェクトが進められている
  • 樺太は、北部と南部でそれぞれ異なる沿革を経たため、ここでは北緯50度線以北を「北樺太」(または「北サハリン」)、以南を「南樺太」と表記する
  • 「からふと」の名は、一説にはアイヌ語でこの島を「カムイ・カラ・プト・ヤ・モシリ 」(kamuy kar put ya mosir) と呼んだ事に由来すると言う
  • これはアイヌ語で「神が河口に造った島」を意味し、黒竜江アムール川)の河口から見てその先に位置することからこのように呼ばれたとされる
  • 尚、樺太アイヌ語では、「陸地の国土」を意味するヤンケモシリと呼ばれ、 北海道アイヌ語ではカラプト Karapto と呼ばれる 
  • 古くは1646年(正保3年)に成立した松前藩の歴史書新羅之記録』に「唐渡之嶋」として見え、正保日本図にも「からとの嶋」が描かれている
  • 1669年(寛文9年)の史料では「からふと」(「奉言上覚」『津軽一統志』)「からふとの島」(『蝦夷蜂起注進書』)という表記が確認できる
  • 1700年(元禄13年)の『松前島郷帳』には「からと嶋」とある
  • 1704年(宝永元年)に蝦夷地へ渡った正光空念の史料では「からふと」「からふと嶋」という表記が多いものの、「唐ふとう嶋」「からふとふしま」「からとのしま」といった表記も見られる
  • 1783年(天明3年)の『加模西葛杜加国風説考』では「カラフトの北にサカリインといふ大嶋有」とし、同書の付図では「カラフト」を大陸と地続きの半島として描き、別に「サカリイン」を島として描いている
  • 1785年(同5年)の『三国通覧図説』においても「カラフト嶋」は大陸の半島として描かれ、別に「北海中ノ一大国」として「サガリイン」を描いている
  • 1809年(文化6年)以降は東西の蝦夷地に対して北蝦夷地とも呼ばれた(それ以前は西蝦夷地に含まれた)
  • その後、明治政府が北海道開拓使を設置するにあたり「樺太」という漢字表記が定められる
  • 「サハリン」(古くは「サガレン」と表記)という名称は、清の皇帝が3人のイエズス会修道士に命じた清国版図測量の際に、黒竜江満州語名:ᠰᠠᡥᠠᠯᡳᠶᠠᠨ
    ᡠᠯᠠ 転写:sahaliyan ula、サハリヤン・ウラ)河口の対岸に島があると聞き、そこを満州語でサハリヤン・ウラ・アンガ・ハダ(ᠰᠠᡥᠠᠯᡳᠶᠠᠨ
    ᡠᠯᠠ
    ᠠᠩᡤᠠ
    ᡥᠠᡩᠠ 転写:sahaliyan ula angga hada、「黒竜江の対岸の島」)と呼んだことに由来する。
  • ポーツマス条約調印以降の日本では、単に「樺太」と言えば南樺太を指したため、北樺太を指してサガレン(薩哈嗹)と呼ぶ場合もあった。「サガレン州派遣軍」などは、その一例である。
  • 中国語では清の時代の呼び名である「庫頁島」(クーイェダオ)と呼ばれる,由來は苦夷。
  • ロシア語の音訳である「薩哈林島」(サハリンダオ)も使われる。
    地理

 <人>稲畑 勝太郎(いなばた かつたろう)

  • 1862年12月21日(文久2年10月30日 - 1949年(昭和24年)3月30日)
  • 明治・大正・昭和前期の日本の商人(染料薬品商)、実業家、政治家・貴族院議員
  • 稲畑産業株式会社(創業時の名称は稲畑染料店)の創業者であり、染料、染色業界の発展に尽力した。正五位勲三等。
  • シネマトグラフの輸入
    1896年(明治29年)、毛斯綸紡織の社用でフランスに渡った際、リヨン留学時代の友人であるオーギュスト・リュミエールから、彼が弟と発明したシネマトグラフの上映を観て、この光学的な装置に魅力を感じ、シネマトグラフの日本輸入に巨費を投じた。リュミエールと契約を結んだ稲畑は、装置2台とフィルム、シネマトグラフの興行権を買い取り、リュミエール社の撮影技師兼映写技師のコンスタン・ジレルを連れて、1897年(明治30年)1月に帰国した。
    同年、四条河原町近くにあった京都電燈株式会社の庭(後の立誠小学校(廃校)の敷地内)で試写実験が行われたが、映写知識がなかったため試行錯誤し、なんとか上映できるまでになり、2月に大阪の南地演舞場で初の有料の上映会を行った。これが日本初の映画興行となった。
    また、ジレルはリュミエールの要請で日本の風景や日常、芸者の踊りなどを撮影。稲畑もこれに加わっており、日本初の映画撮影にもかかわっている。ジレルが撮ったフィルムのなかにはアイヌの踊りを写したものや、列車が到着するところを写したものなどがあり、その一本に稲畑一家が食事をとっている様子を写したものもある。
    しかし、稲畑は費用が予想以上に嵩むことなどを理由に活動写真興行からは手を引き、友人の横田万寿之助・横田永之助兄弟に興行権を譲った

<場>登別

奉天会戦(ほうてんかいせん)